鏡を見てはいけない

kankisis

鏡を見てはいけない

「猫、飼いたいな」


 登校前の食卓で、それとなく言ってみた。テレビで猫の面白動画が流れている。


「お母さんアレルギーだからだめ」


 即座に台所から返事だ。


「早く食べて、遅刻しないで」


 母さんが急かす。

 最後の一口をかき込んで、通学カバンを持って、玄関を出た。

 母さんには急かされたけど、別に慌てなくてもいい時間だ。面倒だから何も言わなかった。


 学校まではちょっと遠い。でも自転車通学は禁止されていた。家の玄関から学校の正門まで、20分くらいは歩かなければいけない。通学路を歩けば、しだいに自分と同じ制服を着ている生徒が増えてくる。通っている中学校が見える頃にはもう、周りは生徒だらけだ。


「よっ」


 いつも正門の前で合流するクラスメイトだ。手を振っているので、手を振り返した。名前は瞬。名前の通り足が速いから、陸上部に誘われている。自分たちは一年生だ。入学したばかりで、クラスの半分くらいは入る部活をまだ決めていない。瞬も陸上部に入るかどうか、迷っているらしい。顧問が厳しそうなのが嫌なのだと言っている。

 正門から敷地に入って、瞬と横並びに歩く。


「お前も一緒に陸上やんないの」

「だって顧問が怖いんだろ? 瞬言ってたじゃん。やだよ」

「なんかさ、二年の先輩たちは結構いい人そうなんだよね。陸上やろうぜ」

「俺バスケがいいよ」

「バスケやってたんだ」

「興味があんの」


 体験入部の間は、朝練がない。こうやって瞬と話しながらクラスの教室まで行くのは、部活動が本格的に始まるまでの間だけだ。


 自分たちよりも早く教室に着いている同級生におはようを言って、俺と瞬は前後に並んだ席にどさりと座った。


「瞬ってペット飼ってんの」


 たずねると、カバンの中を探りながら、瞬はこう聞き返す。


「何飼ってると思う?」

「犬飼ってそう」

「大外れ。0ポイント」

「言えよー」


「カメ」


 ちょっと意外だ。


「おせーしくせーの。お前は?」

「猫飼いたいけど親がアレルギーでだめだって」

「今度、俺ん家のカメ見にこいよ」

「なんで?」

「結構でかいんだぜ。お、プリントあった。宿題やった?」


 結局、瞬の自慢だった。

 近くの勉強ができる同級生にプリントを見せてもらって、わからない所の穴を埋めていく。


「んでさ、二年の先輩がさ、言うんだよね。俺陸上部に入ったらすぐ大会出してくれるってさ。すごくね?」


 プリントに書き込みながら、瞬は陸上部の話をずっとしている。


「ユニフォームもかっけぇし。入ろっかなあ」


 迷っているようなことを言って。実はもう陸上部に入るのを決めているのだ、瞬は。



「そこ早く座れ。始めるぞ」


 話に夢中で、担任の先生が教卓の前に立っているのに気づかなかった。朝のホームルームが始まると、みんな自然と静かになる。

 最初は集中して聞いていた担任の話を、数分したら飽きて聞き流すようになる。目の前に座る瞬も、上の空で窓の外を見ている。


「だんだんと慣れてくる頃だけど、ちゃんと学生生活を送るんだぞ。寄り道している一年生がいるそうです。帰りはまっすぐ家に帰ること。先生との約束だぞ」


 先生の話が終わり際だけ耳に入ってきた。その少し前に大事な話をしていた気がするが、覚えていない。後でまじめな奴に聞こう。



 その後、午前中の授業が四つ。苦手な英語を乗り越えて、他の教科を難なくこなした俺は、理科の実験室から自分のクラスに戻った。給食の時間だ。


「いただきます」


 一斉に、同級生らが給食を食べ始める。俺と瞬は席が近いので、他の近くの生徒と一緒に机を向き合わせていた。


「俺昨日、陸上部寄ったじゃん?」


 瞬が箸で飯を口に運びながら言った。また陸上部の話だ。ここ数日、瞬は放課後きまって陸上部に入り浸っていた。


「昨日は二年の先輩がさ、新入部員を集めて話をしたんだよ」

「どんな?」

「寄り道する一年は怖い目にあうんだって」

「先生も言ってたな。帰りは寄り道禁止って」


 それを聞いた瞬はぽかんとしている。


「言ってたっけ」


 どうせ朝の話を聞いてなかったのだろう。俺もほとんど聞いてなかったけど。


「それで、どんな怖い目にあうのさ」


「なんかな、鏡があるんだってさ。誰かが置いた鏡が通学路のどこかにあるって。先輩は死んだ変なばあさんが捨てたって聞いたと言ってたけど、それが呪いの鏡なんだってさ。それをのぞき込んだらあっという間に自分も呪われちゃって、死んだばあさんと一緒に地獄に連れてかれるんだって」


