薄化粧

RAY

薄化粧


 初めて化粧をしたのは、確か高校一年の冬。二月も終わりに近い頃だった。


 きっかけは、気になっていた、同じクラスの男の子から映画に誘われたこと。もう少し言えば、映画のヒロインがハリウッドのトップ女優だったことで、自分がスクリーンの中の彼女の陰に隠れてかすんでしまうのが嫌だったから。

 今思えば、あのときの私は幼稚だった。さぞや滑稽こっけいに映ったことだろう。何せ世界でも指折りの美女に対してメラメラと対抗意識を燃やしていたのだから。

 ただ、真剣そのものだった。化粧をすることで、普段と違う、特別な自分になれる気がした。そんな私であれば、ハリウッド女優にだって負けないと思った。



 デートの前日、学校帰りに立ち寄ったのは、ターミナル駅にあるファッションビル。正面入口の脇に化粧品会社の直営店が集まっていて、いつも女性客でにぎわっている。

 きらびやかな装飾と甘美な香りに満ちた空間は、まさに「大人の世界」という表現がぴったりで、高校生の私には不釣り合いな場所。頭の中でそんなイメージが定着していたのか、興味津々でありながら、足を踏み入れるのがはばかられた。


「こんにちは」


 店の方をチラ見しながら通路を行ったり来たりしていると、背後から耳触みみざわりのいい、透き通った声が聞こえた。

 振り返った私の目に、七分袖の白いシャツの上に、チェニック丈の黒いエプロンドレスに黒いヒップハングパンツをまとった、綺麗な女性が立っていた。つやつやした黒い髪を後ろで束ね、小さな顔の中で輪郭がはっきりした大きな目が優しく見つめている。洗練された雰囲気が漂うその様は、いかにも化粧品売り場のスタッフという感じがした。


「こ、こんにちは」


 条件反射のように言葉を返した。視線を逸らしたのは、華やかな彼女と飾りっ気のない自分とのギャップに戸惑いを感じたから。全身が棒のように硬直し、心臓が口から飛び出すかと思うほど高鳴っているのがわかった。

 

「立ち話もなんですから、こちらへどうぞ」


 そんな私の緊張を解きほぐすようにニッコリ微笑むと、彼女は、右手を掲げて私を店の中へ案内する。すると、その言葉が何かの呪文であるかのように、身体が自由を取り戻し足がひとりでに動いた。


「高校生さんですよね? 何かお求めですか?」


「あの……化粧は初めてで……どんなのがいいかわからなくて……」


「そうなんですね」


 カウンターのイスに座ってもじもじした態度を取る私に、彼女は、人差し指を唇に当てて何かを考えるような仕草をする。


「少しお待ちくださいね」


 小さく首を縦に振ると、彼女は、衝立ついたての向こうへ小走りに歩いて行く。そして、一、二分が経った頃、両手に化粧品を抱えて戻って来た。

 クリーム状の淡いファンデーション。ピンク色のルージュ。薄めのアイシャドウ。微香性の香水――今思えば、どれも地味なものばかり。「特別な自分」になるためのアイテムとしてはいささか物足りない。ただ、そのときの私には、初めて見るものばかりで、どれも不思議な力を秘めた、魔法のアイテムのように思えた。


 カウンター脇の鏡の前に座ると、首からヘアサロンで使うようなエプロンが掛けられた。落ち着かない様子で周りをキョロキョロと見回す私に、隣りに座る、OL風の女性がにっこりと笑い掛ける。

 そこには、いつも外から眺めていた情景があった。そして、私はそんな景色の一部になっていた。思わず口元が緩む。きっと、私の瞳には、昔の少女マンガのヒロインのように小さな星がキラキラと輝いていたのではないか。


「アイシャドウはこれでOK――できあがりです。どうでしょうか?」


 彼女の声に、私はゆっくりと目を開けた。

 鏡の中にいるのは、穏やかな笑顔を浮かべるスタッフと生まれて初めて化粧をした私。目の前にいる自分が別人のように思えた。喜びと驚きがいっしょになったような気持ちが湧き上がる。これまで感じたことのないような高揚感を覚えた。同時に、次の日のデートは上手くいくような気がした。そんな「特別な私」であれば、すべてが上手くいくと思った。


『そろそろメイクを落とさないとね』


 視線が釘付けになったまま妄想を膨らませる私に、鏡の中の「私」が諭すように呟く。確かに、このまま家に帰ることはできない。学校から帰ってきた娘が化粧をしていたら根掘り葉掘り聞かれるだろう。大きな話になってデートへ行けなくなったら目もあてられない。

