人魚姫セレネの狂愛
染井由乃
人魚姫セレネの狂愛
捕まってしまった。本当にうっかりしていた。
薄暗い寝台の上、天蓋から引き下ろされた薄手のカーテン越しに室内の様子をうかがう。
舞踏会へ参加していたことまでは覚えている。今日は王女様のお誕生日を祝福する盛大な宴が開かれていて、私も大好きな空色のドレスに身を包んで胸を躍らせながら参加したのだっけ。
容姿端麗な者が揃うことで有名なベルテ侯爵家の末娘として、私は堂々と広間を闊歩していた。長い白金の髪を複雑に結い上げて、ベルテ侯爵家の財力をここぞとばかりに誇示した宝石がいっぱいの髪飾りを付けた私は、たぶん、王女様をも凌ぐ麗しさだったと思う。
これは、別に自惚れているわけではない。容姿が整っていることは、我がベルテ侯爵家ではある意味一つの短所として考えられているために、正しく認識した結果に過ぎないのだ。
容姿端麗な者が揃うといえば聞こえはいいが、ベルテ侯爵家の子どもたちは常に危険にさらされて生きてきた。異様なまでの美しさは人を虜にし、場合によっては狂気としか思えぬ所業を引き起こす。
お父様の妹君は、隣国ファーロスへ旅行へ行った際に、そのまま王族に娶られてしまい帰ってこられなくなった。お祖父様のお姉様は、この王国シュタールのとある大貴族に囚われ、死ぬまで大きな城の中から出られなかったという。お父様やお祖父様も子どものころは、怪しいご婦人や紳士たちに拐かされかけたことがあったとか。
「ベルテ侯爵家の美しさは、人を狂わせる」なんて言葉があるが、まさにその通りなのだ。
ベルテ侯爵家の人々を無理やり我がものにしようとした輩は、何も初めからおかしかったわけではない。むしろ人望も厚く、社会的地位にふさわしい誠実な振る舞いをする人たちばかりだったという。
そんな彼らが、ベルテ侯爵家の人間に出会ったことで人が変わってしまった。恋は人を狂わせるというけれど、私たちベルテ侯爵家の人間が相手だと、ますますそれが顕著になるようだ。
ベルテ侯爵家の始祖は美しい人魚姫だから、その末裔たちもこうして人を狂わせて歩いているのだという人もいる。確かにベルテ侯爵領は広大な海に面しているけれど、どこからそんな話が生まれたのだろうと面白く思っていた。人魚姫なんて、時計塔に住まう魔物と同じくらいお伽話じみた存在なのに。
と、現実逃避じみた回想をしてみたところで、目の前の光景は変わらない。一人で横になるには広すぎる寝台の上、心もとない純白のネグリジェ姿で、私は震える肩を自分で抱きしめた。私はいつの間にか、見知らぬ豪奢な部屋の中に連れてこられてしまったらしい。
非常に好意的なとらえ方をすれば、体調を崩すなり意識を失うなりでまともな状態でいられなくなった私を、誰かが介抱してくれたのかもしれない。
だが、薄手の毛布の下でしゃら、と金属が触れ合う音が聞こえ、その希望的観測も打ち砕かれた。
恐る恐る毛布をめくってみれば、細い足首に銀の鎖が繋がれている。もう一端は、どうやら重い寝台の足にくくりつけられているようだ。鍵で開ける類の鎖の様で、当然ながら私の細腕ではびくともしなかった。
その光景に、ますます冷や汗が伝った。こんなの、逃げ出しようがない。
これでは、叔母様や伯祖母様の二の舞だ。どくどくと早まる鼓動を抑えようとしても、薄暗い寝室の閉塞感がますます私を焦らせる。
「目が覚めた? セレネ嬢」
薄い絹のカーテンの向こうにゆらりと人影が浮かび上がる。それも一つではない。二人分の。
「舞踏会で人に酔ってしまったのでしょう。誠に勝手ながらこちらの部屋にお連れした次第です。どうかご安心ください。ここには僕たちしかおりませんから」
二人とも、聞いたことのある声だった。この国の貴族として暮らしていれば、知っていて当然の地位のある方々だ。
「……アルミス殿下と……ロル公爵家のフェリクス様……?」
彼らの名を呼ぶ私の声は震えていた。悲しいほどに弱々しい響きだった。
実際、私は今にも泣きだしそうなのだ。訳の分からない部屋に連れてこられ、良き友人であるはずのお二人がカーテンの先にいるのだから。
「嬉しいな、セレネ。私たちの声だけで名前を言い当ててくれるなんて」
