『雨宿りの蝶』
「だいぶ遠くへ来てしまったなあ、雪楊。ここから都はどの方角かな。あっちか?こっちか?」
黒々とした森の小道に出た阿暁は茂みの中から出てきた雪楊を振り返り、キョロキョロと辺りを見渡した。
今夜は城陽の村を荒らしまわった獣魔を退治する仕事が舞い込んだのだが、今夜の獣魔は逃げ足が早く、予想外に深追いした挙げ句、半時過ぎから折しもの雨。狩りは当然の如く成功したものの、見慣れぬ町の外れの林道を二人は連れ立って歩いていた。
「こちらだ」
行く先の見当がついているらしい雪楊は短く言うと握った剣の柄で前方を指した。
「今日はもうクタクタだ。旨いものでも食って酒でも飲みたい気分だよ。宿屋にでも泊まって明日ゆっくり帰ろうぜ?雨脚も強くなってきたし、今夜は土砂降りになりそうじゃない?」
そう不満を漏らす阿暁は、黒々と不穏な空を恨めしそうに見上げては、疲労困憊でやる気も失せて、ダラダラと歩きながら口だけは達者だった。
無言で瞬きをしてから節目がちになる雪楊。その表情を盗み見ていた阿暁は、それが了承であると経験的に分かっていた。途端に元気な足取りになるげんきんな阿暁だった。
「ん?あれは街じやないか?早く行ってみよう雪楊!雨脚が強くなってきた」
小走りになる道の先に街の明かりが水煙に霞んで見えた。急ぎ二人は街の大門をくぐり抜けたその時。
背後から勢いよく数頭の馬列が走り込んできた。その馬に跨る幾つもの濡れた編笠が馬上で揺れていた。先頭を行く一人が後列を気にしたのか振り返る。若い男の顔は濡れそぼり、悲壮感さえただよわせている。のっぴきならない事情を抱えた者達だと一目で分かった。
それを見た雪楊の足が竦んだように止まった。記憶の断片が脳裏を過ぎり、表情が固く強張った。
あの雨の夜。同じ様に悲壮な顔をし、切羽詰まった阿暁が果南の生き残り達をを引き連れて城主の元から逃走していった。自分には何も言わず、裏切り者の烙印を一身に背負って土砂降りの中、己を1人残して。
遠ざかる馬達を見送る雪楊の異変に気がついた阿暁が彼の所に戻って心配気な表情を浮かべた。
「雪楊?どうしたんだよ?早く何処かに逃げ込もう!オレ達ずぶ濡れだ!‥‥しかし凄い雨だな!こりゃ、ここまで濡れると何だか楽しくなってくるな!はははっ!」
まるで矢のような土砂降りになっていた。己の傍らで妙にはしゃぐ阿暁が、子供のように水たまりをバシャバシャと蹴っている。
その光景を目にした途端、不意に雪楊は目頭が熱く緩むのを感じた。雪楊は静かに天に顔を向けてあの日と同じように目を閉じてみた。
あの日も涙を雨のせいにした。でも今日の涙はあの時流した涙とは全く違うものに感じる。
こうして再び会えるまでの十年間、阿暁は死んだものと諦めた。だが今はこうして共にいられる。
あの日流した雪楊の涙を阿暁は知らない。そしてこの涙も。
降り頻る月明かりを浴びているかのような美しい雪楊。陶器のようなきめ細かな白肌を滑る雨。長い黒髪から滴が滴り落ちて頬に伝い、白い衣は透けて伸びやかな肢体に纏わりついている。
さしもの阿暁も、この光景に見惚れずにはいられなかった。ふざけるのも忘れて惚けた顔で雪楊
を見ていた。
「‥‥綺麗だ‥」
うっかり阿暁が口を滑らせた。
しまったと言う顔で誤魔化すように口元へ手を当てたが、その微かな言葉は雪楊の耳に届いていた。視線を阿暁へと向けると何かを問うように冷えて白んだ唇が薄く開いた。その中の朱が一際艶めいたように見えて思わず阿暁は息を呑んだ。
雨の音にかき消された己の胸の高鳴りにも気づかぬまま、無意識に雪楊に手を差し伸べていた。少し驚いた顔の雪楊がおずおずと指先を伸ばす。
その躾の行き届いた美しい指先を言葉もないままギュッと捕まえると阿暁はその手を引いて走り出した。
「雪楊!あそこの軒先を借りよう!」
