エピローグ

夏への扉

 僕は真白さんが入院している総合病院に来ていた。

「……ふう」

 深呼吸した。

 よし!!

「すいません、やっぱり帰ります」

「ちょ、待って!? 帰っちゃうの!?」

 史郎さんに止められた。

 そう、僕は史郎さんと一緒だった。

 とてもじゃないけど一人で来る勇気はなかった。

 だから一緒に来てもらったのだ。

 いちおう、覚悟はしてきたつもりだった。

 でも……いざとなるとどうしても最後の一歩が踏み出せなかった。

 僕はうなだれた。

「……すいません。やっぱり会う勇気がありません。だって、本物の真白さんは僕を知らないんですよ? 何て言って出て行けばいいんですか? 前世の恋人です、とでも言えばいいんですか? そんなこと言ったらドン引きされますよ」

「ま、まぁそれはそうだけど……でも、何事も最初はあるものだよ、蒼汰くん。僕はぜひとも君に、真白に会って欲しい。もう一人の真白だって、それを望んでるはずだ」

 真面目な顔で言われてしまった。

 うぐ……。

 いや、このままじゃ僕はただのヘタレだ。

 これじゃダメだ。

 僕が踏み出すことを怖れていては、何も変わらない。

 だって僕は〝彼女〟と約束したのだ。ここにいる真白さんのことを、あの場所から連れ出すと。

「……そう、ですね。分かりました。頑張ります」

「うん、頑張って」

「あ、でもここでちゃんと見ててくださいね? 変な感じになったらフォローしてくださいね?」

「大丈夫だって、任せてよ」

 史郎さんはイケメンスマイルを見せた。

 ……イケメンだ。安心感がすごい。

 それでようやく僕も決心がついた。

「……それじゃ、行ってきます」

 僕は意を決して、真白さんに近づいていった。

 真白さんは脳挫傷の後遺症で、まだちゃんと歩くことができない。

 だから今はリハビリ中で、普段は車椅子を使っている。

 ぼんやりと窓の外を眺めている真白さんにゆっくりと近づいていった。

 ……ああ、あの目だ。

 遠くを見るような、自分とはまったく関係のない世界を見るような目。

 確かに、ここにいる真白さんはまだ〝あの場所〟にいる。

 そう思った。

 僕が出会う前の、あの頃の〝彼女〟と全く同じ目だった。

 何も無い世界。

 降り止まない雪。

 終わらない冬。

 そんなところにいちゃダメだ。

 ずっとそんなところにいたら……心まで凍ってしまう。

 悲しくても涙が出ないようになってしまう。

 いくら夏が来て、騒がしく暑くなったとしても、心が何も感じなければ本当の意味で夏は来ない。

 ただ過ぎるだけの日々は、時間が止まっているのと同じなのだ。

 でも、大切な時間は積み重なっていく。それが例えたったの一秒であっても、好きな人と一緒にいる時間は、何も無いだけの永遠よりもずっと価値がある。

 〝彼女〟は消えてはいない。

 だって〝彼女〟と過ごした時間は――いまも僕の中に積み重なっているのだから。

 この思いを、ここで途切れさせてはいけない。

 それだけは――絶対にダメだ。

「……あの」

 控えめに声をかけた。

 ゆっくりと彼女が僕を見た。

 その目はきょとん、としていた。

 心臓がバクバクとうるさかった。

 ……その目は、やっぱり他人を――知らない誰かを見る目だった。

 僕を見て笑いかけてくれた〝彼女〟ではない。

 でも、僕は知っている。

 真白さんがどういう人で、どういう笑顔で笑うのか、それを全て知っている。

 そう、知っているのだ。

 あれは確かに夢のような時間だったかもしれない。

 でも、夢が終わったからといって全てが消えて無くなったわけじゃない。

 ここにある。

 僕は全て覚えている。

 〝彼女〟と関わった人たちも覚えている。

 人の思いというものは、そう簡単に消えやしない。

「……ええと、すいません。どちら様でしたか?」

 真白さんはちょっと困ったように首を傾げていた。

 ……覚悟はしてた。

 でも、その言葉は――思っていた以上に、きつかった。

 本当にちょっと泣きそうになってしまった。

 でも、僕は泣かなかった。

 僕と君は、これが最初だ。

 ここから全てが始まる。

 だったら、ちゃんと相応しい言葉を言おう。

 僕は笑った。

「こんにちは、はじめまして」


 μβψ


 ……これは冬に出会い、そして夏に消えてしまった〝彼女〟との物語。

 終わるはずのない冬が終わり、夏への扉が開かれるまでの――かけがえのない、たった半年の物語だ。

 

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