「嘘だあ」


 先輩が新入生をおどかすための作り話に決まっている。どうせ、先生と先輩たちが寄り道する一年にいう事を聞かせようと組んでいるに違いない。


「絶対本当だって。先輩の話聞いてるときマジ怖かったぞ」


 瞬は案外、何でも信じやすいタイプだ。でも俺は呪いの鏡について、これ以上は何も聞かなかった。なぜなら、近くで食べている同級生たちがそれ以上怖い話を聞きたがっていなかったからだ。あと、俺もだんだんと怖くなってきそうだったから。作り話とわかっているのに。



 一日の授業を受け終わって、瞬とは別れた。今日も陸上部に寄るらしい。俺が興味のあるバスケ部は、今日はやっていない。まっすぐ帰る他の同級生らと一緒に帰ることにした。帰り道でも、瞬とは別の奴から、呪いの鏡の話題が出た。


「呪いの鏡?」

「そう、呪いの鏡が道路のど真ん中に置いてあって、見たらみんな死んじゃうんだ」

「誰が言ってたの?」


 俺は口をはさまずに聞いていた。鏡を見た人がみんな死ぬんだったら、誰も鏡の話を聞いたことがないはずだ。だって、鏡の存在を目にした時点で、その人は話す前に死んでしまう。

 呪いの鏡の話をしていた子が答える。


「部活の先輩。陸上部の」


 その子も陸上部に体験入部していた。話を聞くと、やはり顧問が苦手で入部を諦めたらしい。

 他のクラスメイトは鏡の話は初耳だったようだ。陸上部以外の部活の先輩は呪いの鏡の話をしていないらしい。となると、瞬が聞いたこの話は、先生が先輩に言わせたのではないのかもしれなかった。


「じゃあな」

「また明日」


 一人ずつ、それぞれの家のある方へと別れていく。最後まで一緒だったクラスメイトも、通学路の途中で彼の家の中へ入っていった。この方面でいちばん遠くに住んでいるのが俺だった。


 一人になると、急に呪いの鏡の話が頭に浮かんできて、嫌な気分だ。鏡が道端に落ちてないかと、目をあちこちに向けて探してしまう。見つからない方が絶対いいのに、探すのをやめられなかった。


 電柱の足下に黒い毛の塊が落ちていた。


 足を止めずに眺めていると、それはもぞもぞと動き出した。立ち上がって、頭が飛び出して、俺を見上げた。

 猫だ。よく見ると、首輪をつけている。飼い猫だった。でも、近くに飼い主の姿はいない。迷子の猫だろうか。

 近づいて触ってみようとしたら、黒猫は俺が嫌いなようで、走って逃げてしまった。もし本当に迷子の猫なのだとしたら、誰かが捕まえて飼い主に戻してあげなければいけない。


 誰もいないんだったら、俺がやる。


「猫待てー」


 呟きながら、逃げる猫の後を追う。一本道だ。瞬ならあっという間に追いつけただろう。遠くに見える交差点までには、自分も追いつける。


「あっ」


 迷子の猫はまっすぐ逃げるかと思えば、ひょいと横に飛び込んで姿を消してしまった。住宅街のブロック塀とブロック塀の間にある、誰も入ろうとしないような狭いすき間に入り込んでしまった。日陰になって、雑草もしおれている。


 自分もそのすき間に飛び込んで、猫を追った。このまま逃がしてしまうのは嫌だった。猫がいなくなっては飼い主が悲しんでしまう。そして、自分が捕まえた猫と、そのあと仲良くなりたかった。家で飼えないから、黒猫の飼い主のところに通えば猫と触れ合えるかもしれない。


 すき間に入って、両側のざらついたブロック塀の壁で腕を擦らないように気をつけながら、すばしっこい猫を追いかけた。

 ざくざくと足音を立てて進んでいくと、猫は止まった。俺がしゃがんでも、猫は身じろぎひとつしない。


(よし、これで捕まえてしまえば……)


 手を伸ばす。

するすると、身軽な猫は手をすり抜けて、塀の上に駆け上がった。俺が立ち上がって腕を差し伸ばしても届かない高さだ。猫のしっぽだけが塀の上から垂れ下がるように動いていた。


 どうにかして届かないかと、手を伸ばしたまま何度か跳びはねているうちに、猫は塀の向こう側に飛び降りて、ついに気配も消えてしまった。

 さすがに、他人の家の敷地に入ってまで猫を捕まえるのはまずいと思った。もう家に帰ろう。寄り道はだめだと先生も言っていたし。


 すき間のかなり奥まで来てしまった。意外とクモの巣は張っていない。

 無駄に終わった追跡を残念に思いながら、ふと、狭いすき間の奥を見た。


 身体が固まる。銀色のそれを見て、心臓が止まりそうになった。


 鏡だ。意外と近くにあったのに、迷子の猫に夢中で全く気づかなかった。高さが自分の身長くらいある鏡が、塀の間の狭い幅をふさぐように立っていた。まさか、あの呪いの鏡だろうか。


