眠り姫ルーチェの盲愛

染井由乃

眠り姫ルーチェの盲愛

 今日も、神様に愛された王国ファーロスに朝が来る。


 長い眠りから目覚めれば、薄い絹のカーテン越しに陽の光が差し込んでいた。まだ朝のみずみずしさを感じられるうちに目覚めたのはいつぶりだろう。


 ゆっくりと上体を起こせば、寝台の傍に控えていたらしいメイドが駆け寄ってきて、慌てて手を貸してくれる。肩に手を添えながら、まるで子どもを相手にするかのような甘い声を出して、あれこれと世話を始めるのだ。


 16歳になった私には過剰にも思えるお世話も、もう慣れたことだった。王族の証である銀の髪を梳いてもらいながら、ぼんやりと豪奢な室内を眺める。


「……わたくしは、どのくらい眠っていたかしら」


「ちょうど一日です。本日はお早いお目覚めでなによりでございました」


 私の髪を緩い三つ編みにまとめながら、メイドは嬉しそうに教えてくれた。彼女の言う通り、私にしては早く起きた方だろう。


 もっとも、お昼になるころには再び睡魔に襲われて、眠ってしまうのだろうけれど。


 これももう、慣れたことだった。メイドの手を借りて姿見の前へ躍り出れば、青白い肌の少女の姿が映り込む。


 腰まで伸びた柔らかな銀の髪に、薄紫の瞳。お姉様やお兄様とぴったり同じ色彩を持ち合わせているというのに、私にはまるで威厳なんてものはない。16歳という年齢の割にはあまりにも華奢で、どうにも頼りなさげな姿だった。


 それもそのはず、王国ファーロスの第十三王女ルーチェ・メル・ファーロスと言えば、「白百合宮の眠り姫」と呼ばれるほど病弱な少女なのだから。


 銀糸の縫い込まれた柔らかな水色のドレスに着替えるなり、メイドの手ですぐさまベッドに腰かけさせられる。コルセットも余計な飾りもない、どちらかと言えばネグリジェに近い形のゆったりとした服だった。


 袖口から覗いたあまりにか細い手首を眺め、浮き出る青白い血管を指先でなぞった。明日死んでもおかしくないような弱々しさだ。


 もっとも、病弱と言うには語弊があるのかもしれない。私の体はほとんど正常だ。異様に眠り続けてしまうことを除いては。


 生まれつきというわけではないのだけれども、六年ほど前から、一日のほとんどを眠って過ごさなければ耐えられないような体質になってしまったのだ。毎日のように神官様に見ていただき、祈祷していただいても少しもよくならない。


 陛下もお兄様たちも、私のことはもう諦めているようだった。十歳になる前までは、小国の王族や大貴族のもとへの縁談がいくつか上がっていたようだったが、この体質ではどこにも嫁げない。亡きお母様は王宮に勤めていたメイドに過ぎず、後ろ盾も何もない私はほとんどいないもののようにして扱われていた。

 

 それでも、私にこうして小さな宮が与えられているのは、王族が血を分けた人間を蔑ろにすると国に災いが訪れるという女神メルの教えに則っているためだ。


 この国は、メルフィレール教という女神メルを祀った宗教が広く深く信じられている。神殿は王家以上の権力を持ち、国民の心の支えとなっていた。神官や巫女たちは祈祷や祝福で、国民に奇跡を分け与える女神メルの御使いなのだ。


 その神官や巫女たちは、毎年女神メルのお告げによって国民の中から選別される。出自に関係なく、選ばれたものは生涯を神殿に捧げ、神聖なる女神メルの忠実な僕として民を慈しみ守るのだ。神官や巫女が所帯を持つことは許されず、女神の御使いに選ばれる誉は一代限りのものだった。


 眠り続けてしまう可哀想な王女である私のもとにも、当然神官様がいらっしゃる。私の体を蝕む睡魔を追い払うために、祈りを捧げに来てくださるのだ。


「ルーチェ様、まもなくエトアル様がいらっしゃいますよ」

  

 メイドの言葉に、私は薄く笑んで一度だけ頷いた。それだけで私の喜びが彼女にも伝わったのだろう。まるで自分のことのように頬を緩ませながら、神官様を受け入れる準備を整えてくれた。

 

 エトアル様がいらっしゃったのは、私が目覚めて小一時間ほど経った頃だった。


 すらりとした体躯に神聖な白い外套を纏い、透ける薄絹の布で端正なお顔は隠されている。少し癖のある白金の髪は陽だまりを連想させ、ちょっとした仕草が何とも優美な方だった。おそらく、神官に選ばれる前は貴族だったのではないかと私は思っている。


