第30話

 ……正直なことを言うと、あれから後のことはあんまり覚えてない。

 彼女が残してくれた㊙ノートを片手に色んなところに行ったけど――僕はずっと、心ここにあらずだった。

 旅から戻ると、日常はすぐに僕を急かすように動かした。

 本格的に受験も始まって、あっという間に慌ただしい日々が始まった。

 ……今となっては、本当に全部夢だったんじゃないか……なんて、そんなふうにさえ思えた。

 でも、僕は確かに覚えている。

 〝彼女〟がいたことは――紛れもなく現実だったのだ。


 μβψ


 あれからも、僕の日常はいつも通りだった。

 でも……僕の心の中は空虚なままだった。

「あー!! 寝過ごした!!」

 今日も夢子が寝過ごした。

「朝食なら用意してるぞ」

「サンキュー!!」

 夢子は朝食を詰め込み始めた。

 ……相当急いでるな、こりゃ。

 僕は立ち上がって食器を片付けた。

「夢子、中学校まで送ってやろうか?」

「……ふぇ?」

 口をぱんぱんにした夢子が僕を驚いた顔で見返していた。

「とりあえず飲み込め」

「う、うん」

 夢子は飲み込んでから、改めて僕を見た。

「……えっと、いいの?」

「急いでるんだろ?」

「う、うん。まぁそうだけど……」

「どうせ駅に行くついでだ」

「う、うん。ありがとう、お兄ちゃん」

 というわけで、今日は夢子を後ろに乗せていくことになった。

「……お兄ちゃん」

 さぁ走りだそうとエンジンをかけたところで、夢子が控えめに僕の肩を叩いた。

「ん?」

「……まぁ、その、なんだ。いまだけは、わたしのこと彼女だと思っていいよ?」

「……」

 ……何を言ってるんだ、こいつは?

 その時はそう思ったけど、後になってふと思った。

 もしかして、僕はあいつに励まされていたのだろうか?

 ある日を境に、真白さんは突然姿を消してしまった。

 周囲は明らかに、僕が真白さんにふられたものだと思っている節があった。

 まぁ、そりゃそうだろう。

 いきなり真白さんの姿が見えなくなって、それで僕が抜け殻みたいになってしまったのだから、そう思われても無理はない。

「蒼汰、おれのおかずやるよ」

「おれのもやろう」

「え? どうしたの二人とも?」

「そうだ! ジュースも奢ってやるよ!」

「おれも奢ってやろう」

「いや、だからどうしたの二人とも?」

 ……陽介と信一にもやたらと気を使われてしまった。

 どうやら僕は、自分で思っている以上に分かりやすいようだ。

 ソータくんって、すぐに顔に出るよね。

 真白さんにそう言われたことを思い出した。

 僕はずっと自分のことを鉄壁のポーカーフェイスだと思っていた。ポーカーの世界選手権に出れば優勝できるだろう、とも。それはどうやら思い上がりだったようだ。

 毎日、学校と家の往復だった。

 時計の針は動き始め、時間は嫌でも過ぎていった。

 そう、夢は覚めたのだ。

 いつもの場所に行っても、もう〝彼女〟はどこにもいない。

 僕が〝彼女〟と会うことはもう二度とない。

 そのことが、どうしても僕の生活を空虚なものにしていた。

 そうそう、ちなみにはとっくに目を覚ましている。

 〝彼女〟が消えたあの日、病院で眠っていた真白さんは目を覚ましたそうだ。

 僕はそれを史郎さんからすでに聞いている。

 ……そう、知っている。

 でも、僕はまだ病院には行っていなかった。

 僕には〝彼女〟と交わした約束がある。

 だから、その約束を果たさねばならない。

 ……でも、どうしても病院に行く勇気がなかった。

 どんな顔して会えばいいのだろう?

 だって本物の真白さんは、僕のことをまったく知らないのだ。

 ただの他人でしかない。

 どちら様でしたか? なんて言われたら耐えられる自信がなかった。たぶん泣いちゃうだろう。

 ……だから、僕はただ漫然と日々を過ごしていた。おかげで受験勉強に身が入ったのは皮肉な話だ。

 そして、段々と蝉の声が少なくなってきた頃――僕はようやく〝それ〟に気がついたのだった。


 μβψ


「……いい加減荷物の整理するか」

 部屋にはキャンプから持って帰ってきた道具がそのまま置いてあった。

 全部、キャンピングシートバッグに詰め込んだままだ。

 今まで片付ける気力がなかったから、ずっと放置していたけど……いい加減、片付けようと思った。

 それで、荷物をごそごそしている時だ。

「……ん? なんだこれ?」

 何やら折りたたまれた紙が出てきた。

 まるでノートの一ページを破りとったみたいな紙だった。

 ……これ、もしかして㊙ノートを破ったページか?

