第13話 ルーズベルトとエレノア

【第32代フランクリン・ルーズベルト】


世界恐慌から第二次世界大戦時の大統領であり、ニューディール政策と第二次世界大戦への参戦による戦時経済はアメリカ経済を世界恐慌のどん底から回復させたと評価される。ラジオを通じて国民との対話を重視した。歴代アメリカ大統領ではリンカーン、ワシントンと並んでベストスリーにランクされる。アメリカ政治史上で唯一4選された大統領である。


1882年ニューヨーク州で生まれる。父親は大農場主で鉄道会社の副社長を勤める裕福な家庭で、一人っ子で、両親の愛情をいっぱいに受けて育った。自伝を読んでいて、商店街育ちの自分と比べて嫌になるような育ち方であった。そこに背は高くハンサムで明るくて誰からも好かれると来ている。もー、こんな本、放り投げたくなった(笑い)。でも思った。こんな育ち方をしてチャーチルやスターリンとどう渡りあえたのかと本を読むのを続けた。

ハーバード大学、コロンビア大学ロースクールを卒業、弁護士を経て、1910年ニューヨーク州議会議員(上院・民主党)に当選。1913年、ウッドロウ・ウィルソン大統領によって海軍次官に任命。1920年民主党全国大会で副大統領候補に選出され、大統領候補、オハイオ州知事のジェームズ・コックスと共に選挙を戦うも、両候補は共和党に大敗。ルーズベルトは一時政界から退きニューヨークで弁護士業を始める。1928年ニューヨーク州知事で政界に復帰。

 副大統領候補として全国を遊説した時の体験を、「私は選挙の候補者かセールスマンでなければ決して知ることが出来ないような方法でこの国について学んだ」と語っている。

知事になった翌年からあの大不況である。知事として出来る範囲内で失業対策やニューディールの原型になるような施策を行って改革派知事として名前を上げる。あの有名なラジオを使っての炉辺談話もこの時に初めている。


22歳のときに、同じ一族として幼少から知っていたアナ・エレノア・ルーズベルト(19歳)と結婚する。花嫁の父親役で出席したのはあの大統領セオドア・ルーズベルトであった。エレノアは姪にあたった。フランクリンも同じルーズベルト一族であったが、よりセオドアに近くなったのである。政治の世界を志すものとして大統領を目指す考えを持ってもおかしくない。実際、政治の世界ではこのルーズベルト性は有利であった。


エレノアは聡明な女性であったが、容貌については自分でも自信がない方で、ハンサムなルーズベルトからまさか求婚されるとは思ってもいなかったと言っている。二人の子供も生まれ幸せに思われた夫婦だったが、離婚の危機が訪れた。ルーズベルトが美しい女性ルーシー・マーサーと恋愛関係に陥ったのである。離婚を話し合ったが、当時は、離婚はスキャンダルで政治家にとっては政治生命にかかわることであった。母親をはじめ周囲は説得をし、二人は和解した。ルーズベルトの政治顧問を務めたルイス・ハウ(一番の説得者)は、二人の関係は以前と全然違う関係、非常に緊密で親密な共同事業のような関係になったと語っている。エレノアは「底のぬけるような思い」だったと語っている。エレノアの最初の試練であった。このハウはルーズベルトが州議員のときに選挙を手伝ってくれた地元の新聞記者であった。終生、片腕として公私ともにルーズベルトに尽くした。


ルーズベルトにも大きな試練が待っていた。それはポリオに罹ったのである。ワクチンはまだ開発されていなかった。リハビリに励んだが、補装具と松葉杖なしでは2度と歩くことはできなかった。

「突然彼は病に倒れ、考える以外に何もすることがなかった」「彼の考えは広がり、他の人の視点から物事を見始めた。病にあり、悲嘆にくれる、貧しい生活を送る人々のことを考えた。彼は一日一日と成長していったのである」とルイス・ハウは書いている。

 大きな試練を悲嘆にくれるか、それを糧とするかは個人の資質に大きく左右される。この試練がなければ、あの恐慌から戦争の時代のルーズベルト大統領は生まれなかったと私には思えた。時の大統領フーバーは一過性の不況とみて、自然修復すると考えていた。また、失業者向けの大規模な救済計画をすることには積極的でなかった。それはアメリカ的価値観の伝統、中央政府が救済資金を与えたならば「アメリカ国民の独立心を失う」。独立独歩の精神であった。

 しかし、ルーズベルトは人の助けを借りないと立ち上がることもできない経験を通して、独立独歩の原則には限界があることを理解していたのである。


エレノアにとっても第二の試練であった。母親は息子に政界を引退して静かに暮らすことを主張した。今までは従順だったエレノアはこの時だけは頑強に反対した。彼女には彼が生涯、身障者のように扱われることが許されなかった。現役として続けるべきだと主張したのである。そして歩けないルーズベルトの欠けた部分を自分が埋めると決意したのである。それは単に健気な妻役ではなかった。彼女の自立を意味したのだと私は考える。


