第14話『原爆と冷戦とトルーマン』
この名前を聞けば、原爆を落とした大統領。日本人では好きな人は少ない。また、冷戦の一方の主張者としてのイメージがある。
(1)生い立ち
1884年ミズーリ州で生まれる。1901年に高校を卒業、銀行の事務職に就いたが、06年に父親を手伝うために就農した。第一次世界大戦には大尉として砲兵部隊を指揮した。戦争終結後、19年に結婚、一人娘をもうけた。洋品店を友人と経営するも上手く行かなかった。22年にカンザスシティの有力民主党員の支援を受け、ジャクソン郡の郡判事に当選。これをきっかけに政治の世界に入る。判事と名前がついていたが
郡判事は司法官ではなく、道路改良のような行政の職務であった。ここでの実績が認められ、34年上院議員に当選。54歳であった。ルーズベルト大統領のニューディール政策を支持して活動した。再選後の41年には、軍事費の不正使用に関する調査委員会の委員長になり、浪費を抑え、知名度を上げる。44年には4選を果たしたルーズベルト大統領のもとで副大統領に就任。1945年4月12日に大統領が急死し、大統領に昇格。副大統領になって82日目という幸運であった。
(2)副大統領指名
ルーズベルト3期政権の副大統領を勤めたヘンリー・ウォーレス*が有力視されていた。これに民主党保守派が強硬に反対しルーズベルトはやむなく妥協し、トルーマンの指名となった。ルーズベルトが副大統領候補にトルーマンを指名したと聞いて何より驚いたのはトルーマン自身であった。
党大会では普通、指名された候補者がすんなりなるものであったが、民主党急進派の支持があってウォーレスが第1回投票では1位になる。過半数ではなかったので2回目の選挙が続いて行われるはずであったが、保守派は投票の1日延期を強行した。この間に保守派は巻き返しに成功し、2回目は僅差で拮抗。3回目の投票でトルーマンとなった。保守派は理想肌のウォーレスを嫌ったのである。ルーズベルトはウォーレスを商務長官として報いた。
副大統領は退屈極まりない飾り物的な存在か、次期大統領候補の有力者かどちらかであった。トルーマンは重要会議には呼ばれることもなく、原爆の開発計画すら知らされていなかった。
(3)大統領トルーマン
大統領に就任した1945年4月は、ナチス・ドイツの崩壊が秒読みの段階にあり、大平洋戦争では沖縄激戦の最中で、本土上陸作戦が検討され、戦争の終結は直近な段階であった。
アメリカ大統領には二つの大きな課題(任務)があった。一つは英ソとともに世界のリーダーとして戦後世界の処理問題、もう一つは戦時経済を平時経済にソフトランディングさせることであった。大戦中は協力関係にあったソ連であったが、占領地を巡る問題で意見が対立し、国内においては、インフレーションが予想され、大量の復員兵を含めた平時における雇用の問題、大不況、戦時でこそ我慢できたニューディールに対する資本側の反撃、賃金をめぐる労使の対立が予想される難題を抱えた時代をトルーマンは担うことになったのである。
(4)トルーマンと原爆投下
トルーマンが原爆計画を知らされたのはヘンリー・スティムソン陸軍長官からであった。「ほとんど信じられない開発が進行中で、恐るべき力がやがて我々の手中に入るはずであった」と回顧録で記している。実験の成功の報告はポツダム会談が始まってすぐに知らされた。チャーチルは急にトルーマンが元気になり、強気の発言になったことに驚いたと言っている。
ポツダム会談はナチス・ドイツの降伏を受けて、1945年7月17日から8月2日まで、ソ連占領地域となったポツダムに、アメリカ、イギリス、ソ連の3カ国の首脳が集まって行われた、第二次世界大戦の戦後処理を決定する会談であった。内容は同年2月に決められたヤルタ協定を引き継ぐものであった。会議の最後にはポツダム協定が策定され、また日本政府に対して無条件降伏などを求めるポツダム宣言が7月26日表明された。
ポツダム協定の主な内容は、
ドイツ占領政策は米・英・仏・ソ4カ国による分割占領統治が確認された。また、ドイツは単一の経済単位として扱われなければならず、各占領地域での政策はこれを前提としなければならないとされた。