 メイドは深く礼をしながら、神官様の訪れに感謝していた。エトアル様は薄布の向こうで淡く笑んで、彼女にも祝福を授ける。


 そうしてゆったりとした足取りで彼は私の居る寝台に近づいてきた。それだけで、とくん、と心臓が跳ねてしまう。


「エトアル様」


 我ながら、嬉しくてたまらないと言うような声が出た。ふわりと漂う爽やかで甘い匂いは、エトアル様の纏っている香の香りだ。何でも、神殿で焚きしめている特別な薬草の香りらしい。


「ルーチェ様、神殿よりエトアルが参りました。女神メルの祝福を」


 彼はベッドサイドに跪いて、恭しく首を垂れる。もう何年も一緒にいると言うのに、このお決まりの文句は欠かさない。敬虔な信者らしいエトアル様の姿に、ますます頬が緩んでしまう。


 そうこうしている間に、メイドが寝室から退室していく。本来ならば見張っているべきなのだろうけれど、彼女はエトアル様のことを心から信頼しているのだ。女神メルの御使いである神官様を疑うなんて、この国の国民であれば思いつきもしないことだ。


 指を組んでエトアル様の祝福の言葉に聞き入っていると、彼はベッドサイドの椅子に移動して、柔らかな笑みを見せた。


「お加減はいかがですか、ルーチェ様。お昼の前にお目覚めになったと窺って、驚いたのですよ」


 心地の良い声にまた胸をときめかせながら、私もまた口もとを緩める。


「まあ、それだけ聞くと、わたくしは御寝坊なだけの王女みたいですわね」


 この他愛もないひとときが私のすべてで、何よりの幸福だった。エトアル様と視線を絡めあい、どちらからともなく笑みを深める。


 触れ合うことは無い。王女と神官の適切な距離を保ったままに、私たちは無言で心を通わせる。互いの瞬き一つ見逃すまいと、ただじっと見つめ合うのだ。


「……今日は顔色がいい。血色が良いからか、いつにもましてお美しく見えますよ」


「お上手ですわね、エトアル様」


 褒められた喜びをあらわにしながら、そっと自らの頬に指先を触れさせた。普段より熱を帯びているのはきっと、エトアル様の前だからだ。


 ああ、でも血色がよくなってしまうのは困る。もしも陛下やお兄様方が、私が健康になったとお思いになったら大変だもの。


「今日もお薬を出しておきます。少し体調が良いからと言って、中断してはいけませんよ」


「ええ、もちろんです」


 エトアル様はベッドサイドのテーブルに小包を置き、その中から小指ほどの小さな小瓶を取り出した。彼はそれを片手に立ち上がると、私のすぐ傍までやって来て、そっと手渡してくれる。


「おひとりで飲めますか?」


「もう、子ども扱いしないでください。わたくしは16歳なのですよ」


 ほんの少し唇を尖らせて抗議をすれば、エトアル様は私を慈しむように目を細めていた。深い海色の瞳に浮かんでいるのは確かな愛しさで、その愛を飲み込むように私は小瓶の中身を一息に煽るのだ。


 お薬は、正直それほど美味しいものではない。でも、必要なことだと分かっているからちゃんと飲む。これがなければ、私はエトアル様とお会いできなくなってしまうもの。


「よく頑張りましたね、ルーチェ様」


 空の小瓶を受け取りながら、彼は視線だけで私を褒めてくれる。その海色の瞳には隠し切れない翳りと恍惚が浮かんでいて、神官様らしからぬ歪んだ熱を感じるには充分だった。


「ふふ、こうして頑張れば、私もいつかお外に出て……エトアル様のいらっしゃる神殿に参ることが出来ますよね?」

 

 再び椅子に腰かけたエトアル様に微笑みかければ、彼は含みのある視線はそのままに、端整な笑みを深めた。


「……ルーチェ様は相変わらず、ひどいお姫様だ」


「あら、エトアル様がそれを仰るなんて」


 再び視線を絡め合う。今度はお互いにどこか悪戯っぽい表情で。


 わかっている。エトアル様の祈りも治療も、すべて茶番なのだと言うことくらい。


 今飲んだ薬のせいで、私はずっと起きていられなくなってしまうのだということくらい。


 エトアル様と出会ったのは、私が10歳になった頃。まだ私が「眠り姫」になる前、王女である私のために、神官様たちが祈りを捧げに来てくれた時のことだった。


 私の縁談が本格的に動き出そうという頃だったから、小さな王女の未来が幸福に満ちたものであるように、と神殿がわざわざ彼らを遣わせてくれたのだ。

 

 当時エトアル様は16歳になろうかというお年で、まだ神官に選ばれたばかりだった。それでも神官たちの中の誰より神聖な雰囲気を持っていて、自然と私は彼に目を奪われたのだ。


 二人の視線が絡み合ったその瞬間に、たぶん、私たちは猛烈に惹かれ合ってしまった。


 惹かれ合うと言ったって、16歳の少年と10歳の少女なのだから、決して恋というわけではなかったのだけれども、それでも互いに視線を逸らせなかったのだ。理屈だとか常識だとか、そういうものから外れたところで、私は彼に心を奪われてしまった。


 それはたぶん、彼も同じだったのだろう。間もなくして彼は、祈りを込めた秘薬だと言ってあの小瓶を私に手渡してきた。ちょうど小国の王族との縁談がまとまろうかという頃だった。


 一体なんだろう、と年相応に疑問を抱いたのは一瞬のことで、仄暗いエトアル様の瞳を見て、なんとなく彼の意図を察してしまった。


 これはきっと、私の未来を狂わせる引き金だ。予定された王女としての幸福を奪って、彼のもとへ私を繋ぎ止めるための秘密の薬。ひょっとすると、呑めばたちまち命が蝕まれるような類の薬かもしれないとさえ思った。


 でも、それが彼の想いの証なら、きっとどんなお菓子より甘い素敵な毒だろう。王女と神官、どうあっても結ばれない二人に確かな繋がりを作ってくれるのなら、この小さな命も惜しくなかった。


 その小瓶の中身を飲んだ日から、私は「眠り姫」になった。長い時間起きていられず、寝台に横たわるばかりで、見る見るうちにやせ細っていったのだ。


 彼はそんな私を見て、満足そうに笑っていた。彼の纏う神聖な雰囲気でも隠し切れない歪んだ熱を垣間見て、私も心から満ち足りた想いだった。


 彼がくれる薬は、ひょっとすると私の命を短くしているのかもしれない。眠る度体が重たくなってしまうのも、魂が離れ始めている証なのだろう。


 でも、いい。それでいい、それがいい。最期の瞬間まで彼が、こうして私に囚われて笑ってくれるのなら、私はこの国でいちばん幸福な姫君に違いないのだから。


 先ほどの薬が効いてきたのか、一層重たくなる体をクッションに預けて、顔だけ彼の方へ傾ける。慈しむような微笑みが、すぐに私に向けられた。


「ねえ、エトアル様……。もしも私が長い長い眠りについてしまったら……そのときはエトアル様はどうなさるの? 私のために、祈ってくださるの?」


 彼は静かに私の言葉に耳を傾けていたが、やがてごく当たり前のことを告げるような調子で笑った。


「残念ながら祈りは捧げられそうにありませんね。僕もあなたのお傍で深く眠るつもりなので」


 その言葉に、仄暗い満足感を覚える。なんて素敵だろう。


 こんな道しか選べない私たちは、愚かで、恋とか愛というものにあまりに酔いすぎていて、世界の誰より満ち足りていた。


 これほど美しく清廉な結びつきがあるだろうか。まさに、私たちにぴったりの愛の形だ。


「ふふ……ちゃんと手を繋いでおいてくださらないと嫌よ。指を絡めて、たくさんのリボンで結びつけて、絶対に離れないようにしてね。そうじゃなきゃ、女神様の御前で迷子になってしまうもの」


 彼に触れたことは一度もない。儀礼的な手の甲への口付けすら受けたことはない。触れれば、互いに耐えられなくなると知っているから。


 だから、彼の優しい手の感触を知るのはこの命が尽きた後だ。


 ほんの少しでも温もりが残っているうちに、彼が触れてくれるといいのだけれど。短い一生をかけて焦がした恋の熱が、ひとかけらでも、彼に伝わるといいのだけれど。


「……僕が言えたことではありませんが、あなたも大概ですよね。僕らはどの面下げて女神様に会いに行くんだか」


 エトアル様はどこか呆れたように小さく息をついて、やがて意味ありげに笑った。思わず私もくすくすと声を上げてしまう。


「似た者同士ね、わたくしたち」


「本当に。どうかしているくらいには」


 再び互いに視線を絡め合う。触れ合わないこの距離でも、私たちは満ち足りていた。誰が何と言おうと幸福だった。


 やせ細った自らの指をそっと組む。まるで女神様に祈るときのように。


 この手が、彼の手と触れ合う日が待ち遠しくてならない。想像するだけでうっとりしてしまう。


 いよいよ薬が効き始めたのか、とろん、と意識が溶け始める。彼に与えられた眠りだと思えば、この微睡もどうしようもなく愛おしかった。


「エト、アル……」


 寝台に横たわり、重い瞼の隙間から愛しい人を目に焼き付ける。彼は優雅に微笑みながら、恍惚すらも思わせる満ち足りた笑みで私を見ていた。


「おやすみ、ルーチェ。……僕だけの、可愛いかわいい眠り姫」 

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