薄絹のカーテンが割り開かれ、眩い金髪の王子様が姿を現す。彼の傍に付き従うように、彼の腹心であるフェリクス様が私を見守っていた。
月影が、彼らの姿を怪しく映し出す。殿下がベッドの淵に腰かけたのを機に、びくりと肩を揺らしてしまった。
それを見たお二人は、どうにも悩まし気な甘い溜息を零す。私が怯えているのがそんなにお気に召しただろうか。
「驚かせてごめん、セレネ。どうしても、君をこの部屋に連れてきたくて……。君のために用意したんだよ。気に入ってくれると嬉しいんだけど」
殿下は翳る薄緑の瞳で私を見ていた。私たちベルテ侯爵家の者を眺めるとき、人はよくこういう目をしている。幼いころは、ベルテ侯爵家以外の人の目にはいつもこんな翳りがあるものなのだと信じて疑わなかった。
「一応僕は殿下の凶行をお止めしようとしたことだけはお伝えさせてください。何も妹姫の生誕祭にこのような……」
理知的な物腰でフェリクス様が語れば、殿下はどこか面白くなさそうに彼を睨んだ。
「ずるいな、一人だけ理性的な人間を装うつもりか?」
「滅相もない。この部屋にいる時点で僕も共犯者です」
「その自覚があるならよかった」
仲の良い二人のやり取りにも、体の震えが増すばかりだ。必死に両腕で体を抱きしめながら、怯えるようなまなざしをお二人に向けてしまう。
「どうして……どうしてこのようなことを? わたし、帰らなくちゃ……。お父様もお母様もきっと心配なさっているわ……」
思わず両眼に涙が滲む。私を愛してくださるお父様やお母様、お兄様、お姉様は、今どんな気持ちで私の帰りを待っているだろう。
「泣かないでください、セレネ様……」
フェリクス様が痛ましいものを見たと言わんばかりに顔をしかめ、紳士的に白いハンカチを差し出す。とてもじゃないが、受け取る気になれなかった。
「愛らしいセレネでも、そのように拒絶することがあるんだな」
殿下が歪んだ熱を帯びた視線で私を眺め、そっと私の白金の髪を指先で梳き始める。壊れ物に触れるような優しさを感じたが、それでも怖くて怖くて仕方がなかった。
「悪いが君には今日からここで暮らしてもらう。君ももう16歳だものな……遅いくらいだが、そろそろ縁談が決まってもおかしくない」
殿下はぎし、とベッドをきしませながら、私との距離を詰めた。ご令嬢たちを騒がせるお美しいお顔が目の前に迫っている。
「私たちは、それを許せそうにないんだ。君が他の誰かのものになるのを黙って見ているだなんて」
「王家からの打診も、我が公爵家からの打診も頑なに拒否するからいけないのですよ」
二人の言葉に、思わず目を見開いてしまう。月影を背負った二人の姿はやっぱりどうにも不穏だった。
「知らない……知りませんでした、そんな、打診があったなんて」
きっとお父様とお母様が断ってくださっていたのだろう。その事実に感謝しながらも、国内でも最高位の権力を持つ二人に捕らわれてしまったことが怖くて怖くて、ついに涙がこぼれだしてしまった。
「お願いです。私を侯爵家に帰してください」
ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、嗚咽交じりに訴えかける。
「屋敷には……小鳥がいるの。私がいなきゃ死んでしまうわ」
一年ほど前から飼い始めたばかりの、銀色の麗しい小鳥だ。私に懐いているとは言い難いけれど、私がいなければご飯を食べない繊細な子なのだ。私が帰らなかったら、おなかを空かせて死んでしまう。
だが、私の必死の訴えに、お二人はますます悩まし気な溜息をつくばかりだった。何に酔いしれているのだろう。私が小鳥を失うかもしれない、と悲しんでいるのが、そんなに嬉しいのだろうか。
殿下の傍にたたずんでいたフェリクス様もベッドサイドに跪いて、慰めるようにそっと私の手の甲を撫でた。私の小鳥の方がずっと優しく触れてくれる。
「ああ、セレネ様はなんと愛らしいのでしょう。いくつになっても純粋無垢で、可憐で……こうしてお傍でお姿を見られるだけで、とても満ち足りた気持ちです」
ベルテ侯爵家の女性に近づく殿方は、皆似たようなことをいうのだと言う。でも、信じてはいけないとお母様とお姉様が言っていた。本当に見ているだけでいいのなら、伯祖母様も叔母様も、新たな命を宿すことなんてなかったのだから、と。
