第29話

 寝る前に片づけた折りたたみの椅子を引っ張り出して、僕らは一緒に星空を見上げていた。

「……本当に、これって現実の光景なんだよね」

 真白さんが星空を見上げながらそう言った。

 そう言いたくなる気持ちは分かった。

 この光景は、今の時代の僕らにとってはリアルじゃない。

 あべこべのような話だけど……こっちのほうが、僕らにとっては非現実的なのだ。

「昔の人はさ、どんな気持ちでこの星空を見上げてたんだろうね?」

「ん?」

「なんて言ったらいいのかな……ほら、わたしたちはさ、もうあの光の正体を知ってるでしょ? 空の向こうの世界がどうなっていて、わたしたちの立っている場所がどうなってるのか。でも、昔の人はそんなこと何も知らなかったわけじゃない? 何も知らないまま、本当にただ純粋な目でこの星空を見た人たちは、どう思ってたんだろうなあって」

「……どう、なんだろうね」

 僕は想像しようとしてみた。

 でも、できなかった。僕らはあの光の正体を知ってしまっている。だから、本当に何も知らない人が心に思うことを、想像することはとても難しかった。

「でも、真白さんよく気づいたね。空が晴れてたこと」

 真白さんがたまたま起きてテントの外に出たから、この瞬間を逃さずに済んだわけだ。じゃなかったら、僕は何も知らずに寝たまま朝を迎えていただろう。

「あー、うん。ちょっとトイレにね」

 真白さんはそう言った。

 僕は何気なく「そうなんだ」と頷いたけど……ふと疑問に思った。

「……真白さんって、トイレ行くんだっけ?」

「……」

 真白さんは黙ってしまった。

 僕はなぜだか――すごく、嫌な予感みたいなものがした。


「わたしさ、本当はもうつもりだったんだ」


 本当に、すごく唐突に、彼女はそんなことを言った。

 心臓が跳ねた。

「……え? 消える――って?」

「うん。本物の真白に――〝あの子〟にわたしの持っている魂を返して、ね」

「……」

 すぐに言葉が出てこなかった。

 心臓が言うことをきかない。

 ……いや、僕はこの瞬間が来ることを分かっていたはずだ。

 そう、分かっていた。

 でも、ちょっと早くないか?

 まだ旅はもう少し残っている。

 なのに――今日なのか?

 今日がなのか?

 真白さんは笑いながら続けた。

「なんかさ、いますごく不思議な感じなんだ。いまの〝わたし〟には何だか、以前の自分がまるで別人みたいに思えるの。かつて自分がいたはずの場所が、とても遠くに感じる。あそこが世界の果てだって思ってたのに、ほんの少しだけ歩き出せばまた新しい世界が広がってたんだよ。こんなにも広い世界がさ。なんで以前のわたしはあんなところで立ち止まってたんだろうって、すごく不思議な感じがするの」

「……」

「〝わたし〟はソータくんのおかげで、わたしを閉じ込めていた世界から外に出ることができた。君が〝わたし〟を連れ出してくれたから。だから〝わたし〟はもう知ってる。終わらない冬なんてない。また、昔みたいに、あの大好きだった夏が来るんだってことを、そのことを知ってる。ソータくんが教えてくれたから」

「……真白さん」

「でも、やっぱりわたしは〝偽物〟だからさ。どれだけ〝わたし〟だけの思い出が増えても、それじゃ時計の針は動き出さないんだよね。〝あの子〟が目を覚まさないと、みんなの時間は動き出さない。だからね、わたしはやっぱりにあるものを〝あの子〟に返さないといけないんだよ。〝偽物わたし〟が我が侭言っても、誰も得なんてしないんだから」