 そう言えば、最後の方にページを破ったような後があったのを思い出した。

 何だろうと思っていたら――不意に『ソータくんへ』と書かれた丸っこい字が見えた。

「……え?」

 完全に虚を衝かれた。

 ……これ、真白さんの字……?

 ハッとした。

 慌てて紙を開いた。

 それは――〝彼女〟が僕に残した手紙だった。


『はろー、ソータくん。

 この手紙を見ているころ、きっとわたしはいないでしょうね。

 って、なんかよくある書き出しになっちゃいましたね(笑)

 

 こうして改めて手紙を書くとなると何を書いていいのか自分でもよく分かりませんが、やっぱり君にお礼を言いたくて、こうして手紙を書きました。幽霊のくせに手紙書くなんて、生意気ですよね(笑)


 率直に、言いたいことだけ書きます。

 ありがとう。

 君にはいくらそう言っても足りないです。

 わたしのこと、見つけてくれてありがとう。

 わたしのこと、好きだって言ってくれてありがとう。

 本当に、本当に嬉しかったし、楽しかったです。

 君といた時間は、わたしにとっても夢みたいでした。

 本当に、できることならずっと一緒にいられたらいいな――と、何度も思いました。

 こんな思いをするくらいなら、君と出会わなければよかった――なんて、そんなことは絶対にまったく、これっぽっちも思ってません。

 君と出会ってなかったら、わたしはずっとあの場所にいたと思います。

 戻る勇気もなく、かといってどこかに行く勇気もなく、ずっと立ち止まって泣いていたんじゃないかと思います。

 でも、君がわたしを連れだしてくれました。

 わたしだけの思い出が増えるたび、わたしは〝あの子〟とは遠ざかっていきました。

 それで、ようやく分かりました。

 自分がいままで、どういうところにいたのか。

 わたしには何もありませんでした。

 学校での成績はいつもトップで、運動もできて、実は生徒会長だったりしましたけど、それは上辺だけのわたしです。本当のわたしには、何もありませんでした。お母さんがいなくなったあの日から、わたしの時間は止まっていたんだと思います。

 いま思えば、わたしは本当に自分勝手で我が侭だったと思います。

 お父さんには、本当にひどいことばかり言いました。

 お兄ちゃんにも、たくさん迷惑かけました。

 わたしのせいで、みんな時間が止まっていました。

 それを本気で、このままじゃダメなんだって思えるようになったのは――君のおかげです。

 君のおかげで、わたしはようやく気づくことができました。

 だから、ちゃんと時計の針を動かそうと思います。

 冬はずっと終わらないんだと思ってたけど……そんなこと、あるわけないよね。

 ありがとう、ソータくん。

 〝わたし〟は消えちゃうけど――〝あの子〟のこと、よろしくお願いします』


「……あれ?」

 気がつくと、僕は泣いていた。

 本当に気がつかなかった。

 涙が、いつの間にか溢れて止まらなかった。

「あ、あれ? なんで――」

 〝彼女〟が消えてから、僕は一度も泣かなかった。

 自分でもなんて薄情なやつなんだろう、と思っていた。

 ……ああ、そうか。

 止まっていたものが、いま動き出したのだ。

 凍っていたものが、いま溶け出したのだ。

 僕は夢から覚めたくなくて、覚めたふりをして、冬の世界に逃げ込もうとしていたのだ。

 そこにいれば、僕と〝彼女〟の時間は終わらない。

 無意識に、そう思っていたんだ。

「……ん? まだ何か書いてある……?」

 手紙には、まだ続きがあった。

 と言っても一言だけだ。

 そう、たった一言。

「――」

 それを見た瞬間、僕は思わず胸を押さえていた。

 ……ああ、痛い。

 今まででいちばん痛い。

「……はは。こりゃ、今度こそ病院行ったほうがいいかもな」

 この日、僕はようやく夢から覚め――止まっていた時間が動き出した。

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