どこでもいい
しゃくさんしん
どこでもいい
彼が車いっぱいに積んだ段ボール箱を新居まで運搬し、また戻ってくる間、がらんとしてしまった部屋に身を持て余す。隅には載せきれなかった数箱の荷物がある。
一度で運びきれないほどの物を溜め込んでいたとは知らなかった。引越しをすることになって、捨てるか否かの判断には、困り果てた。すべて必要なようでもあるし、すべて捨てて構わないようにも思えた。荷物が多いと、引越しを手伝ってくれる彼に悪いから、それならなにもかも捨てていこうという思いつきを、彼が止めた。
「もったいない……まだ使うものもたくさんあるでしょう」
だからすべて残すことにした。
「思考の潔癖ですね。それなら、なにか一つの判断基準に、機械的に沿って、物を仕分ければどうですか」
「基準をくれませんか」
「それは、他人がとやかく言えることじゃありませんから……」
例えば、白いものは残すとか、そんな線引きでもよかったのに。
いつも物が散乱していたから、部屋の床を見るのは久しぶりだった。たくさんの髪が落ちていた。昨日、荷物を詰め終えて、気づき、自分の髪は抜け落ちやすいと知った。彼に見られると、きたならしいだろうか、しかし散り乱れた髪よりも、これほど抜け落ちていたにも関わらず、長々と豊かなままの髪を見られるほうが恥ずかしい。
段ボールにしまい忘れていた写真立てを、彼が車のダッシュボードに置いて、新居に持ってきた。なだらかに湾曲した、ガラス製のもの。
旅先の露店で見かけた。日光の反射がまろやかに馴染んで美しい。家へ持ち帰ってから、入れる写真がないと気づいて、空っぽのままだ。
美しい反射も、初めて見た時の、一瞬にしかなかった。光の具合、角度、周囲の陰翳。手に取ったその時に、既にすべては失われていた。
「どこに置きましょうか」
荷物を運び終えた部屋に、彼は写真立てを右手にぶら下げて、立ち呆けた。
どこでもいいです――と言おうとするすぐそばから、記憶が不意にこみ上げる。
きっと何度も口にした言葉だった。
それなのに一つだけが、妙に鮮やかに思い出される。
もし死んで今度は花に生まれ変わるとしたら、どんな場所に咲きたいかと、彼は聞いたのだった。
どこでもいい――。気のない答えになぜか満足げな彼の相槌が、暗い部屋に響く。
彼は仰向けになった。裸の胸に置かれていた手が離れてゆき、肌から熱が引く。
俺はどこにしようかな、と考え込みながら煙草に火をつける。山深い清流のほとりとか、小高い丘とか、ロマンチックだけど、たぶん落ち着かない。バイクで走る時も、山って怖いんだよ。道が険しいとかじゃなくて、きちんと舗装されてる、例えば山に周囲を囲まれた高速道路なんかでも、やっぱり怖い。どこかに吸い込まれそうで、神隠しにあうって、こういう感覚に近いのかもしれないなんて恐怖につかまるんだ、どうしても……。
沈黙を埋めようとする口ぶりに聞こえた。
まじわりのうちで、ぼんやりと応えるだけの私のぶんまで狂おうとするように、彼のからだは奮ったのだった。その苦しげな熱っぽさが睦言にもあった。からだにしても言葉にしても、沈黙をそれこそ神隠しのように、おそれるのかもしれなかった。
いじらしいみじめさだった。
山は怖いと言ったって、どこかの花屋で主婦に買われて、慎ましい一戸建ての花瓶やなんかに挿されるのも、ケチ臭くて嫌な感じだな。いかにも自然という場所は崇高すぎて落ち着かないし、あまり人間臭い場所も辛くなる……。そうだな、アウトレットモールなんか、どうだろう。あの暢気な哀しい場所で、作り物の景色でしかない一輪の花になって、作り物にしか心を開けない淋しい客たちの忙しない遊歩を、微笑んで見守るんだ。アウトレットモールに咲く花になりたいってのは、うん、いい。洒落っ気もあるし、いかにも優しい男の甘い夢だ。そう言って、彼は甲高い危うい声をあげて笑った。わたしも、いいと思った。
空の写真立てを持って佇んだ彼は、ある日を境に言葉を失った。液状のものをなに一つ口に入れてはならないという奇妙な禁制に囚われて、やがて入院させられた。アウトレットモールに咲く夢を見た彼は、極めて事務的な遺書だけを置いて、帰らぬ人となった。
絶えてそれきりになっていた。彼の両親からの連絡で知った。一人暮らしの家に長いこと籠りっきりになっていて、身に危険が迫るなか、両親の手によって入院させられたらしかった。
連絡は、部屋を引き払うから、置きっぱなしにしてあるあなたの荷物を取りに来てほしい、ということだった。
日曜日の昼頃、とても久しぶりに彼の部屋へ行った。数着の服や下着を、畳んで鞄に詰めた。
年老いた彼の父母は、部屋の入口に立ち呆けて、よそよそしくこちらを見守っていた。母親よりも父親のほうに面影があった。細くて薄い首から肩の線が、よく似ていた。
この部屋にあるものはすべて捨てますから、他にも持ち帰りたいものがあればどうぞ、と彼の父が言った。丁寧に片付けられた、物の少ない部屋。彼の父の弱々しい声は妙に冷やかに聞こえて、木製のテーブルや椅子と一緒に、わたしが関節ごとに分解され、処理されるような気がした。
何もいらないと言うのもばつが悪く思われ、目の前にあった一台の使い捨てカメラを、持ち帰った。どこで、なぜ買ったかも覚えていない、しかし一緒にいて買ったことだけは覚えていた。
せっかくだからと、現像に出してみたけれど、一枚も写真は撮られていなかった。それきり、なにも撮る気にならず、空のままわたしの部屋にある。
捨てるきっかけがあれば捨てた。
***
事務的な遺書に記された、弔いを捧げて欲しい者のなかに、わたしの名前もあったと言う。
その日の朝は、葬式に相応しい化粧というものがわからずにいっそ煩わしくなくてよいと、素面のままこころもち俯いて、家を出た。
どこでもいい しゃくさんしん @tanibayashi
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