その意味はよく分からなかったけれど、新たな命なんてものに興味はないな、と思った。私は今、小鳥のことを考えるので精いっぱいなのだ。可愛くて、きれいな銀色をしていて、優しい声で鳴くあの小鳥が好き。
「鳥くらい、いくらでも買ってあげるよ。異国の珍しい鳥でも、世界でいちばん美しい羽根を持つ小鳥でも、なんだって取り寄せよう。君がここにいてくれるのなら」
「いや……私はあの子がいいの」
ぼろぼろと泣きながら、私は子どものように首を横に振り続けた。殿下もフェリクス様も何もわかっていない。あの小鳥の代わりなんてどこにもないのに。
「死んじゃうわ……わたしがいないとご飯を食べないのよ。早くわたしをおうちに帰して」
きっと、今か今かと私の帰りを待ちわびている。かわいい私の小鳥に悲しい思いはさせたくない。
「ここにいれば、小鳥のことなどすぐに忘れるよ。私たちが忘れさせてあげる」
殿下は甘く微笑んで、もう一度私の髪を梳いた。その言葉に、どくん、と心臓が跳ねる。
「わたしが、小鳥を忘れる……?」
目を見開いたことに驚いたのか、殿下もフェリクス様もわずかにたじろいだような素振りを見せたが、すぐに甘い笑みを取り戻した。
「うん、何もかも忘れてしまえばいい。その方が、ひょっとすると君も楽になれるかもしれない」
「楽に……?」
小鳥のことを忘れて楽になれるなんて、まるで理屈がわからない。ただただ目を瞠って殿下を見つめていると、彼は一層私との距離を詰めて甘く微笑んだ。
「可愛いセレネ、もう何も考えなくていいよ」
殿下の指先が、私の首筋をなぞる。
駄目、私の肌に触れていいのは小鳥だけなのに。
これから起こることに、私は小刻みに震えていた。自分の体を抱きしめる腕に力がこもる。
だが、殿下がその腕を引きはがそうとしたのを引き金に、私は決意した。ぐっと彼との距離を詰め、ためらうことなくその唇に口付けたのだ。
初めこそ戸惑ったような素振りを見せた殿下だったけれど、すぐに私を受け入れる。何の熱も呼び起こさない触れ合いに黙って耐え、甘やかすように後頭部を撫でられることもじっと我慢した。
そばで見ているフェリクス様が息を呑む音が聞こえた。心配しなくてもあなたにも口付けるから、今は黙って見ていてほしい。あなたの親友が、瞳に宿った光を失っていく様を。
一分もしないうちに、変化は現れた。私を抱きしめていた殿下の手が緩んだのだ。
十分だ、とそれを機に私は間髪入れずにフェリクス様にも抱きついた。理知的な彼の瞳が一瞬警戒するように細められたけれど、ベルテ侯爵家特有の美貌を前にして拒絶できるものはそうそういない。ましてや私を捕えようとするほどに、私に執心している相手ならば。
わずかに唇を舐め、まだ紅が十分に残っていることを確認してから、フェリクス様にも口付けた。やっぱり何の感動も湧き起らない。むしろ嫌悪感すら覚えたが、仕方ない。小鳥のもとへ帰るためには必要なことだ。
間もなくして、背後で殿下が苦し気な息を吐きだした。もうそろそろ終わりだろうか。
フェリクス様はやっぱり賢いお方だから、とうとう私の意図に気づいたようだが、もう遅い。私を無理やり引きはがそうとする腕は、まるで子供の細腕のように力ないものだった。
受け入れなさい、と言わんばかりに口付けたまま微笑めば、フェリクス様はあきらめたように目を細めた。恍惚にも似た表情を浮かべ、ゆったりと瞼を閉じる。私のことが好きだったのならば、そう悪い最期でもないのではないかしら。
彼が脱力したのを機に、その体を乱雑に床に放り投げる。どさりと鈍い音がした。
二人ともまだ辛うじて息をしているようだったが、時間の問題だろう。
この口紅には人魚の鱗が細かく砕かれて混ぜられている。人魚の鱗は、普通の人間が口にすればたちまち内臓を泡のように溶かしてしまうのだ、とお姉様は仰っていた。
ベルテ侯爵家の人間は、この毒に耐性がある。噂通り、ベルテ侯爵家の始祖は人魚だからだ。
ベルテ侯爵家の女性たちは、この鱗を砕いて粉にしたものを口紅に混ぜて自衛のために使っている。男性は紅を引くわけにはいかないから、自分の飲み物に混ぜて、言い寄ってきた相手に口移しで飲ませることが多いらしい。