「違う! それは違うよ真白さん!」

 僕は思わず彼女の手を握っていた。

 ひんやりとした感触が伝わってきた。

 色んな物が彼女の手を通して伝わってきた。

 ……僕は、気がつくとまた泣いてしまっていた。

「ソータくん……?」

「違う……君は〝偽物〟なんかじゃない。君は〝本物〟だ。だって、だって――君はここにいるじゃないか」

 僕は思わず、縋るような目を〝彼女〟に向けてしまった。

 でも、〝彼女〟はゆっくりと横に首をふった。

「ありがとう。でもね、やっぱりこれは夢なんだよ。ソータくんはさ、いま夢を見てるんだよ。夢は、いつか覚めるよ」

「……嫌だ。覚めたくない。この夢が終わるくらいなら、僕はずっとこのままでいい」

 心からそう思った。

 それが〝彼女〟を困らせると分かっていても、どうしようもなかった。

 〝彼女〟はちょっと困ったな、みたいな顔をした。

「……やっぱり、君ならそう言ってくれるだろうなって思ってた。〝わたし〟もさ、本当ならずっと君と一緒にいたいよ。だから決心が揺らぐ前に、こっそり消えようと思ったの。そうしたら、全部ただの夢だった――それで終わるかなって。でもさ、いざテントを出たら晴れてるんだもん。星空が見えてるんだもん。だったらさ、君と二人で星空見たくなっちゃうよね?」

 真白さんは笑っていた。

 笑いながら、ぼろぼろと泣いていた。

「もう、ほんと神様も余計なことしてくれたよね……決心が揺らぐじゃん、そんなこと言われたらさ。ずっとここにいたくなっちゃうじゃん……」

「じゃあ、ずっとここに一緒にいようよ」

「ううん、でもそれはダメ。君の時間まで止めるわけにはいかない。君が好きだから、それだけはできない」

「……!!」

 思わず〝彼女〟を抱きしめていた。

「はは、ちょっと痛いよ」

 真白さんが優しく抱きしめ返してくれた。

「ねえ、ソータくん。一つだけ――〝わたし〟の最後のお願い、聞いてくれるかな?」

「……お願い?」

「うん。〝あの子〟はね、まだ〝あの場所〟にいる。事故に遭った時からずっと時間が止まってる。寒くて誰もいなくて、凍えて死んじゃいそうな場所に取り残されたままなんだよ。〝あの子〟の冬はまだ終わってない。だからさ、あそこから〝あの子〟のことを連れ出してあげて。〝わたし〟のこと、連れ出してくれたみたいに」

「うん、うん――わかった。必ず、僕が連れ出すよ」

「ありがとう」

「……じゃあ、その代わりに僕のわがままを聞いてもらってもいいかな?」

「なに?」

「……せめて朝まで、手を繋いでいて欲しい」

 笑われると思ったけど、〝彼女〟は笑わなかった。

「うん。そうしよ」

 彼女はそう言って、僕に優しく微笑んでくれた。

 ……それから僕らは、手を繋いで星を見上げた。

 これが最後だというのに、僕らはお互いに黙ったままだった。

 言いたいことなんて、それこそ目の前の星の数ほどあった。

 でもそれらは全部、ちゃんとした形になる前に、消えていってしまった。

 沈黙の中に全てが溶け出し、それがお互いに伝わっていた。

 逆に言えば、いま感じているこの気持ち、言いたいことの全て、それらを言葉にすることは不可能だったのだ。

 言葉という制約を受けた途端に、僕が彼女に伝えたい気持ちの半分以上はそぎ落とされてしまう。

 好きだという言葉の中に、どれほどの感情を詰め込むことができるだろうか。

 この沈黙と、そしてお互いの手と、それらを通して、僕らは確かに繋がり合っていたのだ。

 僕は段々と睡魔に襲われ始めた。

 ふと気を抜くと、思わず眠りそうになった。

「ソータくん、もう寝る?」

「……寝ない。今日は朝まで絶対に起きてる」

 ……ああ、そうだ。

 僕はまだ、もう少しだけ夢を見ていたかった。

 ほんのちょっとでもいい。

 ほんのちょっとでもいいから、ほんの少しでもいいから、この夢を見ていたかったのだ。

 でも――

「……あれ?」

 寝てしまっていた。

 起きた時には、もう朝日が昇っていた。

 僕は椅子に座ったまま、寝てしまっていたのだ。

「ま、真白さん!?」

 一気に眼が覚めた。

 慌てて隣を見たけど、そこにはもう誰もいなかった。

 そこに残っていたのは〝彼女〟がずっと羽織っていた僕の上着だけだった。

「……」

 ああ、と思わず膝から崩れ落ちていた。

 終わった。

 そう、終わったのだ。

 僕と〝彼女〟の、最後の旅は――


 μβψ


 ……その後、撤収しているとSRの人がやってきた。

「やあ、少年。昨日はよく眠れたか?」

「……あ、はい。とってもよく眠れました」

「……え? いや、ちょっと大丈夫か? 顔色ひどいぞ?」

「そうですか? そんなことないと思いますけど」

 ははは、と僕は笑っておいた。

 ……不思議だった。

 もう彼女に会えないって言うのに、僕はまったく悲しくなかったのだ。

 涙なんて一つも出やしなかった。

 ただ、胸にぽっかりと胸が空いた感覚だけがあった。

「おや? お嬢ちゃんのほうは?」

 お兄さんが周囲を見回した。

 もちろん、真白さんの姿はない。

 彼女はもう――消えてしまったのだ。

「あ、えっと……真白さんはちょっと家の用事があったんで、朝のうちに知り合いが迎えに来て、それで先に帰りました」

 すらすらと嘘が出てきた。

 自分でもびっくりするくらい淀みがなかった。

「おや、そうだったのか。じゃあ君はどうするんだい? まだもう少し旅をするのかい?」

「そう、ですね……まだ帰るまで日程はありますから。そうしようかと思います」

「そうか。なら、またどこかで会うかもな。それじゃ、おれはお先に失礼するよ」

「はい。ジンギスカン、ごちそうさまでした。彼女も――お礼を言ってました」

「はは、あれぐらい気にすることじゃないさ」

 SRのお兄さんはきざったらしいあの仕草をして、くるりと僕に背を向けた。

 けど、少し歩いてからふと思い出したようにこちらを振り返った。

「……あー、少年。まぁなんだ。人生ってのは色々あるもんだ。だから、彼女とちょっと喧嘩したくらいでそう落ち込むんじゃないぞ」

「……え?」

 何の話だろうと思ったけど……そうか。お兄さんは僕と真白さんが喧嘩でもしたと思ったのだろう。

 つまり、僕はそれほどひどい顔をしているということだ。

 ……ちょっと変わった人だけど、いい人だな。

 僕は心からそう思った。

「喧嘩なんてしてないですよ。僕らはラブラブですから」

「そうかい? ならいいが」

 お兄さんは肩を竦めた。

 それから、こう続けた。

「そうだ、少年。ここは年長者から一つ、人生を豊かにするアドバイスをしてやろう」

「アドバイス、ですか?」

「ああ」

 にっ、とお兄さんは笑った。

 きっと変なこと言うんだろうな――と、僕はそう思っていた。

「いいか、少年。これから先、生きていたら何度も壁にぶつかることだってあると思うが……そこで立ち止まるんじゃないぞ。そこで終わりだなんて思うな。壁を越えれば、いくらでもまた新しい世界がそこにある。勇気を出して越えていけ。脅えるよりも立ち向かえ。その方が、人生はずっと楽しいぞ」

 ――完全に虚を衝かれた。

 ……え?

 思わず彼の顔を凝視していた。

 もちろん、お兄さんはお兄さんだ。父さんじゃない。

 僕が呆けていると、

「――とまぁ、これはただの受け売りだけどな」

 と、彼はまた肩を竦めた。

「そ、それは誰からの……?」

「さあ、名前は聞かなかったな。昔、いつか北海道のどこかで会ったやつに言われたんだ。あの頃はおれも色々とスレてたからな……人生に楽しいことなんて何にも無いと思っていた頃だ。もうだいぶ昔のことだが、何だか妙に心に残ってる。やたらとガタイのいい、筋肉の塊みたいなやつだったよ。色んな意味で、君とは正反対の男だったな」

「……はは」

 思わず笑ってしまった。

「ん? どうかしたかい?」

「いえ、何でもないです。確かにその人は――僕とは全然似てないでしょうね」

 ……人の思いっていうのは、見えないところで繋がってるんだ。

 いつかの未来、どこかの過去。

 人の思いはそう簡単には消えないし、きっとどこかで繋がっていくんだろう。

 そう、僕は思った。

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