僕は間に合わない
皆かしこ
僕は間に合わない
いつも僕は、七時半に家を出る。
またやった。五分じゃ間に合わないのにな。
それでも悪あがきだけはする。思いっきり走るのだ。全速力で。足も腕もちぎれそうで、肺もパンクしそうだけど、これも彼女に会うためだ。
一度も話したことはない。
バスが停車しているときに、中からこちらを見ているだけ。飾り気のない栗色の髪が、ぼやけた輪郭を包んでいる。ドアが閉まりかけたときに、「待ってくれえ」と手を伸ばすのが日常茶飯事になっている。
間に合わない。
だけど今日は。今日こそは。
ーー見えたぞ!
坂の下に、ぽつんと古びたバス停がある。まだ遠い。振り返る。大きな影が迫ってきて、僕の横を通っていく。
バスだった。
ガラス窓から彼女が見えた。
バス停には人がいる。金髪の女子高生。バスが停まるとスマホの手を止め、すっと中に入っていく。
距離はあと十メートル。栗色の髪が見えかけたとき。
「ドアが閉まりまーす」
運転手の非情な声で、絶望へと落とされる。
「待ってくれえ」
にこりともせずに彼女は見る。バスが遠くなっていく。
息を切らして、バス停へと寄りかかる。
ダメだ、今日も間に合わない。
✳
会社には五分前に着く。一本遅れても大丈夫。
重要なのは、彼女に会うこと。一目惚れっていうやつだ。
パソコンを開いてニュースをチェック。僕はウェブライターだから、時事には詳しくなきゃいけない。
スポーツ記事。陸上の世界選手権でジャマイカ人が優勝した。その下には広告だ。いつもはスルーするはずだが、見出しにふと目が止まる。
『自己暗示で幸せゲット!』
ーーこれだ。
✳
翌朝。
僕は家を出る前に、五円玉を手に持った。
バスにいつも間に合わないのは、僕の足が遅いせいだ。
だから、これから速くなる。
これからもっと速くなる。
五円玉をゆーらゆら。陸上選手。そうだ、ウサイン・ボルトがいい。僕はボルトだ、稲妻だ。百メートルを九秒台で走れるようなトップアスリートに変わるのだ。
七時半に家を出る。
クラウチングスタートで、一気に道を駆け抜ける。
速いような気がするぞ。よし、これなら間に合うかも!
バス停が坂の下に見える。いつもの金髪の女子高生。
走っている僕の横を、バスが通り過ぎていく。
ーーあれ? おかしい。
僕はボルトのはずなのに、なぜか速くなっていない。
金髪少女は乗りこんで、バスのドアは閉まっていく。
ガラス窓から、あの人は僕を見つめている。無表情。
ああ、今日も間に合わない。
✳
会社のビルはいつも裏口から入る。そっちのほうが近いから。ビル下の駐車場を抜けるんだけど、その途中に同期の社員がうずくまっているのが見える。
「高橋くん、何してるの?」
覗きこむ。高橋くんはビクッとして、僕のほうに振り返る。
「なんだ、杉本か」
隠すように持っていたそれに、僕は指を差して言う。
「ローラーブレード?」
「最近よぉ、ローラーブレード通勤ってやつに、ハマってな」
高橋くんは照れくさそうに笑っている。
ローラーブレード通勤か。いいかもしれない。
「高橋くん。それ貸してくれるかな? 係長には内緒にするから」
✳
翌朝。
僕は家を出る前に、ローラーブレードを足に履く。装着完了。
僕は初心者だったけど、昨夜に猛特訓をして、なんとか滑れるようになった。今日、間に合わせるために。
七時半に家を出る。
荷物はリュックにしているから、両手は自由に動かせる。もし転んでも安心だ。
道路を滑る。この町は結構寂れているから、人もまばらで滑りやすい。
くだり坂に入っていく。ちょっと怖い。気をつけながら下っていく。
バスはまだ、僕の横を通らない。バス停だ。間に合うぞ。金髪少女のそばへ行く。
このときバスがやってくる。ドアが開く。彼女がいる。金髪少女の後ろに続いて乗りこもうとしたときに。
「それ履いてちゃダメなんじゃね?」
少女に言われて足が止まる。
ローラーブレード。
しまった、これではバスに乗れない!
「ドアが閉まりまーす」
運転手の無情な声。
「ちょ、ちょっと待って! 今、脱ぐから!」
うわずった叫びはむなしく響き、バスは発車していった。
彼女は今日も無表情でバスの中から見つめていた。
ローラーブレードを外そうとしたが、なかなか外れてくれなかった。
またまた、今日も間に合わない。
✳
会社には五分前に着く。就業開始時刻になっても、隣のデスクはからっぽだ。高橋くんは来ていない。
朝会で、係長が報告する。
「高橋は通勤中に自転車と衝突したらしい。今日は病院に行くそうだ」
ローラーブレードを持ってきたのに、これでは返せそうにない。
リュックの中に入れっぱなしで持って帰ることにした。
それにしても高橋くんは、不運な事故に遭ったものだ。
自転車と衝突かあ。
ーー……自転車。
✳
翌朝。
僕は家を出るときに、門の前に自転車を置いた。
腕時計は七時半。いつもどおりの時間だけど、これならきっと間に合うはず。今度こそ。
自転車に乗ってこいでいく。速い速い。あっという間に坂道だ。バス停には金髪少女がまだいない。タイヤがぐんぐん滑り出して、一気に坂道を下りていく。到着だ。
待っていると、金髪少女がやってきた。女子高生は僕を見やると、青い自転車を指差した。
「それ、バスに乗せられないよ」
ーーガーン。
なんてこった。自転車をどこに置くかなんて、すっかり頭に抜け落ちてた。
僕は急いで駐輪場を探し出す。幸いにも近くにあって、すぐさま停めて戻ろうとする。
バスが来ていた。遠かった。ドアが閉まり、発車した。僕はまた涙目になって、栗毛の彼女を見送った。
やっぱり、今日も間に合わない。
✳
高橋くんが復帰した。足をちょっとひねっただけで、たいした怪我ではないらしい。よかった。
帰り道。高橋くんと一緒に帰ることになり、「ローラーブレードを返せ」と言われた。
「ごめん。今日は忘れたんだ」
「ったく、しょうがねえなあ、お前は」
肩を縮ませる。「明日は持ってくるよ」と言うと、高橋くんは機嫌をなおした。
「杉本。今日は俺と飲みにいくか」
とつぜん言われて、付き合わされる。まあいいか。僕もちょうど悩んでいたし。
居酒屋で、高橋くんに相談する。バスに乗り遅れていることを。どうしたって間に合わない。彼女のことは恥ずかしいので、胸のうちにしまっておく。
「間に合わない、か」
高橋くんは神妙そうに腕を組んで考えこむ。
「入社二年目だよな、俺たち」
「うん」
「新入社員だったときは、もっと早く会社にいたよな」
「三十分前が原則だっけ」
「それがよ。だんだん業務に慣れてきたから、五分前でもよくなった。手早くやればできることを知ったから、業務開始ギリギリまで、だらけるようになったんだ」
なんとなく、わかってきた。高橋くんが言いたいこと。
僕が新入社員のときは、もっと早く起きていた。
家も早く出ていたんだ。
余裕を持って。
✳
翌朝。
リュックを背負って家を出る。七時二十分。今度こそ、間に合うはず。
空気が澄んで気持ちいい。鳥のさえずりが聞こえてくるし、垣根に咲いたキンモクセイもオレンジ色で美しい。いい匂い。
見えなかった世界が見える。坂道を下りるとバス停だ。金髪少女はすぐ後ろに歩いていて、僕たちは同時にバス停に並ぶ。
「……」
少女は僕を見つめるなり、すぐさまスマホに目を落とした。
何も言ってこないので、今日こそは問題ないはずだ。
バスが来る。僕たちは乗った。ドアが閉まる。間に合った、と思ったら。
「待ってくださーい!」
バスの外で彼女が走る。長い髪を揺らしながら、手を伸ばして追いかける。
ーーどうして彼女がそっちにいる?
車内を見ると、姿がない。人形のように無表情で見つめてくる彼女がいない。
今、外で追いかけている。遠くなる。いってしまう。
どうしよう。せっかくバスに乗れたのに。
「降りれば?」
金髪少女がぼそっと言う。僕はすぐに運転席へと駆けつけた。
「すみません、ここで降ろしてください!」
お金を払って降車した。
さっきのバス停に走っていく。息を切らした彼女の前にたどり着く。僕はドキドキさせながら、
「や、やあ?」
あいさつした。
彼女は顔を上げていき、怪訝そうに眉根を寄せる。
やばい、これでは不審者だ。
「あー、えーと……」
なんとか警戒を解かせよう。
「毎朝バス停で会ってるよね。ほら僕、いつも遅刻する人だよ」
自分で言って情けなくなる。
彼女はふふっと吹き出した。
ーーあれ? 笑った?
「今日は私が遅刻しちゃったみたいですね」
たおやかな声で彼女は言った。
「いつもと違うと、調子狂うんですよねえ」
「何かあった?」
もっと前のバス停から、彼女はいつも乗っている。このバス停ではなかったはず。
屈託なく、彼女は話す。
「友だちの家に泊まってたんです。女子会ってやつですね。つい遊びすぎちゃったなあ」
高橋くんと飲みのにいくのと同じようなものなのか。
息抜きは、誰にだって必要だ。
無表情でバスの中に立っていたのは、疲れていたからかもしれない。
「……遅刻したら、意味ないですよね」
「遅刻なんてさせないよ!」
僕は彼女の腕をつかんで駐輪場まで走り出す。停めてあった自転車を、ついうっかり忘れてたんだ。
精算して、自転車を道に押していく。
「乗って! 貸してあげるから!」
「え、いいの? それだとあなたが……」
「大丈夫。僕にもちゃんと用意がある!」
高橋くんに返そうと思ったローラーブレードをリュックから出す。
それを足に装着して、自転車のそばで回り出す。
「さあ、行こう!」
彼女と並んで走っていく。
最高に、気持ちいい風が吹きつけた。
僕は間に合わない 皆かしこ @kanika
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます