仄かな互いの影
由加子が三太郎の腕を引いた。その意味するところとは。
三太郎は、すぐに察した。というよりも、そうなることを望んでいた。願っていた。そう動いてくれはしないかと、アピールする意味を込めて、わかりやすく由加子に背を向けた。彼女がそういうタイプであること。ふとした拍子に、言葉にではなく行動に、本音を洩らしてしまうタイプなことに、期待をかけていた。
「……すみません、やっぱ二人降ります。いくらですか?」
果たして、その願いは叶った。車内に戻り、料金を支払う。左足を車外にわざわざ出しているのは、由加子の安心のためだった。報いたい、そんな気がした。再びタクシーから出ると、彼女は身じろぎひとつせずに三太郎を待っていた。
「やっぱ寒いですね」
「…………」
まるで十代の少女にでも戻ったかのような佇まいであった。
「コンビニ、寄ってくんですか?」
三太郎の胸の辺りに視線を落としたまま、頷く。彼が店へ体を向けると、彼女はそれを先導して、中へ入った。
「まだあんまり腹減ってないですけど……ま、なんか買っていきましょっかね」
「炭酸」
「え?」
「炭酸水。足りないから」
「あ、はい」
まだ飲むつもりなのか、こんなに酔ってるのに? と首を傾げつつ、三太郎は無造作に三、四本の炭酸水のペットボトルをカゴに放り入れた。あとは何も考えずに、腹に入れるものを見繕う。レジで会計をしていると、ふと、自分のコートを羽織ったままの由加子と、スーツだけの自分との取り合わせは目立つのではないかと気になった。
「ここから近いんですか?」
「そんな遠くない……けど」
「どのくらい?」
「五分かかるか、かかんないか……ごめん、寒い?」
「あ、それは大丈夫ですよ。なんなら、走ろうかなって。ね、由加子さん、走りません?」
「それはやだ」
ファミリーマートを出た二人は、並んで夜道を歩きつつ、そんな言葉を交わした。三太郎が由加子の家に行く、ということ自体は、既に互いに了解していた。
由加子の一人住まいは、ごく普通の三階建て賃貸マンションの三階の一室だった。三太郎は、何か当然の期待感を持って、その玄関をくぐった。寒さはもはや意識には上らなくなっていた。由加子の様子をうかがってみると、彼女は彼女で、酒にはまだ酔ってはいたが、ひとつひとつ、確実に手順を踏んでいく――部屋の灯りを点け、鞄を置き、エアコンを操作して設定温度を28℃にした。三太郎のと自分のコートをハンガーに掛け、お湯を出して手を洗う。
「君も、お湯、使って?」
いくぶんゆっくりと、そう言葉を発して三太郎にもそれを促し、彼の提げてきたビニール袋の中身を捌いていく。三太郎は、部屋の中よりも、そんな由加子の動きを、由加子の姿を、じっと観察した。
「これしか無いけど……いい?」
そう言って彼女が手にして見せたのは、サントリーホワイトの白いラベルの瓶だった。
「あ、なんか渋いですね。でもおれも好きですよ、それ」
三太郎は笑みを返してそれに答えた。迎合などではなく、実際、ホワイトは彼の好みの酒のひとつであった。
エアコンが静かにうなり、部屋が暖まってくる。受け取った瓶を少し眺め、ローテーブルの上に置いた。由加子はというと、冷凍庫を開け、袋入りの氷をグラスに移しているところだった。
「由加子さん、けっこう飲んべえですよね。氷と炭酸は切らさない、的な?」
「悪い?」
「いやあ? てか、まだ飲むんですね」
「ちょっとだけ……ね! あ、あと灰皿!」
炭酸水のペットボトルをひとつと、グラスが二つ、それにガラス製の灰皿をひとつ、盆に乗せ、由加子もまた、テーブルに着く。ベッドとの間、三太郎に並んで座った。
「おれも、ちょっとでいいですよ。てか、水分」
「そう?」
ごく薄めのハイボールが二つ、できあがる。
「はい、お疲れー」
「はいどうも」
改めて、グラスを軽く合わせた。
「氷、あんまり無かった」
「大丈夫ですよ、もうそんな飲むわけじゃないし」
そんなに飲まない、そのあとは――そんな思念が、三太郎の頭をよぎる。
「ここね、エアコンが200Vなの」
「え、なんですか」
「だから、すぐ暖まる」
「そうなんですか」
「大家さんがね、入居するとき、自慢してた」
「自慢って。なんか笑いますね、それ」
「こういう時、助かる」
「……なるほど」
由加子もまた、自慢げな、そして満足げな顔をしていた。
「煙草は、いいの?」
「うん、まあ、後ででいいですよ。回りすぎたらあれだし」
「私も、今はいいかな」
「やっぱり普段は、換気扇の下で吸ってるとか?」
「ふふ、そう。そうしてる」
「おれもですよ」
三太郎は、右手を自分の首に当てた、指先が冷たくはないか、気になった。その動きを、由加子が目で追う。
「…………由加子さん、乾杯しましょう」
「ん? 今、したじゃない?」
「もう一回」
再び、グラスを手に取る。由加子もそれに倣う。
「乾杯、っと」
「なあに?」
もう一度、喉に液体を流し、グラスをテーブルの手前でなく、奥側に置いた。それを見て、由加子も同じく手を伸ばし、その傍に自分のグラスを置いた。
手を戻す動作。体が、顔が向き合う。視線は互いの口元に注がれる。
そして二人は唇を合わせた。互いに吸い寄せられるように。すぐに、荒い息が漏れ出す。由加子は両の手を男の肩から首に這わせた、三太郎は、女の腰に手を回し、引き寄せた。
「電気……」
部屋の灯りが消された。リビングのドア越しに漏れるキッチンの光だけが、仄かに互いの影を描き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。