一番時間が割かれたのがポーランド問題であった。領土国境問題はポーランド東部をソ連に認め、ドイツ東部をポーランドに割譲する案でほぼ解決を見ていた。ソ連占領下で、「ルブリン委員会」の名で知られる臨時政府がポーランド亡命政府(米英はこれを承認していた)に対抗して宣言されていた。スターリンは「ポーランドは西側にとってはヨーロッパの庭かも知れないが、ソビエトにとっては生命線である」として、国境を接するポーランドが親ソ連政府として存在することは自然なことだと譲らなかった。結局、亡命政府ではなく臨時政府を認め、早期に干渉のない自由選挙を行い、国民の意思が表示された正式政府を作るというあいまいな妥協が図られた。
原爆投下には、トルーマンは本土上陸作戦に伴う犠牲をなくし、戦争終結を早めるのに必要であったとしているが、政府内でも異論があった。その代表が『三人委員会』であった。大戦前日本大使を勤めたジョセフ・グルー(国務省極東局長の職にあり、1945年1月から8月までの大部分の期間、国務長官代理の任にあった)を筆頭に陸軍長官スティムソンと海軍長官ジェームズ・フォレスタルの3人である。
グルーは駐日大使の経験から天皇が日本人にどれほど重要か理解していたため、ポツダム宣言に「天皇の地位保障」を盛り込む事によって原爆投下をしなくても降伏をさせられるとトルーマンに進言していた。事実、陸軍次官補ジョン・マクロイはこの線に沿って日本への降伏文書を立案し、ポツダム宣言の第12条に盛り込まれることとなった。ところが、対日強硬派のジェームズ・バーンズ国務長官の意見を取り入れ、トルーマンは宣言の内容を変更した。
ルーズベルトなら落とさなかったか?歴史に「もし」はない。開発を承認したのはルーズベルトである。しかし、国務省極東局長を対日強硬策論者のスタンリー・クール・ホーンベックから、グルーに交代させたのはルーズベルトであった。
開発に携わった科学者の中にも投下に反対する人たちがあった。物理学者レオ・シラードはやがてソ連も持つだろうことを予測し、世界の不安定化を危惧するようになり、投下を見合わせるよう政府筋に働きかけバーンズ長官とも会っている。また、大統領への請願書に研究仲間の署名を集めたが、軍の上層部に留め置かれた。
マッカーサーは原爆投下なくしても、早期に日本は降伏したであろうと回想録で語っている。アイゼンハワーはスティムソン陸軍長官に対し「アメリカが世界で最初にそんなにも恐ろしく破壊的な新兵器を使用する国になるのを、私は見たくない」(1963年の回想録)と何度も抗議したとされている。意外と軍人たちに反対論が多かったのである。
トルーマンの回想録にはこのような反対意見があったことは記されていない。ただ朝鮮戦争時に、議会で満州に原爆を投下するかの質問に答えて「それを使用されることは私は望まない。それは恐るべき兵器で、関係のない罪もない男女や子供に対して使用されるべきでない。使用されれば、無関係の犠牲者が出るのは明らかだ」と語っている。2度の投下者にはなりたくなかったようである。
トルーマンには一人娘があったと記したが、その娘のメアリーの子供クリフトン・トルーマン・ダニエル(著述家。新聞記者)が2012年に初めて来日し、広島平和記念式典と長崎平和祈念式典に出席している。
(5)トルーマンと冷戦
冷戦はチャーチルが英国首相を退任後の1946年3月、トルーマンに招かれて訪米し、ミズーリ州フルトンのウェストミンスター大学で行った『鉄のカーテン演説』から知られるようになった。
《バルトのシュテッティンからアドリアのトリエステ(イタリア東部)まで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、全てその向こうにある》と云う言葉で、今や世界は米ソ冷戦の緊張状態にあることを表明したものである。
翌年3月、トルーマンは、議会への特別教書演説でソ連の膨張主義を指摘し、いわゆる「封じ込め政策」を表明した。これはトルーマン・ドクトリンとして以後、アメリカの外交政策を規定するものとなった。具体的には議会に内戦危機にあるギリシャ*や、ボスポラス海峡を巡ってソ連の圧力下にあるトルコ*に軍事と経済援助を与える承認を求めたものであった。
*ギリシャ問題
ポツダムにおける戦後処理として、バルカン半島の勢力圏はハンガリー・ルーマニア・ブルガリアはソ連の範囲、ギリシャは英国の範囲と決められた。ギリシャは大戦下、ドイツ、イタリアに占領された。これに対して共産党系の民族解放戦線(EAM)がレジスタンス運動を展開していた。ドイツ軍撤退後、カイロにいた亡命政府が首都アテネ入りを果たすと、同政府の中心である右派・王党派勢力と王制打倒を掲げるEAMとの間で衝突が起こった。これがギリシャ内戦である。ギリシャ人にとっては海外にあった亡命政府は遠い存在であり、EAM有利で推移していた。イギリスは王党派を援助し、内戦に介入した。巨額の対米借款を抱え、大戦で経済が疲弊していてたイギリスはこれを持ちこたえることは出来ず、アメリカに援助の肩代わりを求めたのである。ソ連はポツダム協定にそってEAMに積極的な援助は与えなかったという。
