二月二十日

戻る、あるいは戻らない

 午前六時と、日の出ていない明け方に、由加子は目を覚ました。すぐ傍に質量を感じた。三太郎が枕に顔の右半分を埋めて、眠っていた。眉をしかめたその寝顔を、少し可笑しく感じた。男の体はうつ伏せで、肩から背中の半分が露わであった。薄明かりに浮かぶ筋肉の陰影と無防備な肋骨に、由加子は一時いっとき、目を細めた。部屋の暖房はかかりっぱなしだった。

 喉が渇いていた。眠る男と逆へ向くと、シーツとの摩擦に、何も着けていないことに気づく。あのままで寝ていた。夜と夢との境界が曖昧だった。記憶は、頭よりも体の中に、強く残っていた。意識に昇らせれば、温度までもがよみがえった。

 ローテーブルの上には、吸い殻の入っていない灰皿、氷の解けたどうしようもないグラスが二つ、ウイスキーの瓶、そして、蓋の無い炭酸水のペットボトルが載っていた。由加子はベッドの端に体を起こし、気の抜けたそれに手を伸ばす。泡の出ない液体を口へと流し込み、こぼした。顎から首をつたうしずくを、手で拭った。もう少し、現実へと戻らないといけない気がした。

 まだ薄暗いこの部屋の中で、その助けになるものは――テレビくらい。こんな時刻に何が――と由加子は思ったが、リモコンを手にし探ってみると、何かの競技の中継に行き着いた。シーツを背中に被り、音を消したまま、その画面を眺めた。由加子からは、かなり遠い場所にある現実だった。

 次第に窓の外が明るむ。カーテンは、薄手のものにしていた。部屋の隅まで、光が届く。床に散らばっているのは、ゆうべ二人が脱ぎ捨てた服だ。由加子はそれらをちらと眺め、やはりまだ戻らないでいたい気がした。背後で三太郎の目覚める気配がした。

 由加子はシーツをもう少したぐり、胸を隠そうとした。そこへ男の手が、シーツの間から彼女の腰に触れる。反射的に、丸まりかけていた背中が伸びた。さらに強くシーツを引くと、男の手は離れた。もぞもぞと体を起こす揺れ。そして、手のひらよりも大きく、温かな感触が彼女の両肩を包んだ。右耳のすぐ脇に、男の息があった。

「オリンピック」

 がさついた声は、背中を伝った。

「ん」

「音、出てませんけど」

 崩して座る由加子のむき出しの両ももに、男の手のひらが降りた。

「べつに……」

 三太郎は画面を見つめたまま、由加子に上体を半ば預けてきた。少し、重く感じた。その両腕に、由加子は自分の手を添えた。この重みを気にしている間は、他のことは考えなくていい。そういうことにした。戻らず進まず、二人はしばらく、そのままでいた。

 画面の向こうでは、表彰式が行われていた。日の丸の国旗が大きく映った。やがて中継が別の競技に切り替わると、由加子もそろそろ動こうという気分になった。まずベッドを降りて服を集めようかと思った刹那、三太郎が両手を腹へ滑らせた。由加子は思わず身をよじり、息を飲む。しかし、手はそこで止まり、動かない。力が僅かに、こもっていた。由加子は首を引いて、男に顔を向けた。探るようにその目を覗くと、彼もまた、同じ目をして彼女を見ていた。

 ――あああ、もう。

 じれったい。そんな気が、急にした。ゆうべのと似た、しかし異なる熱が、由加子のなかで起きていた。それならと、三太郎の手をさらに上へと押しやる。が、彼が顔を寄せるのも、それと同時だった。由加子は慌てて目を瞑る。唇が合わさる。しかし――

 入って、来ない。唇もまた、探っていた。もう一回するんじゃないの、と塞がれた口で訊ねる。返事が無い。由加子は顔を離した。互いの吐く息が、熱を帯びて渦巻いた。憤りの混じった目をもう一度閉じ、吸いつく。三太郎の手に自分の手を当て、掴む。情動が体内を巡りだす。唇で唇をこじ開け、由加子はそれを解放した。






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