血の混じった泡を吐き出す殿下の上着を探り、足首につながった鎖の鍵を取り出した。体はびくびくと震えていて苦しそうだ。人魚の鱗は純粋な人間には毒性が強すぎるらしい。もう少し優しい毒であればよかったのだけれど、そもそも私を無理やり連れてきた時点で悪い人なのだから、情けをかける必要もないのかもしれない。私と小鳥を引き放そうとする人間は、死に値する罪人なのだから。
それにしても、よりにもよってこの国の未来を担う人たちを手にかけてしまったな、と小さくため息をついた。人を殺すのは初めてではないけれど、今回ばかりは相手が影響力のある人間だっただけに怯えてしまった。明日から王国は騒がしくなるだろう。しばらくはお屋敷に引きこもって小鳥と遊んでいようかしら。
鎖から放たれた私は、サイドテーブルに置いてあったワインボトルからグラスに中身を注ぎ、一気に煽った。
本当はもっと度数の高いお酒があればよかったけれど、仕方がない。軽く口をゆすいで、床に吐き出した。とても淑女のすることではないと分かっているものの、不快だったのだから仕方がない。
手の甲で口元を拭えば、赤ワインの名残と真っ赤な紅が線を描いた。
クローゼットから適当なドレスを探し出し、簡易的に身に纏う。小鳥が間違って人魚の鱗の成分に触れてしまってはいけないから、もう一度念入りに唇を拭って、家に帰るべく動き始めた。
そのころには二人とも絶命していたようで、異様な静寂が部屋に満ちていた。ご令嬢たちを騒がせる麗しいお二人も、血を吐けばそう綺麗なものではないな、と一度だけ見下ろしてから、さっさと部屋を後にする。
一刻も早くおうちへ帰って、小鳥にご飯をあげなくちゃ。小鳥のことを思うだけで、胸が温かな気持ちで満たされる気がした。
これが、愛というものなのだろう。なんて素敵なのかしら。
駆け出すように軽やかな足取りで、私は月影の中を歩いた。目指すは、愛しい小鳥の待つ、宝石箱のような私の部屋だ。
私をずっと待っていたベルテ侯爵家の馬車に乗り込み、屋敷へ戻れば、みんな私を心から心配してくれていた。仕方なく人魚の鱗の力を借りたと言えば、かわいそうに、と私を抱きしめて、慰めてくれた。
私と違い、ベルテ侯爵家に帰ってこなかった叔母様や伯祖母様も、もちろん人魚の鱗が混じった紅を引いていた。けれども彼女たちは、囚われることを選んだのだ。
それは何も、人を殺めたくないという善の心からではなく、彼女たちを捕えようとした相手を心から愛していたためらしい。二人は望んで囚われの身になったのだ。
そういう選択もないわけではないが、小鳥がいる以上、王子様や公爵家のご令息に捕まるなんて御免だ。小鳥が私を捕えようとしたら、すぐさま自分で紅をなめとって、喜んで囚われてしまうけれど。
湯浴みを終え、何度も何度も念入りに唇を洗って、ようやく私は小鳥の待つ部屋に足を踏み入れた。私が来るまで碌に照明もつけていなかったようで、月明かりだけが照らす薄闇が私を出迎える。
小鳥は、窓辺で外を眺めていた。今夜は月が綺麗だから、空を眺めていたのかもしれない。月の光と同じ銀色の髪がきらめいていて、どこか虚ろな琥珀色の瞳もどうにも美しかった。横顔を見ただけで、ほう、と感嘆の溜息が零れてしまう。
「エマ……」
小鳥は窓の外を眺めたまま、譫言のようにつぶやいた。エマというのは、彼と同様一年ほど前までこの屋敷で働いていた栗色の髪のメイドだ。
愛嬌のある可愛らしい感じの子で、私も嫌いではなかったけれど、彼と結婚するのだと嬉しそうに報告してきたから、お祝いに口付けを贈ってあげた。彼の目の前で。
私の意に沿わない邪魔な人間には、いつもこうして口付けを贈ることにしているのだ。私は彼のことが大好きなのに、私から彼を奪おうとするものだから、彼女に口付けることには何の躊躇いもなかった。
案の定エマはもがき苦しみ始め、彼の名を呼びながらあっという間に絶命した。彼は私を化け物を見るような目で見たけれど、構わなかった。彼が他の誰かのものになるよりは、嫌われているほうがずっといい。