*トルコ問題
一方トルコでは、ボスポラス・ダーダネルス両海峡の管理を巡る問題が発生した。両海峡は1936年以来モントルー条約に則って管理されてきたが、1946年中に改訂することがポツダム会談で合意されていた。これを受けて同年ソ連はトルコに覚書を送付し、黒海沿岸諸国の軍艦の自由航行やソ連の軍事基地建設を前提とするソ連・トルコの海峡共同防衛などを提案した。トルコはこれに反発し、米英もトルコに同調した。この二つの問題を許すと、中東地域までもがソ連の影響下に入ることになるとトルーマンは危機を強めたのである。
世界地図を見て欲しい。ソ連ほどヨーロッパからアジアまで国境線の長い国はない。これに共産中国を加えると。ヨーロッパからアジアにかけて接する国は、東欧諸国、トルコ、イラン(イラン問題*)、アフガニスタン、パキスタン、インド、インドシナ、朝鮮とあるのである。大戦後の紛争は全てこの国境線上で起こっているのである。
アメリカの経済・軍事力の優位を持ってしても、これら全てに対応は無理とトルーマン政権は考えていた。封じ込め政策の重点はヨーロッパに置き、東アジアに関しては現状維持を基本方針とするものであった。
東欧を含めたソ連の脅威だけでなく、西ヨーロッパの復興なくして共産主義に対抗出来ないと考えるようになった。もともと、ヨーロッパ諸国は労働組合や社会主義政党の強い国々であった。戦後の経済の疲弊、飢えと貧困にある状態を解決しない限り共産主義の浸透は防げないと考えたのである。これがヨーロッパ復興計画、マーシャルプランである。
考えても見て欲しい。ヨーロッパ大陸は言うに及ばず世界中が戦場になったのである。戦場にならなかったのはアメリカ大陸だけであった。ドイツ、イタリアは敗戦下にあり、英仏は疲弊し、ソ連程甚大な被害を受けた国はなく、アジアは植民地状態にあり、中国は内戦下にあり、日本は占領下にあったのである。世界は飢餓の状態にあったとしても過言ではない。援助できる国力を持った国はアメリカだけであったのである。
このマーシャルプランには東欧諸国でも関心を示す国があった。しかしソ連はこれを封じ込め政策の一環として捉え、これを封じ、対抗手段としてベルリン封鎖を行った。このベルリン危機*が西欧軍事同盟・NATOの結成になり、対抗してワルシャワ条約機構が作られ、東西対立が固定化されることになった。マーシャルプランを東欧諸国、ソ連まで含めた内容にすべきとしたのが商務長官ウォーレスであった。トルーマンはこれに対して解任で答えた。
アメリカの中国政策は日中戦争にある蒋介石の国民党政府支援であった(ソ連も蒋介石の国民党政府を中国を代表とすると認めていた)。日本との戦争終結を急ぐルーズベルトは、ヤルタ会談でソ連との間で密約を交わした。ドイツ降伏後対日参戦を促すものであった。その代償は日本が持つ満州の権益をソ連に認めるものであった。
広島原爆投下後の8月9日未明ソ連は満州に侵攻した。日本は15日ポツダム宣言を受け入れた。これによって中国東北部において中国共産党軍は勢力を盛り返し優勢になった。アメリカは蒋介石を支援はするが、内戦には不介入が基本方針であった。国民党と共産党を停戦させるべくトルーマンはマーシャル将軍を特使として送った。マーシャルの調停は上手く行かず、蒋介石政府は腐敗し、国民の支持を受けていず、共産党軍に勝利する見込みがない旨を報告した。
1949年10月1日毛沢東は中華人民共和国の建国を北京で宣言した。これで共産主義国家群に中国が加わることになったのである。蒋介石の国民党政府は台湾に逃げ込み、毛沢東は台湾に侵攻し中国統一をするだけになった。台湾海峡で火を吹いても、アメリカは蒋介石を見限っており、あくまで中国には武力介入はしない方針であった。
トルーマンは回顧録の中で「あの広い国土と、多数の人民を持ったソ連、中国との戦争は御免こうむりたい」と述べている。中華人民共和国の成立を受けて国務長官になっていたディーン・アチソン*は「不後退防衛線(アチソン・ライン)」はフィリピン、琉球、日本、アリューシャンを結ぶ線であると発表した。このラインからは台湾と韓国はなかった。トルーマン政権の封じ込め政策の重点はヨーロパにあり、東洋においては現状維持とする受動的な封じ込めであった。1950年、朝鮮戦争が起きて、急遽台湾海峡に第7艦隊を派遣した。共産主義勢力に対して積極的な攻勢をかけない弱腰が、朝鮮戦争を引き起こしたと、共和党をはじめとする強硬派によってトルーマン政権は批判されることになった。