このようにして1932年の大統領選にフーバーに勝利し、大統領職に就くのである。この選挙戦で使った言葉がニューディル(新規巻き直し)であった。彼にも正確な考えがあったわけではなかった。「ともかくやってみよう。だめだったら次をやればよい」であった。大統領候補者になってコロンビア大学の改革的な学者や出身者を中心にした「ブレーントラスト」を結成していた。彼らをそのまま重要ポストにつけた。また、州知事時代の優秀な部下も助けにになった。女性初の閣僚に登用されたフランシス・パーキンス労働長官もそんな一人だった。


彼女は2歳年上であった。ルーズベルトとの最初の出会いは、女性の労働時間の短縮運動をしていた彼女が、女子工員を支援するため缶詰工場に来たとき、州の上院議員であったルーズベルトと会ったのである。最初の印象は「若いのに改革に気概を見せなかった」とあまりいいものではなかった。

州の産業局長にパーキンス推薦したのはエレノアであった。ニューディールの重要な柱である労働法改革、週40時間労働、労災保険制度、失業手当、児童労働の禁止等はこうして実現されたのである。


ルーズベルトが最初に行ったのは取り付け騒ぎの対応に混乱する銀行の一斉休業であった。ラジオの炉辺談話で国民に冷静さを取り戻すことを求め、政府が検査して安全なところから開業を認めるとした。実際短期間で検査を全て終えること等出来なかったのであるが、騒ぎの鎮静には役立った。

それから「100日計画」と称して矢継ぎ早な改革プランを実行していくのであった。まず失業救済事業、直接救済ではなく、社会に役立つような仕事を与えて雇用を創出するやり方であった。民間資源保存団を作り青年を雇用。事業推進局を作って学校、道路の建設。今でいう公共事業である。極めつけはあの学校の教科者で習ったTVA(テネシー渓谷開発公社)である。

やみくもに、突進しているだけだと見る批判者もあった。実際そうでもあった。ただルーズベルトには3つのRがあった。救済(relief)再生(recovery)

改革(reform)であった。やりながら整えていったのである。


労働組合の公認。労働法の整備。預金保険。証券取引委員会。矢継ぎ早であった。何よりの改革は社会保障であった。ヨーロッパやカナダでは老齢扶助や失業保険が普及していた。十分なものではなかったが、これらをアメリカで行ったのである。保守派は「社会主義的だ」と反対した、特に富裕層への増税案は民主党の中からも反対を受けた。しかし国民は圧倒的にこれらを支持した。 急進派は1933年には銀行、鉄道、公共事業の国有化のチャンスを逃したと批判した。ソ連はすでに出来ていて社会主義的な改革を唱えるものも出てきていたのである。ルーズベルトはこれらに対して「自分は今の経済体制を認めるもので。経済制度をより公正で人道的なものに導くように改革しているのだ」と答えた。


これらの両方からの反対攻撃もそうであったが、ニューディールの一番の敵は最高裁判所の介入、違憲判決であった。ニューディールの施策の多くが、州の主権を犯すとしたのであるとしたのである。これに腹を立てたルーズベルトは最高裁判事を増員して改革派を送り込む荒業をやろうとした。これはさすがに受けがよくなかった。幸い保守派の長老判事の死亡や、この荒業に心を変えたのか、改革派に転向した判事もあって、遅ればせながらニューディールの施策はかなりが実行出来たのである。では、ニューディールが恐慌克服に神通力を発揮したかと問われれば疑問であった。ある程度の回復までに10年を費やしているのである。一国の経済問題はもはや一国ではなく、世界経済と密接にリンケージする時代になっていたのである。これらすべてを一挙に解決したのが戦争(戦時経済)であった。

 しかし、ニューディールは「ニューディ-ル」連合と呼ばれるように国民の間に幅広い支持を広げ、勇気と元気を与えたことは確かである。黒人層は共和党から民主党支持者になり、以降第2次大戦のアイゼンハワーを除き、民主党の大統領の時代が戦後も続くのである。


 戦争の終結がほぼ見えた1945年4月12日脳卒中で亡くなる。63歳であった。

ルーズベルトが生きていたら、原爆投下はあったのか、それとも原爆投下の決断から救われた死だったのか、また米ソ協調が出来て冷戦はなかったのか、一国の大統領が全てを決められるわけではないが、ついそんなことを考えてしまうのである。



最後に、最初の最高のファーストレディとされるエレノア・ルーズベルトは、女性やマイノリティに関する考えはフランクリン・ルーズベルトの数歩先を行き、国民のはるか先を行ったと讃えられている。エレノアはルーズベルトが第二次世界大戦中に推し進めた日系アメリカ人強制収容に反対している。ルーズベルトはエレノアを深く尊敬していたと言う。

 エレノアはルーズベルト亡き後も、世界人権宣言にも尽力をし、1952年まで国連大使を勤め、退任後も女性の地位向上に活躍をした。日本にも来て昭和天皇とも会見している。


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