それを機に問答無用で彼をこの鳥籠のような私の部屋に閉じ込めて、ここで暮らしてもらっていた。この生活が始まって、もうすぐ一年が経とうとしている。
この鳥籠の中にいる限り、彼は私のものだ。この部屋で、一緒に本を読んだり、ご飯を食べたり、寄り添って眠ったりする。彼はめったに話さないけれど、それでも私は彼と一緒にいるのが好きだった。
逃げ出してしまったら困るから、この部屋からは出してあげられないけれど、代わりに国中の素敵なものを部屋の中に集めた。宝石や、珍しい布地、植物、異国の物語。彼が興味を示しそうなものはなんだって集めた。そうしているうちに、気づけば大きな宝石箱のような、特別な鳥籠になったのだ。
殿下とフェリクス様の気持ちもわからないわけではなかったな、と今更ながら彼らに共感してしまう。彼らが欲しがる対象が私でなければ、案外、良いお友達として仲良くできたかもしれない。
「ただいま、レスター。遅くなっちゃってごめんなさい」
ネグリジェの裾を翻して彼のもとへ駆けよれば、やっぱり虚ろな琥珀色の瞳が私に向けられた。
「……お嬢様」
「ごはん、まだなのよね? 今ね、軽食を用意してもらっているから一緒に食べましょう」
にこにこと笑いかけるも、彼はふい、と視線をそらしてしまう。私が殺してしまったエマのことを想っていたようだから、私の顔を見るのは複雑な気持ちなのかもしれない。
そういう一途なところも好きだ。どれだけ願ったって二度と会えはしない婚約者に縋って、私に囚われ生きることしかできない彼を、不憫だとは思うけれど、私は、この憐憫ごと彼を愛している。
やがてメイドが運んできたチーズとパンを二人が使うテーブルの上に並べて、向かい合って食事を摂った。
初めはさんざん抵抗していた彼だけれど、今では私と向かい合うときだけは食べ物を口にするようになったのだ。私が手ずから運んであげることだってある。
「王女様は素晴らしい美しさだったわ。みんなに愛されていて、わたし、あの方とお友だちであることを誇りに思うの」
王女様の兄君はさっき殺してしまったけれど、王女様との友情は不変だ。兄君を失って悲しみに暮れる彼女を、私が慰めて差し上げよう。
「……お嬢様より美しい人間がそういるとは思えませんがね」
「まあ、ほめてくれるの? 嬉しい」
わかっている。彼のこの言葉が、ベルテ侯爵家の異様な美貌を皮肉っているに過ぎないということくらい。周りの人を狂わせるこの人魚の血を、嘲っているのだということくらい。
それでも、彼に褒められて嬉しかった。美しくてよかったと思う経験はほとんどないけれど、彼がそう言ってくれるならこの見目も私の宝物だ。
チーズとパンを食べ、食後にハーブティーをいただいた後は、彼と並んで本を読んだ。平民である彼は読み書きを教わらなかったらしく、文字が読めないようだから、私が毎晩読み聞かせる。
――御覧の通り、俺は読み書きもできない人間です。どうか俺を解放してください。
――どうして? 教わらなかったことができないのはふつうのことでしょう? わたしだって、お洗濯の仕方もお料理のことも知らないわ。なんでも少しずつ覚えていけばいいのよ。
彼に文字を覚える意思があるのかは知らないが、私が読み聞かせれば黙って聞いてくれる。もう逃げだすことを諦めているだけなのかもしれないけれど、それでもこうして並んで本を読む時間が私は好きだった。
半時間ほど本を読んだあとは、彼と並んで寝台に横になる。私は彼に体を寄せて、彼の左腕の付け根あたりに頭を乗せるのだ。二の腕に頭を乗せると彼の腕が痺れてしまうし、何より腕の付け根は柔らかくて枕にちょうどいい。彼の優しい香りを身近に感じられるところも安心する。
彼は少し身じろぎをして、顔だけを私とは反対側に背けて眠る。これもいつものことだった。私の顔を見なければ、エマを抱きしめて眠った夜を思い出せるのかもしれない。
今でこそ穏やかなひとときだけれども、初めてこうして寝台に横になったとき、彼は異様に私を警戒していたものだ。どうして眠らないのかと横になったまま問いかければ、彼は整った眉を寄せて私を見下ろしたのだ。
――てっきり、お嬢様は俺を襲うつもりなのかと思っていました。
――襲う? 襲うってなあに?
きょとんとして問い返せば、彼は複雑な顔をして、私から少し離れたところで横になった。その夜は私が抱きついても離れるばかりだったけれど、しばらく同じ夜を繰り返すうちに、彼の手に縋って眠ることを許してくれるようになり、今や私に腕を貸してくれるまでになったのだ。やっぱり彼はとてもやさしい。
彼を捕えるこの大きな鳥籠の中が、私にとっての楽園だった。夜の静寂は、屋敷の傍の海の気配を克明に浮かび上がらせる。穏やかな波の音に包まれながら、私は今夜も、彼の隣で心地よい眠りについた。
それから一週間ほどして、アルミス殿下の国葬が行われることになった。ベルテ侯爵家もほかの貴族たちに倣って、深い黒の喪服に身を包んで出かけなければならない。
表向きには、殿下の死は病死とされているようだった。毒殺なんて外聞が悪いから誤魔化しているのかと思ったが、そもそも人魚の鱗が持つ毒の正体に人が気付けるはずもないのだ。本気で病死だと思っている可能性もあった。
それならば都合がいい。病死のほうが、傷心の王女様を慰める文句も増える。国葬が終わった後にでも、訪ねて慰めて差し上げなくちゃ。彼女は、私の大切なお友だちだから。
その日はやけにばたばたとしていて、侯爵家中が朝から準備に追われていた。王都は混雑するだろうから、早めに発たなければいけないのに、まだお母様とお姉様の準備ができていない。
私はほとんど支度ができたけれど、黒いレースの手袋を私室に忘れてしまったことに気づき、取りに戻ることにした。普段ならばメイドにお願いするようなことだったが、私付きのメイドたちも今はお母様とお姉様の手伝いに行っている。手袋くらい、手の空いている私が取りに行けばいいと、深い考えもなく私室に立ち入ったのだ。
「……お嬢様」
やっぱり窓の外を眺めていたレスターは、私が戻ってきたことに意外そうな表情をしていた。それもそのはずだ。この部屋には着替えを終えた後、立ち入ることはない。化粧は必ず別の部屋でしていた。
「忘れ物をしちゃったの。すぐに戻らないと」
レスターに微笑みかけ、クローゼットに歩み寄り、自分の手で手袋を探し始める。メイドがいつもあさっている箱はどれだったかと記憶をたどれば、それほど時間がかからずに目的のレースの手袋は見つかった。メイドたちがきちんと管理してくれているおかげで、少しのほつれもなく、問題なく身に着けられそうだ。
早速手袋の中に指を滑らせていると、背後に影が迫っていることに気が付いた。どうしたのかと振り返れば、そこにはいつになく優しい表情で微笑んだレスターがいた。エマと働いていた時にはよく見た表情だけれど、この部屋でそんな晴れやかな笑みを見るのは初めてのことだった。
何となく胸騒ぎがして、警戒するように彼を見つめたのも束の間、彼の手が突然に私の両手首を掴む。そうかと思えばたちまち寝台の上に押し倒されてしまった。
「っ……レスター?」
彼がこんな乱暴な振る舞いをするのは始めてだ。私から逃げ出そうとあがいていたころも、決して私に暴力を振るうような人ではなかったのだから。
彼は私の両手首をシーツの上に縫い留めるようにして馬乗りになると、悲しいくらい美しい表情で笑っていた。宝石のような琥珀色の瞳には、隠し切れない翳りが浮かんでいる。
「本当に……あなたはきれいだ。きれいで、純粋無垢で、ひどいことを平気でするくせに、誰よりやさしい」
ぽた、と頬に落ちてきたのは彼の涙だった。
どうして、レスターが泣いているのだろう。彼が泣くのを見るのはエマが死んでしまった時以来だ。彼女のことを思い出して悲しくなってしまったのだろうか。
「……俺はあなたを許してはいけなかった。なにがあったって」
彼が、私を押し倒した体勢のままわずかに顔を近づける。甘い吐息を感じられる距離だ。
「でも、駄目ですね。あなたは、本当に恐ろしい人だ。あらゆる人間を狂わせる。……これ以上は、エマに申し訳が立たない。罪悪感で、どうにかなりそうなんです」
「レスター、一体何を……?」