朝鮮戦争を巡って、「戦争の解決は勝利しかない」とするマッカーサーと、「中国本土への攻撃は世界戦争を引き起こす重大な危険を冒すことになり、政府の政策はそこにはない」とするトルーマンが対立し、自分の見解を表明したマッカーサーを越権行為として解任し、アメリカに呼び戻した。国民的英雄として迎えられたマッカーサーが議会で行ったお別れ演説があの有名な「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」である。軍部が独走した日本と比べ、シビリアンコントロールが見事に発揮されたアメリカを私は見たが、38度線の休戦は「引き分け」としても、国民には好むところではなかった。
トルーマンの共産主義脅威論は国内に過激な反共主義を生み(マッカーシズム)、トルーマンの人気は急落し、トルーマンは1953年の大統領選不出馬を決断した。次の大統領は共和党が推すもう一人の第2次大戦の英雄アイゼンハワーがなった。マッカーサーも共和党の大統領の指名候補に名乗り出たが得られた得票数は僅かであった。アイゼンハワーの外交政策はトルーマン路線とあまり変わるものではなかった。
(6)私のトルーマン評価
地味な実績からその手腕はアメリカ国内でも心配されたが、困難な時期によく対応した大統領であると私は思う。公民権法に関しては、大統領選において断固として自分の意思を貫いた。また、世界が飢餓状態にあることも認識していた(元大統領フーバーを食糧大使に任じてその調査に派遣した)。アメリカの利益のためには良き大統領と評価できても、もう少し巨視的視点で世界を、歴史を見れたかという点では、世界のリーダーとしては私の点数は辛くなる。
今、世界は相変わらず紛争は絶えず、テロの脅威の中にある。冷戦の遺物のゴミ戦争と私は見ている。冷戦は双方あってのもので、全てトルーマンの責に帰すものではないが、もう一つの選択、視点も考えてみる必要がなかったのか、回顧録の中にはその辺の迷いや苦悩は一切書かれていない。
第2次大戦でアメリカは自由解放軍として世界に評価され、圧倒的な強国になった。それだからこそ、自らの価値観に自信を持って、もっと寛容であり得たし、評価される歴史観も持ち得たのではないかと考えるのである。中国内戦に不介入と決めていたのなら、中華人民共和国はもっと早く承認されるべきであった。そうすれば朝鮮戦争も起こりえなかったかもしれない。ベトナムやキューバ革命は独立戦争と捉えることが出来た筈である。全てを共産主義の脅威論に立つがゆえに、戦争に疲弊していながら植民地主義の復活を考えた英仏を諌めることなく、その肩代わり(パレスチナ問題・インドシナ戦争等)を担ったのである。
歴史に「もし」はないと云うが、「もし」を考えることは別の選択もあり得たのではないかと、深く歴史を学ぶと私は理解している。
注釈及び資料
ヘンリー・A・ウォレス
1910年アイオワ州立大学を卒業。彼はトウモロコシの高収量品種の実験を行い、農業に関する著書を多数出版した。1915年には市場における第一の品種となるトウモロコシを考案し、彼が設立した会社は現在パイオニア・ハイブレッドとして知られ、高収益を誇る企業の一つである。
当初共和党に所属していたが、ルーズベルトのニューディール政策を支持し民主党に入党した。ウォレスはルーズベルトのもとで、1933~40年まで農務長官を、1941年から1945年1月20日まで副大統領を、4選後のルーズベルト政権下では商務長官に指名されたが、1946年9月トルーマンに解任された。1948年大統領選挙には民主党を離れ、新規結成した進歩党から出馬した。
ここで投稿している『簡単なアメリカの政党史』(6)ヘンリー・A・ウォレスの演説を参照してもらいたい。
マーシャルプラン
戦後疲弊したヨーロッパ諸国の援助を個別に対応するのではなく、ある程度の時間と計画を持った総合的な援助プランとすべきと国務長官のマーシャルが提案した。そのためヨーロッパ諸国に復興計画を立てさせその上で援助をするものとされた。そのおかげで敗戦国であったドイツ(西ドイツ)やイタリアも著しい復興を遂げた。このプランで提供された資金の多くは使途を指定され、生産に必要な機械類や生活に必要な農作物に限定されており、それらはアメリカ産のものを買うことになるので、結果として資金はアメリカに環流する仕組みになっていた。対日援助は陸軍省予算から計上されたガリオア・エロア資金と云う名前で、食糧・肥料・石油・医薬品など生活必要物資の緊急輸入という形で行われ、これらが国内で転売換金されることで資金としての性格を持った。当初無償と思われたが30~40%の返還を求められた。