 瞬に聞いた話を思い出す。鏡をのぞき込むとあっという間に呪われて、鏡を置いたおばあさんに地獄へと連れ去られてしまうんだっけか。目の前の鏡には、変な姿勢のままで固まっている自分の姿が映っている。それ以外に、変なものは映っていない。鏡を見る自分と、背後の景色だけが見える。


 うっかり、まじまじと鏡をのぞいてしまった。これが本当に呪いの鏡だったら、とっくに俺は呪われてしまっている。止まっていた息を吐きだして、吸い込んだ。大丈夫だ。たぶん。


 気持ちを落ち着かせて、すき間から道路に戻ろうと思った。その瞬間、猫の鳴き声がした。

 びっくりした。甘えるような鳴き声じゃなくて、何かに対しておびえているような鳴き声だった。塀の裏側から聞こえてきたから、黒猫の姿は見えない。鳴き声がしたのも一度きりで、そのすぐ後に猫が走り去る音が聞こえた。これで本当に一人になってしまった。


 何かが、見えた。

 鏡が一瞬だけ強く光った気がした。俺はそれに気を取られて、再び鏡を見てしまった。

 立ち尽くす自分の姿。そして、背後に見える塀と塀とのすき間。一番奥に、すき間の出口が見えた。その先はいつも歩いている通学路がある。


 俺が恐怖で動けなくなってしまったのは、その出口に、何かおかしなものがいたからだった。人型の何かがいる。それは、俺と同じくらいの背丈で、黄色いレインコートのようなものを着ていた。そでから飛び出している二本の腕は不自然に細長くて、先が地面に着いてしまいそうだ。顔はよく見えない。でも、らんらんと光る大きな二つの目が俺の背中を見つめていた。


 振り返りたくない。


 じっと鏡で見ていると、突然、黄色いレインコートを着た何かは、ぱっと消えてしまった。

 幻か何かだと思いたかった。見たこともない何かが突然消え去ってしまうようなことは、今まで一回もなかったから。そしてずっと、瞬から聞いた呪いの鏡の話が頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。あの話は本当なのかもしれない。本当じゃないかもしれない。一つだけ正しいのは、こんな誰も入らないようなすき間に鏡が置いてあって、その鏡に変なものが映ってしまっていたことだけだ。自分はまだ死んでいない。地獄にも引きずり込まれていない。だから大丈夫。


 頭ではそう思っていても、恐怖心は考えている以上に大きく膨らんでいって、化け物の姿がもう見えなくなっても、自身の身体を動かすことができなくなっていた。家に帰るとしても、あの道に出るまでに変なものがいた場所を通らなければいけない。それが嫌で、なかなか引き返す決心がつかない。


 どうしようもなくなって、鏡と向かい合っている。それがまた嫌だった。瞬だったらどうしているだろうか? いなくなったすきに、表の通学路まで一気に駆け抜けていたかもしれない。俺には無理だった。あの恐ろしい姿を見てしまっては、絶対に通りたくない。塀を乗り越えるのも無理だ。さっき猫を捕まえようとして跳びはねたものの、絶対に上まで届かなかった。


 身がすくんで動けなくなったまま、何十分経っただろう。カラスが鳴いて、頭上の空が赤くなりはじめた。このままだと、誰にも気づかれずに夜になってしまう。


 意を決して、後ろに下がることにした。怖いのでゆっくりと、鏡を見ながら後ろ向きに下がる。振り向くときに鏡が視界から外れて、出口の様子が一瞬でも見えなくなるのが嫌だった。ずっと背後の様子を目で確認していたかった。


 一歩ずつ、足を交互に下げた。これまで誰も、後ろに見えている道を通りがからない。誰かが来たら助けてもらえたかもしれないのに、誰も来なかった。

 すき間の出口に近づくほど、心臓の鼓動がおかしくなる。緊張して、転んでしまいそうになるほどに、足が動かしにくくなる。


 鏡から絶対に目を離さないようにして下がっていると、だんだんと鏡が遠くなって、見えている出口の様子が見えにくくなってしまう。最後の方は目を凝らして、小さな鏡の中を必死で見つめていた。


 おそらく、奴が立っていた場所は通り過ぎている。でも何も起こらなかった。少しだけ安心して、気を緩めた。あと何歩か戻れば、塀のすき間から通学路に出られる。


(無事に帰れたら、明日、瞬にこの鏡の話をしてやろう)


 きっとあいつは怖がる。もしかすると、陸上部の先輩に聞いたときよりもびびってくれるかもしれない。そう考えながら、通学路に出た。


(なんだ。何も起きないじゃないか)


 拍子抜けだ。あの変な化け物は俺の何かの見間違いだったのか。

 すっかり暗くなってしまった。家に帰ろう。

 安心して、すき間に向けていた顔と身体を、街灯が照らす道の先へと向けようとした。


 肩をつかまれる。俺は驚いて、振り返ってしまった。


 目が合う。


 はいた。俺を待ち構えていた。かすれた笑い声を上げながら、ものすごい力で俺を引きずり倒した。何もできない。悲鳴を上げてアスファルトに叩きつけられた俺が最後に見たのは、黄色いレインコートと大きなぎょろりとした目玉だった。

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