彼の美しい琥珀色の瞳は、歪んだ熱を帯びた翳りに覆われてしまった。私にとっては見慣れた翳りだけれども、彼がこんな目で私を見ることは今まで一度もなかったのに。
「だから、お嬢様。もう――」
彼の顔が間近に迫り、はっとした。抗う間もなく彼は恍惚に酔いしれたような笑みを見せる。
「――もう、おしまいにさせてください」
それは、初めて見る彼の熱のこもったまなざしだった。同時に彼の言葉とただならぬ緊張感に、彼のしようとしていることを悟る。
彼は、私に口付けようとしているのだ。
だが、受け入れるわけにはいかない。咄嗟に顔を背けて唇を引き結ぶ。
私は今、人魚の鱗が混ざった紅を引いている。深く考えもせずに、普段と同じように自衛のために引いてしまった。万が一があってはいけないからと、紅を引いた姿で彼の前に現れることはないよう心掛けていたのに。
血が出るほどに固く唇を引き結び、何とか紅を舐めとろうともがく。痛みで涙が滲んだが、構わず私は抗い続けた。
彼は、知っているのだ。この口紅の中に、毒が含まれていることを。私が彼の目の前でエマを殺してしまったから、聡明な彼は気づいてしまったのだろう。
何とか彼の手を振りほどこうと抗うも、男女の力の差ではどうにもならない。私に触れてきた男性はすべて、あれでも優しくしようとしてくれていたのだと思い知る。指先に力がこもるばかりで、押さえつけられた手首はびくとも動かなかった。
彼は右手を私の手首から離すと、頬に添え、強引に私の顔を仰向かせた。それならば、と先ほどとは反対側に顔を背けようとするも、彼の唇が私の唇に触れる方が早かった。
「駄目っ――」
抗議の言葉は、あっさりと彼の口に飲み込まれてしまった。ぼろぼろと涙が溢れだす。それでも唇を引き結び続けるが、噛みつくように口付けられて、彼は紅と滲んだ私の血を舐め取っていった。
目的が達成されたからか、それを機に彼は甘やかすように柔らかな口付けを繰り返した。まるで恋人にするような優しい触れ方に、心が満たされていくのと同時に心臓を捻られるような鮮やかな痛みを覚える。
一分にも満たない時間だったが、私の心をいっぱいにするには充分だった。彼はようやく私から唇を離すと、苦しそうに息をしながら笑っていた。どうにも寂し気な笑い方だった。
「……あなたのことは許せない。でも――」
何かを言いかけたとたん、彼の口もとから血が零れだす。内臓を焼き溶かすような激痛に見舞われているはずなのに、どうにも安らかで満ち足りた表情をしていた。
「いや……レスター……いやっ!!」
「――さようなら……美しい人魚姫様」
彼は今まででいちばんやさしい表情で笑って、そうして静かに寝台の上に横たわった。ゆっくりと閉じられた瞼は、もう開かれることはない。確認するまでもなく、何人も殺してきた私はわかってしまった。
「レ、スター……?」
彼の口からあふれ出すどす黒い赤に、そっと手を伸ばす。
彼の内臓が泡になって吐き出されているのなら、細胞やら粘膜やらがたくさん浮いているはずで、間接的に私は、彼の内側に触れていることになるのかしら、なんて、私は頭のどこかで呆然と考えていた。指先に、ねっとりと赤が絡む。まだ温かい。
その後、私はふらりと立ち上がって、宝石やら素敵な筆記具やらが集められた戸棚をあさり始めた。
「だいじょうぶ……だいじょうぶよ、一緒に逝けばさみしくないもの」
すべて彼のために集めた最高級品だったけれど、結局最後まで興味を示すことはなかったなあ、と寂しく思いながら、私は私を終わらせられるものを探していた。
なんでもいいけれど、できればナイフがいい。ナイフなら、たぶん、首のあたりを切ればすぐに終わるはずだ。
その拍子に、彼と繰り返し読んだ一冊の御伽噺が落ちてきた。ベルテ侯爵領に伝わる、人魚姫の悲しい恋のお話だ。彼が文字を覚えられるように、同じ本を何度か読むのはよくあることだった。
私はこの話が気に入っていて、好んで彼に読み聞かせたのだっけ。懐かしく思いながら彼の血の付いた手で背表紙を撫でれば、御伽噺の最後のページの裏側に、何やら書きつけられていらことに気づいた。