 私は、後ろ髪を引かれる思いでスタッフにクレンジングをお願いした。


★★


 その日の夜、家族が寝静まったのを確認して、購入した化粧品を手にドレッサーの前に座った。いわゆる予行演習だ。

 スタッフの説明を思い出しながら丁寧に手順を踏む。化粧をするのは二度目であるが、自分の手でするのは初めて。緊張しているせいで手が小刻みに震える。

 何とか一通りをこなしてふぅっと安堵の息を吐くと、鏡の中にもう一人の私が現れる。


『大丈夫。あなたには私がついてるから』


 彼女は、昼間と同じクールな笑顔を見せる。


「うん。そうだね」


 まるで会話でもしているかのように、私の口から言葉が漏れる。彼女の言葉がとても心強く感じられたから。

 自分を鼓舞する、真夜中の時間がゆっくりと流れていく。それは、私にとって、とても心地良く、心が躍るような時間。


 日付が変わった頃、化粧を落とすため洗面所へ向かった。

 水道の水が凍りそうなぐらいに冷たい。心なしか吐く息も白く見える。冬物のパジャマの上に分厚いカーディガンを着ていてもブルブルっと身体が震える。気温がかなり下がっているのがわかった。

 化粧を洗い流して曇った窓ガラスを手でぬぐうと、真っ暗な空間に白いもやがかかっていた。


「がんばるからね」


 いなくなった「彼女」に対してそんな言葉を掛けた私は、洗面所を後にした。



 次の日、いつもより早く目が覚めた。

 興奮していたこともあるが、カーテンの隙間から射し込む、太陽の光がいつもより眩しく感じたから。

 ベッドの脇に置いたカーディガンを羽織って、目をこすりながらカーテンを開けると、私の寝ぼけまなこに真っ白な景色――あたり一面の銀世界が飛び込んできた。


 慌てて一階のリビングへ降りると、両親がテレビを見ていた。

 テレビの画面がL字に区切られ、画面の下には「大雪情報」の赤い文字。各地の降雪情報がテロップで流れている。

 私の住んでいるN市は薄ら積もっている程度であるが、記録的な大雪に見舞われているところもある。山間やまあいの地域では、電車が運転を見合わせ、高速道路も通行止めになっている。


 不意に携帯から音楽が鳴るのが聞こえた。それは彼からのメールの着信音。以前は互いのメアドはもちろん電話番号すら知らなかったが、最近になって、緊急の連絡が必要になったときのために交換した。


『おはよう。こちらはバスも電車も止まってる。いつ動くかわからない。今日は行けそうにない。映画は延期にしよう』


 メールを見た瞬間、ため息が漏れた。同時に、身体からだの力が抜けていくのを感じた。メールの内容が予想した通りのものだったから。

 彼の家は、郊外の山間部で雪の影響を受けやすい場所。テロップを見たとき、普段彼が使っている電車が止まっているのがわかった。


 窓の方に目を向けると、雲の切れ間から眩い光が射している。外はさっきよりも明るくなっている。ただ、それはあくまで私の家の周りの状況であって、彼のところが同じというわけではない。同じ県に住んでいながら、私たちが見ている景色は似て非なるものなのだろう。

 一つ言えるのは、デートというのは二人がそろわなければ成立しないということ。こんな状況では、奇跡でも起きない限り、デートの成立はあり得ない。

 

 さっきよりも深くて長いため息をついた私は、ゆっくりと返信メールを送った。


★★★


 結局、彼とデートすることはなかった。


 学校で会ったときもなんだか照れくさくて、どちらからも映画の話を切り出すことはなく、そうこうしているうちにロードショーが終わっていた。春休みに入ったことで互いの距離は開き、四月にクラスが分かれたことで接点もなくなった。

 廊下ですれ違ったとき、どちらからとなく目を逸らしてしまう。それは、以前付き合っていたカップルが別れてしまったときの反応に似ていた。もともと好きで好きでたまらなかったわけではなかっただけに、距離が離れたことで、私達はただの「生徒A」と「生徒B」に成り下がった。


 今でも雪が降るとあのときのことを思い出す。


 もし、あの日、雪が降らなかったら私の人生は大きく変わっていたのかもしれない。「一度のデートで何が変わるの?」なんて思うかもしれないが、人生というのは、概してそういうものだ。後から振り返ると、何気ない出来事が思わぬ出会いや別れを演出していることに気付く。その中には人生のターニングポイントとして運命を左右するものだってある。


 あの日、私は、待ち合わせの時間に、待ち合わせの場所にいた。


 彼が来ないことがわかっていながら、なぜそんな行動に出たのか――それは、心のどこかで彼との出会いを「特別なもの」だと思いたかったから。もしそうだとしたら、の彼がひょっこり現れると思ったから。まるで運命に導かれるように。



 薄っすらと雪が積もった街。駅の改札に程近い、待ち合わせのモニュメント。

 現れては消えていく、カップルたちを横目で見ながら、一人の女子が佇んでいる。

 彼女は、来るはずのない誰かを待っていた。手袋をはめた手に吐きかける、白い息は、時折漏れるため息と区別がつかなかった。

 時計に目をやった彼女は、バッグの中からコンパクトを取り出す。そこには、薄化粧を施した「彼女」がいた。愁いを帯びた表情を覗かせる彼女は、口角を上げて笑顔を作るとポツリと呟いた。


『あの女優との勝負、お預けね』



 RAY

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