目の前に軒先の大きな屋敷が見えると、二人でそこへ飛び込んだ。二人は既に濡れ鼠でその足元が水溜りになる程だ。
「ひでぇ〜!これじゃあ露店もやってないし、見てよ!どこもかしこも店じまいしてるよ!オレの酒は?美味い飯は?」
今までの甘い逃避行のような空気は、いつもの阿暁の騒がしさで掻き消されてしまったが、その影で少し残念そうな雪楊の表情はきっと誰にも読み取れまい。
阿暁の言うように、どの店も門を閉ざし、人気の失せた露天の櫓だけが虚しく雨に打たれていた。
そんな様子を見るにつけ、急に寒さを覚えた阿暁は、青白さの増している雪楊を気遣わしげに見遣った。
「雪楊、寒くないか?オレ、どこか空いてそうな宿を探してくるよ、待ってて」
思いつくままに再び外に飛び出そうとしている阿暁の腕を慌てて雪楊が引き留めた。
「‥‥共に。」
そう告げた雪楊の眼差しが心なしか心細く見えた。いつも毅然としている雪楊からは想像できない眼差しに阿暁は戸惑った。
「ええと、大丈夫だ雪楊。オレすぐに戻ってくるし。だから、その、だから」
いつも饒舌な阿暁だったが、引き止める手が行くなと頑なに伝えているようで言葉に詰まる。濡れそぼっているせいもあるのか、今の雪楊が妙に艶かしく見えて狼狽える。このまま背後から雪楊を抱き竦めたい。そんな気持ちが湧き上がり、その二の腕あたりを阿暁の手が彷徨った。
雪楊はそんな阿暁の様子に気づかない振りで俯いた。このまま抱きしめられたらきっとそれを己は許してしまう。それどころか今の己はその瞬間を待ちわびてさえいる。雨音だけがけたたましく響き、気まずい沈黙が二人に流れた。
その時だった、何者かの声が切れ切れに二人らの耳に届いた。
その声は明らかに自分たちに向けられている気がした。
「暁兄!雪兄こちらです!こちらです!」
切れ切れの声はどうやら向かいの商家の二階から聞こえてくる。二人が目を凝らすと、大袈裟に衣の長い袖を振り回している何者かの姿があった。
「唐承??おお!おーっ!」
思いがけず友に会った阿暁が、一気にはしゃいで手を振り返す。
「こっちに来て下さい!この家の主人にはもう言ってありますから!」
ありったけの大声で話しかけてくる唐承が手招きをしているようだった。阿暁はにわかに明るい顔になり、すでに数歩先んじていた。
「雪楊!地獄に仏様ならぬ唐承様だ!行ってみようぜ?これで今晩の宿と酒が手に入るかも」
都にいる筈の唐承が何故ここに居るのかなどと阿暁にはどうでも良い事なのだ。雪楊を振り返りながらも 既に軒下から小躍りするように前の道へと飛び出していた。
雪楊はそんな様子の相手を眺めながら控えめなため息を溢した。
まるで蝶の様だと雪楊は苦々しく思う。こうやって明るく賑やかな場所へと躊躇なく飛んでいってしまう。彼はいつだって雨宿りの蝶なのだ。阿暁と二人でいられるなら一晩中雨に打たれても構わなかった。
早く早くと急かす阿暁へと仕方ないという面持ちで歩き出す。この先に待っている賑やかになるだろう夜へと。
「虫籠が欲しい」
「は?虫籠?何故虫籠なんだ?」
追い越し様に阿暁を冷たく一瞥する雪楊がポツリとこぼした。いつも以上に素っ気ない態度が気にかかる。
「虫籠が何故必要なんだ?こんな日に虫取りか?‥‥何か怒ってる?‥‥雪楊?」
唐突な雪楊の不機嫌に慌てる阿暁がその後ろを納得いかなそうに追いかける。おそらく雪楊に一晩中尋ねてもその答えは聞けないままなのだ。
end.
御伽艶噺 mono黒 @monomono_96
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。御伽艶噺の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます