【11月8日】105号室の彼女

王生らてぃ

本文

 わたしの暮らしているアパートはボロで壁が薄い。生活音がよく響くので住民からの苦情は多いらしいが、それでもわたしは気に入っている。何より和室だというのがいい。手入れや掃除は確かに大変だけど、それでも畳の部屋は落ち着くのだ。



「こんにちは。おとなりですか?」



 入居したばかりの時、隣の部屋の住人と思しき女性が挨拶をくれたことを、わたしはずっと覚えている。しどろもどろに返した挨拶に、彼女は笑っていた。長い黒髪と、安っぽくてもどこか着こなしているファッション。美しかった。わたしもあんな風になりたいと思ったけれど、一念発起してやってきた大学生活でもわたしの根暗は治らない。



 あれ以来、顔を合わせたことはないけれど、隣の部屋からはいつも生活音が聞こえてくるのだ。



 とっとっとっ。

 歩きまわる音。



 トトトトトトトト。

 包丁でなにかを切る音。



 ざっざっ。

 畳に箒をかける音。



 じゃー。

 食器を洗う音。



 目の前にいるようだ。

 わたしは壁に向かい合って、その奥にいるであろう彼女の姿を想像した。まったく同じ間取りの部屋なので、どこに何があって、何をしているのか。足音や、生活音の距離からそれらを眺めるのが、わたしの唯一の楽しみだった。



 しゃーっ。ざっざっ。

 という音は、シャワーを浴びている音だ。壁にシャワーの水がかかる音や、身体を洗っているときに身をよじって、壁にどんとぶつかる音などを聴くたびに興奮した。今目の前にあの人がいるというだけで、しあわせな気持ちになった。ひとりで東京に出てきた心細さを、彼女によって癒されていた。



 夜。周囲が静かになったときには、壁をじっと見つめていると、彼女が眠っている吐息が聞こえてきた。それを子守唄の代わりにしてわたしも眠った。だけど、彼女がすぐ近くで眠っていると思うと、どうしても目が冴えて眠れなかった。






     ○






「あ。どうも周防さん」



 管理人さんとたまたま会ったときに、わたしはとんでもないことを尋ねられた。



「お隣の105号室のこと、何か知っています?」

「え?」

「あそこ、空き部屋なんですけど、どたばた物音がするっていう話を聞いてね。周防さん、なにか知っていますか?」






 その夜も、相変わらず彼女の姿を、わたしは壁越しに見る。ガスの火を点ける音がする。トントンとねぎを切る音がする。今日は味噌汁を作っているのだろうか。軽やかな足音が畳の部屋にこだまする。わたしはその音を聞いているだけでしあわせなのだ。



 ドンドンドンドン!



 突然目の前の壁を、激しく叩かれた。

 まるで目の前が床で、どたどたとそこを踏み荒らされているような音だ。とても重く、それでいて音が鳴る場所が激しく変わる。

 でもそれはしばらく経ってから消えて、それから、ぎゅいーん、という掃除機の音が聞こえる。なんだ、掃除をしていたんだ。だったら壁のシミでも消していたのかもしれないな。わたしもそろそろ部屋の大掃除をしないと。



 ドンドン。



 扉を激しく叩く音がする。

 彼女も壁越しに、わたしのことを見ているのだろうか。

 だったらわたしたちは、もう両想いみたいなものだ。

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【11月8日】105号室の彼女 王生らてぃ @lathi_ikurumi

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