書生姿を見た日から

B太郎

書生姿を見た日から

 持久走を終えて騒がしく音を立てる心臓が、一瞬止まったような気がした。

「あれ、同じ部活なのに知らない? あの部長がコクられたの」

 兼部している水泳部の練習を終えてすぐ、友人から唐突なスクープを聞かされた文芸部の後輩は、握ったタオルで顔を拭うのも忘れて目を見開いていた。汗が頬を伝い、コンクリートの床に落ちる。

「誰情報よ」

「はーい」

 軽い口調で先輩が手を挙げた。

「まあ、私も又聞きだけどね。書生とはクラス違うし。でも信用してくれていいよ」

 制汗スプレーのにおいも気にならないぐらい後輩の感覚は現実から遠ざかった。定まらない焦点をリセットしようと友人は彼女の目の前で指を動かす。ちっとも復旧の兆しを見せない。重症であると察して、無言で着替えたあと後輩の隣に座る。こればかりは励ましとか慰めでどうにもならない。

 部員の姿がまばらになって、ようやく後輩はもぞもぞと半袖の制服に腕を通しながら友人に尋ねる。

「先輩、オーケーしちゃうのかな」

「知らないよ。私は書生先輩じゃないもん」

 書生は文芸部部長の名字ではない。渾名あだなだ。もちろん後輩もその由来は知っていて、すごく、すごく印象深いけれど畏れ多くて名字に先輩を付けたオーソドックスな呼称を使っている。

「でもさ、高3じゃん。思い出づくりに彼女欲しいっていうのは自然なんじゃないかな。相手によるとはいえ」

「誰でもいいのかな、相手」

「だからさ、私は書生先輩じゃないんだって」

 少し尖った口振りで答えたあと、質問の真意を伏せた目から読みとって友人は溜息をつく。自分の感情ぐらい自分でなんとかしろよ。そう冷たく突き放さず、素直になるアシストをそれとなく後輩にしてやる。

「誰がなってもいいの、アンタは」

「それはいや」

 レスポンスの早さはすでに気持ちを吐露しているのと同じだった。

「答え、もう出てんじゃん」

「私はまだなんにも」

「あぁじれったいな。とりあえず本人から事実確認して、マジなら先輩が返事するまえに行動するのみ。分かった?」

 友人の率直な言葉に、後輩はただただ頷いた。ごもっともだ。ごもっともだけど、いざ相手と部室で2人きりになると予行練習どおりに呂律が回らない。

「せ、せ、先輩」

「どうした」

「先輩って、こ、こく、こく」

「そんなに慌てなくてもいいから。なにかあった」

「国語、得意ですよね。特に現代文の小説とか」

「そうっちゃそうだけど、いちばんできるのは世界史だ」

 得意教科は更衣室で聞いた噂の確認にはならない。後輩の苦笑いがちょっとだけ響いた部屋はすぐ落ち着きはらって、下校時刻のチャイムが鳴るまで2冊の文庫本のページがめくれる音だけが時折聞こえた。


                  ✑


 数枚の印刷したA4用紙を長机の上で整えて、部長の切れ長な瞳が斜向はすむかいに座る私を見据える。3秒よりも長く目を合わせられない。真夜中みたいな虹彩の黒が焼き付く。

「けっこうよかった。特に終盤にかけて、起承転結の転の部分。いなくなったと決め込んだ猫と夢で出会って、投げ捨てた首輪を一緒に探すところ」

「本当ですか」

 部長は必ずはじめに長所を挙げてくれる。たとえそのあとに何倍もの指摘が続いても、よかったという一言が聞けただけで書いた甲斐がある。ただ、最初に頂戴したお褒めの言葉に浸るせいでろくにアドバイスを活かせた試しがない。

「――で、前も言ったけど、話が全体的にふわふわしている」

「ふわふわ?」

「うん、ふわふわ」

 部長の声でそんなかわいい言葉を聞くとは予想外で、私はつい確認してしまう。もっかい部長の「ふわふわ」を聞きたいけど、そんな理由で問い返すのは申し訳ない。

「言葉がどこかから借りてきたような。展開は悪くない。ただそれは、すでにあるものを使っているから駄目にならないという話で……つまり、自分の言葉で書いていない気がする」

「はい」さっぱりした見た目と裏腹に、部長の話は回りくどい。

「今回の話みたいなら、それでもいい。ただ、そろそろ現実世界で人が人と普通に出会ったりなにかしたりするのも書いていいんじゃないかと、僕は思う」

「普通に出会ったりなにかしたり、ですか」

 ようはファンシーなものから卒業しろ、と勧められているのだ。確かに春先に出した部誌でも、私は気軽に路面電車を空に浮かべて他の部員から暖かい視線を浴びた記憶がある。そういうのが好きだし、その類しか書く気が起きない。いくら部長の提言とはいえ、気軽に肯定するのは難しい。