何か走り書いたことがあっただろうか、とぼんやりとした心地でそっと本を拾い上げれば、そこには、子供のようなつたない字でこう記されていた。
――セレネさま、俺は、あなたがすきでした。
ぽたり、と大粒の涙が本に染みわたっていく。
名前がなくとも、誰が書いたのかわかってしまった。
わかっている、この告白はきっと、壊れかけた彼の心が導き出した錯覚のようなもので、彼の心にいるのは最後までエマひとりだったのだということくらい。
それをわかっていてもなお、胸がいっぱいになった。彼をここまで追い詰めてしまった自分の罪深さと、偽りだとわかっていても喜びを感じてしまう自分の浅はかさにうんざりする。
思わず力なくその場に崩れ落ち、何をするでもなく本を抱きしめた。ぽたぽたと、どんな感情から零れているのわからない涙が頬を濡らしていく。
「レスター……」
もうこの世にはない最愛の人の名を、譫言のように呟いた。何度も何度も呟いた。
「レスター」
ああ、彼も、こんな気持ちでエマの名前を呼んでいたのかしら。
「……レスター」
私が今まで殺してきた男性たちにも、きっと彼らを心から愛する人たちがたくさんいただろう。
彼らを愛していた人たちも、こんな途方もない悲しみを味わって、涙を流してきたのかしら。答えが返ってくることがないと分かっていても、繰り返し、最愛の人の名を口にしたのかしら。
「レスター……レスター、レスター」
少し考えればすぐにわかることだったのに、私は一度だって、残された人たちの悲しみに思いを巡らせたことはなかった。他を思いやるなんて、考えつきもしなかった。
そんなだから私は、レスターがこんな道を選ぶまでに追い詰められていたことにも気づけなかったのだ。
彼は、エマを愛していた。それに間違いはないけれど、この歪んだ鳥籠に囚われるうちに、彼は私のことを好きだと錯覚するようになってしまったのだろう。あるいは、この身に流れる人ならざる血が彼を惑わせたのかもしれない。誠実な彼はエマを裏切る罪悪感に耐えられなくなって、最悪の決断に至ったのだ。
最後まで、良くも悪くも誠実な彼らしい。そういうところが好きだった。
意思とは関係なく、涙は零れ続けていた。それでも、不思議と私は笑っていたのだ。
初めて、人を思いやった。罪の重さを思い知った。
彼の口付けが、私を人魚姫から人間にしてくれたのだ。
床に崩れ落ち、泣きじゃくりながら私は声をあげて笑った。
波の音が聞こえる。あの温かな海に泡となって消える美しい結末はきっと、私などには許されていない。
贖おう。私が繰り返した残酷の対価を、今、人の身で払うのだ。彼が心から愛したエマの死を、私が殺してしまった人たちのことを、心の底から悼まなければ。
カーテンを纏めていた紐を手に取り、私はおぼつかない手で結び目を作った。すぐにちょうど頭が入るくらいの輪ができる。
これからすることは、決してレスターの後追いではない。この命で、私が犯した罪を贖うのだ。私を一方的に我が物にしようとした人たちのことはともかく、エマのような全くの無罪の人たちもたくさん手にかけているから、こんなことで許されるとは到底思えないけれど。
輪を首に通し、最後に窓の外を見やる。
「それでも愛しているわ」
胸には彼と繰り返し読んだ御伽噺を抱きしめて、瞼の裏の愛しい人に告げた。
「愛しているの、レスター」
彼がエマとよく立ち寄っていた白い砂浜が、ここからよく見える。その奥で、陽の光を反射する銀色の海が、優しい音を立てて揺れていた。
彼は、この景色をずっと眺めていた。あの砂浜に、栗色の髪を靡かせて笑うエマの幻影を見ていたのかもしれない。
ごめんなさい、ごめんなさい、レスター、エマ、名前も知らない無実の清らかな人たち。
贖罪の涙が落ちる。同時に、カーテンをまとめる留め具に紐の一端をかけたまま、私は床に崩れ落ちた。
ごめんなさい、ごめんなさい、レスター。
愛してしまって、ごめんなさい。
人魚姫セレネの狂愛 染井由乃 @Yoshino02
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