第22話 胡蝶①
結局その後は何事もなく、十時を前にして店を後にした浩一はその辺りを二時間ほど微行してから街を後にした。
帰りしなに銀座橋の伸介より受けた報告でも、この三日は何の動きもないという。
それがかおりの休みと今日の一件と重なることを浩一は掴んでいたが、しかし、それだけでは踏み込めぬ。
「それで、伸介はこの後、美夏のところへ行くのか」
「いや、さすがにこの時間になりますから、最近は週末以外控えてるんですよ。事情知ってるから受け入れてくれてるんですけど」
「そうか、そりゃ悪かったな。帰りに酒でも買ってやろうか、家で飲むんだろ」
「この時間ですからね。明日の朝に残らないように今日は控えますよ」
「ほう、殊勝な心掛けだ。昔の俺だったら飲んでただろうなぁ」
橋を越えてホテル街の灯りを背に行く二人は、顔を向き合わせることなく大通りへと歩を進めていく。
あたりに他の人影はなく、落葉ばかりが道を満たしていた。
「大将は俺の倍以上飲んでも平気ですからね」
「何を言ってる。これでももう弱くなったんだぞ」
「そうなんですか」
「ああ。昔より少し残りやすくなった。肝臓が弱くなっちまったんだろうな」
そこまで口にして、浩一はふと一つの考えに思い至った。
「そういえば伸介、これまで介抱した奴はマスクを着けていたか?」
「いや、皆吐いてましたから、着けてないと思いますよ。持っていたかは分かりませんが」
「なるほどなぁ、これで全てに合点がいった。よし、伸介よ、一つだけ頼みがある」
「大将、今度はどこを見て回るんですか」
伸介の問いかけに声を上げて笑った浩一は、
「今週末は五分空けてくれりゃあ飲みに行ってきていいぞ」
と告げて一度だけ伸介を見遣った。
その週末、「セイレーン」に出ていたかおりは開店早々というのに、隣の店の喧騒を耳にして溜息を吐いていた。
「お隣さんも大変だなぁ、今日は若いのが騒いでるのか」
「マスター、お店のお願いを聞いてくれないお客って、どうしてあんなに騒がしいのかしら」
苦笑しつつグラスを磨き直すマスターを見据えつつ、カウンターの内に控えた彼女は暫し口を閉ざすと、再びマスターと他愛もない話を始めた。
「おう、邪魔するぜ」
それから三十分ほどして訪ねてきた浩一を、マスターよりもかおりが先に出迎える。
戸外にまで気を配る彼女は素早くも悠然として消毒を促し、そのまま浩一を奥の席へと案内していた。
「また来てくださったんですね」
「ああ、カミさんが一見の店にすぐに行かねぇのは恥ずかしいって言うもんでな。米の水割りを貰おうか」
礼の言葉と共に浩一の注文に答えたマスターは、かかってきた電話を受けて奥へと下がる。
残されたかおりが手早く水割りを作ると、それを手にした浩一は半分ほどを一気に口にした。
「いやぁ、やっぱりお姉さんの作る水割りはいいなぁ」
その言葉に恭しく頭を垂れたかおりに、しかし、浩一は間髪を入れずに差し挟んだ。
「だがなぁ、あんまり技令を人にかけるのは感心しねぇなあ」
途端に身体をこわばらせたかおりに、浩一は構わず続けた。
「お姉さんだろ、マスクを着けねぇで店に入ろうとして文句を言う客に技令をかけて具合を悪くさせてたのは。技令を感じ取れるようだから分かってるだろうが、俺も技力を持ってるから、化かし合いは無駄だぜ」
強張っていく表情筋をそれでも無理に動かしながら、かおりは何とか言葉を紡ごうとする。
右手は固く握られていた。
「ええ、私も技令を使えるのは認めます。ですが、それは時間技令で占いをする時だけですよ、この前、お兄さんにして差し上げたように」
「まあ、それもあるんだろうが、その微弱な時間技令を俺に勘づかせたのが拙かったな。お姉さん、それを肝臓の酵素にかけてやったんだろう。アルコール分解酵素の時間を早めて、アルデヒド分解酵素の時間を遅らせる。そうすりゃ、気付かずに飲み過ぎて酒量も増えて帰る頃には二日酔いになっちまうからなぁ」
浩一は身体を震わせるかおりを見据えつつ、グラスに残ったものを空にする。
ぎこちないながらも水割りを作り直す、その姿に浩一は一つ頷いた。
「俺もやり口は分かったんだが、動機が分からんでなぁ。この前来た時の一幕がなけりゃ見逃すところだった。それでさっき、うちの若いのに騒がしたら時間技令の気配が確かにする。若いのが気付かなかったぐらい微弱で済んだのは、やることが絞られてるからだな」
浩一の言葉に、かおりの肩が落ちる。
全てが手のひらの上でおどろらされていたのだという思いからか、諦めたように天井を仰いだ。
「お兄さん、そこまでされるということは」
「ああ、俺は司書督の林だ。悪いな、こうした事件はどうしても放ってはおけねぇんだ」
かおりの吐いた溜息がマスクを通して浩一の耳に届く。
奥で電話を続けるマスターの微かな声と、隣の店の喧騒の中で二人の間にはやや暗い沈黙が流れた。
氷の傾く乾いた音がそれを破ったところで、かおりは浩一グラスの汗を拭きとり、その重たい口を開き始めた。
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