「構想を練るのが難しければ、自分の経験を活かしてもいい。そういう作品、プロだって山ほど書いている」

「うーん」

 経験、と言われても私の引き出しの数も、そのなかに入っている記憶もたかが知れている。

 腕を組む姿に助け舟を出そうとしたのか、部長は思いもよらぬ質問をしてきた。

「恋って、したことあるか」

「え? 恋って、あの恋ですか」

「うん。泳ぐほうじゃなくて」

 見上げた先には、たぶん普段からそうなのであろうひたむきな視線がある。緊張する必要はこれっぽちもないのに、3秒以上見つめてしまった私の思考回路はショートしてしまう。

「お、思い出すために今日はこれで失礼します!」

 リュックサックをしょって乱暴に部室のドアを閉める。一歩いっぽ踏むごとに、臆病な行動による後悔が募った。


                  ✑


 文芸部では部誌に載せなくとも、自由に作品を執筆することが奨励されている。ただ、奨励であり義務ではないため好きこのんで書く部員は少ない。

 後輩は運動部と兼部しているのにもかかわらず、その他大勢よりも熱心に取り組んでいた。週2回の有名無実な活動日にはほぼ毎回足を運び、掲載するあてもない、書生だけに読ませる習作をしたためる。かれこれ1年以上経った。すべて不純な動機が発端だ。

 道端の花が勝手に咲くように、部室で同じ時間を共有していればやがて仲良くなったり、その仲も深まったりすると後輩は楽観視していた。蓋を開けてみれば挨拶止まりで雑談はほとんどなし。すべては奥手なみずからの落ち度だと、後輩はよく認識している。距離を近づけただけではお近づきにはなれない。

 自身と書生の関係を放置しているのは、それぐらいの間柄が心地よいというのも理由の1つではある。ただ、本当のところは書生が多少かっこいいけれど告白はさすがにされないと高を括っていたのだった。

 好意を伝えた相手、書生のリアクション、2人が落ち合った場所、そもそも噂は本当なのか。気になることは山積みだったが、後輩がとるべき対抗策は決まっている。目には目を。告白には告白を。対象は見知らぬ女性ではなく、もちろん書生。

 問題はどうやって言うのか。いまだにまとまった量の雑談をした日の帰り道で顔が緩んでしまう後輩に、口頭で告げるのはハードルが高い。メッセージを送信するのはいちばんいいが、もう片方の画面の向こうにいる書生が返信するまでに過ごす時間を想像すると、すぐに答えを教えてもらうよりも心臓に悪かった。

 その場にいながら、言葉にしなくてもいい方法。

「……物語だ」

 構想を練るのが難しければ、自分の経験を活かしてもいい。

 恋って、したことあるか。

「したことありますよ。してますよ。してますとも」

 きっと書生は後輩にも恋愛の1度や2度は心当たりがあるだろうと思って、提案したにちがいない。それは正しい。でも、誰が対象かはさすがに推理できなかったらしい。ならば、思いもひっくるめた作品を書いて渡してしまおう。

 登場人物は後輩と、書生。「書生」は「先輩」でも「部長」でもよかったし、仮名にしてしまえば曖昧にできるのに、後輩は曖昧にしようとしなかった。その渾名は、後輩と書生を結びつけたきっかけなのだから。


                  ✑


 私がはじめて部長を見たのは、新入生歓迎会で文芸部の順番が回ってきた時だった。

「何、あの先輩」

 名前も知らないクラスメイトの声にステージへ目をやると、藍色の着物と袴に身を包んだ長身の男子生徒が立っていた。胸元に覗かせた白いシャツは不注意ではなく、わざとしているようだった。

「僕、ほんとうにいい人間にならなければいけないと思いはじめました!」

 突然あがった叫びにオーディエンスの喧騒が静まったり生まれたりする。

「僕は、消費専門家で、なに1つ生産していません!」

「え、怖いんだけど」

 茶化すような反応を尻目に、私は妙な身なりの先輩に釘付けとなっていた。まったく分からないけれど、たぶんなにかの小説の一片なのだろう。堂々とそらんじる姿に、私はまったく怖さとか、おかしさは感じなかった。

「しかし、僕は、いい人間になることは出来ます。自分がいい人間になって、いい人間を1人この世の中に生み出すことは、僕にでも出来るのです。そして、そのつもりにさえなれば、これ以上のものを生みだせる人間にだって、なれると思います!」

 体育館の脇で固まっている2年生から野次みたいな応援が飛ぶ。よっ、書生! 人間生み出せ! なんとなくいいことを言っているのは理解できた新入生の群集が、拍手をぱちぱちと送る。