マーシャルプランの費用は第2次大戦の戦費の5%、GDPの3%以下。予算は170億ドル(実際には130億ドルで終わった)とトルーマンは回顧録で記録している。
ディーン・アチソン
マーシャル国務長官のもとで国務次官を、 1949 - 1953はマーシャルの後を継いで国務長官を勤めた。しばしばトルーマンよりもトルーマン・ドクトリンに、マーシャルよりもマーシャル・プランに対して責任を負ったと評される。
ベルリン危機(封鎖)
1948年6月、西側(アメリカ・イギリス・フランス)が、マーシャルプランにのっとり、ドイツの三国占領地域の通貨改革を実施した。それに対して反発したソ連が、分割管理されていた西ベルリンを封鎖した。当時、ベルリンは、ソ連占領地区に含まれ、封鎖前は西ドイツから陸上の道路や鉄道、空路を利用して入ることが出来た。スターリンは閉鎖によって西ベルリンへの食糧・石炭・医療用品・生活用品をストップして西側の占領部隊が撤退せざるを得なくなると考えた。これに対してトルーマンは「大空輸作戦」を実行したで対抗した。15ヶ月にわたり延べ27万回、総輸送量183万トンに達し、西ベルリンの市民生活と占領軍を守った。世界は米ソの全面対決への展開を恐れたが、ソ連のスターリンが譲歩し、49年5月ベルリン封鎖を解除した。
イラン問題
第二次世界大戦下、イランは戦略的に重要な拠点となった。のイギリスとソ連の二カ国は、イランを二つに分けて占領した。一つには石油であった。イランにおける優良油田アーバーダーンの油田の権益はイギリスが持っていた。連合国の戦争遂行において極めて重要なものであり、それがナチスの手に落ちることをイギリスは恐れた。また、ドイツにかなり占領されていたソビエトにとってはアメリカからの武器支援を受けるための限られた補給路として戦略的に重要であった。イランは中立であったが、両国の圧力は逆に反発を強め、レザー・シャーは両国への協力を拒否した。イラン側のこの対応に、イギリス・ソ連は武力行使を決意し、二つに別けて占領した。第二次世界大戦が終わるとイギリス軍は撤退したが、スターリンのソ連は撤退せずに居座って北部イランでの共同の石油開発事業をイランに強要した問題を云う。
その後、モサデグを中心として民族主義運動が高揚し、石油国有化を求める声が強まり、ソ連も撤退した。その後はイギリスの国際石油資本であるアングロ=イラニアン石油会社がイラン油田の利権を独占した。 モサデグが政権を取り1951年、石油国有化政策を断行した。米英は、パフレヴィー2世を復権させるクーデターで対抗した。傀儡政権であるパフレヴィー2世の独裁政治や極端な親英米政策は国際石油資本に屈服したことを意味し、国民の信望を失っていった。こうして1979年、イスラム主義のイラン革命が起きたのである。今に及ぶイラン・アメリカの対立は根が深いのである。
これ以降も書きたいのですが、これで一応の区切りと致します。以降の大統領については、ここで投稿しています「戦争と革命の時代2・冷戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争 」や「冷戦の終結・ソ連の崩壊」や「簡単なアメリカ政党史」で触れています。
トルーマンのページの
参考図書「冷戦国家の形成」石田正治 九州大学教授
「ホワイトハウス日記」イーブン・A・エアーズ 副報道官
「トルーマン回顧録」H・S・トルーマン
大統領で綴るアメリカ史 北風 嵐 @masaru2355
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。大統領で綴るアメリカ史の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ベトナムでのハプニング/北風 嵐
★0 エッセイ・ノンフィクション 完結済 1話
ベトナム紀行/北風 嵐
★3 エッセイ・ノンフィクション 完結済 15話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます