第23話 胡蝶②

「私の友達が勤めていたお店がですね、クラスターを出して畳まれたんです」


 浩一の勧めに応じて煙草に火を灯したかおりは、それを深く吸い込むと戸の方へ向かって煙を吹きかける。

 細身のその口元はほんのりと赤みを帯び、夜の喧騒を他所に気高く佇んでいた。


「こればかりは仕方のない事なんです。誹謗中傷の電話も、脅迫のチラシも、好奇の目に満ちた来店も、分かってはいたんです」


 ただ、と口にして浩一は香りが俯くのを認めて、一度だけ目を逸らす。

 視線を向け直した浩一は、ハンカチが内に折り畳まれるのを確かめてから、再びかおりの顔に目を向けた。


「ただ、私達が精一杯対策に取り組んでいても、それに合わせていただけないお客様がいらして騒ぐ。それに、友達の心は折れてしまったんです。生真面目な子でしたから、これ以上、感染症と向き合いながら仕事をしていくことに心が持たなくなりました。今、崩れた心を治そうとしています」


 肩を震わせて語り続けるかおりを浩一は何も言わず、見据え続ける。

 途中、一度だけ煙草を吸い、飛び散る火花を相槌のように鳴らしただけであった。


「だから、これは全部私怨なんです。私達がこうして苦しみながら店を守ろうとしているのに、それを気にせず刃物のような思いを振り回す方への私怨なんです。私達の苦悩の一片でも感じさせたいと思ってしまったんです」


 伏し目がちになりながらもかおりは変わらずにグラスの搔いた汗を拭い、音も立てずに戻す。

 奥からマスターの驚く声が一つ響き、戸外から歓声が一つ沸いた。


「あとは、林さんのおっしゃった通りです。時間技令でアルコール分解を調整して偽物の二日酔いを作ったんです。昔から、お客様にたくさんドリンクをいただいたときには自分に使っていたやり方の応用でしたから、難しくはなかったんです。でも、それで人に危害を加えれば司書の方は罰を与える必要があるのは分かっています。それに、やったことは私の我儘ですから、覚悟はできています」


 そう言って、かおりは浩一の方に身体を改めて向ける。

 肩を震わせつつも真直ぐ向いた眼差しに、浩一は一つ笑った。


「一つ聞いてもいいか」

「なんでしょう」

「この前来た時に、突っかかってきた野郎がいたが、あれを追っ払っちまった俺も、罰を受けねぇといけねぇかなぁ」


 かおりが目を丸くする。

 浩一は手にした水割りを半量ほど飲むと、それを軽快に卓上へと戻した。


「確かに、放っちゃおけねぇのは俺たちの役目柄仕方ねぇんだが、俺もああいった手合いは拳骨の一つでも落としてやりたくなる。だからまぁ、やり過ぎるんじゃねぇぞ」

「それは、どのような……」

「あんまりやり過ぎると、お姉さんが何か別の厄介ごとに巻き込まれるかも知れねぇ。だから、ほどほどにしておくんだ。時々、どうしても聞き分けのねぇ野郎にはきついお灸を据えてやった方がいいからなぁ」


 慌てた様子で戻ってきたマスターが何か返事を察したように、かおりに優しい声をかける。

 それを、一筋流れるものを見せぬようにしながら、かおりは何事もなかったかのように振舞おうとする。


「なぁ、マスター。少し腹が減っちまったから、下のあの店から出汁巻きの一つでも頼んでくれねぇか」

「ええ、構いませんが、それだけでよろしいですか」

「そうさなぁ、お品書きを見せてくれねぇか? お、お姉さんもマスターも何か食べたいものがあったら、頼んでやってくれ。こうした時だ、皆で食って応援してやろうか」


 かおりの明るい返事に浩一は笑い、マスターもまた微笑みを湛えながら静かに出前の品書きを差し出していた。




 それから三日を経て、浩一は伸介と美夏を連れて下通へと繰り出していた。

 弾むように歩く美夏に対して、伸介はどこか浮かぬ表情をしており、その二人の前を行く浩一は黒いマスクを着けて豪快に笑っていた。


「なるほどなぁ。あの後、久し振りだからと調子に乗って飲み過ぎて酷い目に遭った、ということか」

「そうなんですよ、大将。早い時間から二日酔いみたいになって、次の日は半日も起き上がれなかったんですから」

「まあ、伸介が起こした騒ぎの合間に解決できたんだから、それくらいの祝杯はいいんだが、美夏を連れて行かなかった罰が当たったんだろうよ」


 あの後、浩一は別件でその晩に捕らえた男のせいとし、かおりのことはおくびにも出さなかった。

 その男も技令を用いたりを働いていたのだが、これも目こぼしにして密偵として使うことにしている。


「いや、大将、流石に連れて行ける店と行けない店が」

「ほう、そんなに鼻の下を伸ばすようなところへ行っていたのか、伸介よ」


 口ごもる伸介に、豪快に笑った浩一はパチンコ屋の角を曲がってアーケードの外へ出る。

 夜の帳がネオンにほだされて染まり、しかしその道は確と闇を残す。


「美夏はお前の行く店に連れて行っても大丈夫だ。女の子がいる店だからと気に病むより、打ち明けて行っちまった方がいい。俺もカミさんには全部話してるからな」


 戸惑う伸介をそのままに、浩一は目当ての雑居ビルへと入り五階へと向かう。

 始終叫びとも嗚咽ともつかぬ声を上げていた伸介は、やがてエレベーターを降りた頃には観念したような面持ちとなり、嬉しそうに首を振る美夏を静かに見据えていた。


「いらっしゃいませー」


 浩一が戸を開くと、威勢の良い野太い男の声と元気な少女の声がする。

 カウンターにはビニールカーテンが下がり、手前には消毒薬もうがい薬も揃う。


「いつも、伸介がお世話になっているようで」


 浩一の一礼に対し、奥に控えた大柄の男性もまた応じる。

 そのやり取りの間を縫うように伸介と美夏は少女たちに誘われ、奥の席へ至る。

 浩一もまたメイドに扮した少女と対していた。


「そうか、手の消毒と検温か。ほう、服にまで除菌スプレー、と。そして、うがいをするのか。分かった、分かった。喜んで協力しよう。いやぁ、大変なのに確りされている」


 浩一の笑いが店内を包み、奥の伸介は美夏のことを揶揄からかわれて縮こまっている。

 晩秋が彩る街に、ここだけはどこか夏のような明るさが咲き誇っていた。

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肥後司書伝~浮世の裏の捕物帳 鶴崎 和明(つるさき かずあき) @Kazuaki_Tsuru

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