 もう部活の紹介を聞き終えた気になっている私たちへ、しれっと先輩は型通りの紹介を始めた。

「文芸部は春と文化祭の年2回に部誌を発行し、普段は読書会をしたり、お題に従って短編を書いたりする和気藹々とした部活です。活動日は月曜日と木曜日。興味がある方は、部室棟の204教室まで来てください」

 司会の残り時間のアナウンスも聞かずに、すたすたと先輩は畳まれた緞帳どんちょうの裏側へ去り、館内には呆然とした体育座りの1年生が残された。

 後日、入部した私が暗唱した理由を聞くと、本から視線を逸らさないまま先輩は堂々と答えてくれた。

「紹介だけだと、さすがに時間が余りすぎるから。あの時ちょうど読み終わった本を暗唱した。ちょうど戦前の小説だったし、服装と合ってると思って」

「じゃあ、あの着物はどうしてですか」

「部長に指示された」

「部長、意図ってなんかあったんです?」

「ああ、なんとなくだよ」

 こうして先代の部長の思いつきで、先輩は書生と呼ばれるようになった。


                   ✑

 

 後輩の執筆はすんなりと進んだ。常日頃抱いている気持ちを限りなく現実に近い架空の世界へ翻訳する作業なのだから、気楽といえば気楽だった。部室で渡す瞬間をぼんやりと浮かべると、指は急に止まりそうになったし、最後の部分はあからさまで書く最中に何度も顔を背けてしまったけれども。

 すでに新しく小説を書いたので読んでほしいと書生に伝えており、すっかり定番の2人きりの部室で、手渡した新作が印字された紙に落とされた真剣なまなざしを、定位置から後輩はずっと眺めていた。

 A4用紙を整えることなく即座に机へ置いた書生は、いつもなら一直線の視線とともにいくつかのコメントを返すのに、気まずそうな様子で波打った床のあちこちを見渡すばかりだった。

 さすがに分かったかな。後輩は合否判定を待つような心持ちで、落ち着いて席に座っていられなかった。スカートの折りひだをつねる指先へ力が入る。

「書生ってさ、僕だよね」

「はい」

「で、後輩は」

「私、ですね」

「ここに書いてあるのは、創作か。それとも」

「創作なんかじゃ、ありません」

 傍から見ればお互い誰に話しかけているか定かでないまま、会話が進む。

「『後輩の提案は、いろいろ書いたあげく単純なものだった。たまには部室じゃなくて、他の場所で話したい。活動日でも、平日でもない週末に。校舎の外で』」

 書生が読みあげたのは、終盤の地の文だった。作中では渡した物語を読み終わったあと、書生が後輩を喫茶店へ誘う。そう、誘ってほしいのだ。後輩は。

「今からだと、時間ないよ。あんまり」

 思わぬ台詞に頭をもたげた後輩を、書生の控えめな瞳が見ていた。

「今週末、空いてる?」

 告白とも言えない奥ゆかしい文章では、書生が告白されたかどうかも確かめられなかった。それでも、彼の提案は後輩の頬をほころばせるのに十分だった。

「はい!」


                   ✑


「書生姿を見た日から、か」

「タ、タイトルはそうです」

 私が渡した物語とは違って、部長はすぐに口を開く。3秒どころか怖くてどんな表情をしているかも一瞥できない。 

「小説を書く過程を小説にする、というのはいい。今までのと違って突拍子のない展開は影を潜めてすっと理解できるから、だいたい5分ぐらいで読める手軽さも個人的には好きだ」

「ありがとうございます」

「特に書生という渾名が付けられている文芸部の部長とか、告白されただのなんだの噂が立てられているところとか、他人事には思えなかった」

 声が出ない。他人じゃなくて本人が読んでいるから当然だ。

「関係ないかもしれないが、僕は先日、告白された」

 反射的に顔が持ち上げられる。私の素振りに構わず、部長は話しつづける。

「そして、まだ返事をしていない」

「……はぁ」

「確かに小説ではそういったものをいくつも読んできたけど、いざ自分が当事者になると、どう対応していいか分からなくて」

「そう、ですよね」

 告白されたのは本当だった。私はなるべく感情を表に出さないよう、顔を締め上げる。大丈夫、断られるパターンは想定してきた。いっそ一思いに。

 しかし、次の部長の言葉は私の想像を裏切るものだった。

「もしよければ、相談に乗ってほしい。同じ部活の後輩が好きだからと断る際、どう言えば穏便に済むかを」

「その後輩って」

 私の問いかけに、はじめて部長のほうから目を逸らした。

「続きは喫茶店にでも行って話さないか、今度の週末」

「はい、私もそうしたかったんです。いつか」

 どちらともなく始めた照れ笑いは、しばらく止まなかった。


 

 

   

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