不透明な心地よさ

 Bullに入ったのだからおしまい、と由加子は、三太郎の腕の内から逃れ、元いた椅子へ戻る。三太郎がゲームの残りを消化するのを眺めながら、カールトンを一本取り出し火を点けた。彼はというと、その楽しげな目はボードを捉えてぶれることは無く、腕の振りには何のためらいも見せず、テンポよくズバズバと矢を投げていく。刺さる衝撃は意外なほどの大きな音を立て、マシンの効果音がそれに続く。由加子の内部に入り込んでくる様も、これと似ていた。驚きと、痛みと、心地よさがあった。

「はは、全然だめだ。Bullはあの一本だけでしたね」

 彼は由加子のところへ戻ると、グラスの残りをぐいっと開けた。あまり酔っているようには見えないが、普段の彼よりはかなり陽気にも見えたし、何より、わかりやすい――由加子はそう感じていた。

 逆に言えば、普段の三太郎は、わかりづらい。ゆえに掴みかねていたのが、今日のこの夜、何やら途端に見え始めたような気がした。と、そこで、私はこの人に興味があったのか、という自らへの気づきが生じたことに思い当たる――

 しかし、考えをまとめるには、少し酒が入りすぎたようであった。半分くらいまで燃え進んだカールトンの煙を吸い込んだ時、由加子は眩暈を覚えた。

「ん……」

 顔を顰めてみるが、視点がどうにも定まりにくい。

「由加子さん、そろそろ出ますか」

「そろそろって……今って何時?」

 三太郎の顔は見ずに答える。

「十一時くらいってとこですけど……これ、ありますよ」

 彼はいつの間に頼んだのか、水と氷の入ったグラスをカウンター上で由加子に差し出した。口をつけてみたが、水が冷たすぎた。空けるのに、少しばかり時間を要した。


 店を出てみると、鍋屋に入る時には弱まっていた北風が、また勢いを取り戻していた。いくぶん酔ったとはいえ、寒いものは寒い。由加子は自分が薄着だったことを再び呪い、首をすくめ、体を縮こまらせた。

「いやいや、由加子さん、駄目だ、寒いですって」

「そんなの見りゃ――」

 言葉を返そうとした刹那、由加子の背中を何かが包んだ。分厚さと重さを、まず感じた。寒さが遮断された。

「えっ」

 嗅ぎ慣れない匂いが、少しした。三太郎が自分のコートを彼女に掛けたのだった。

「い、いや、あの……」

「あー無理だ無理だ、タクシー乗っちゃいましょう。由加子さん、練馬でしたよね?」

「なんで知ってる……の……」

「俺、保谷なんで。あ、停まりましたよ。先に、いいですよ」

 三太郎が白い息を吐いて由加子を促す。コートの下に鞄を抱えるという落ち着かない格好のまま、彼女は後部座席の奥になんとか、尻を滑り込ませた。

「ひとまず練馬に向かって下さい」

 運転手にそう告げ、三太郎が足を車内に引っ込める。ドアが閉まり、タクシーは静かに発進した。

「由加子さん、練馬のどの辺りですか。あ、いいですよ、俺払いますから」

「ぐ……練馬の駅の、ちょっと……裏なんですけど……コンビニが、ファミマがあるんで……」

 思考が追いついていないことが自分でも分かってはいたが、三太郎に諸々を委ねたことに、大きな安堵を覚えてしまった。酔いの回った彼女にとって、これほど楽なことは無い。

「寝ちゃっていいですよ」

 言われるまでもなく――と、由加子は鞄を抱えたまま、しばしの眠りに落ちた。



 その眠りは、一瞬のように感じた。しかし実際には、三十分ほど過ぎていたのだろう、中野区辺りの見覚えのある地名が、ナビの画面に映っているのが見えた。眠気がまだ尾を引いているが、眩暈はだいぶ治まっていた。隣のシートでは、三太郎もまた、うつらうつらしている。暗がりのため表情までは見えないが、目を閉じているのはわかった。君も寝ちゃってるんじゃないの、と、由加子は可笑しみを覚え、そして、彼がそこにいることに、また安堵した――

 安堵? と、そこに自身への驚きを覚える。タクシーに乗り込んだ時は思考がぼんやりとしていたが、今はそれよりも少し醒めている。それでも、隣に三太郎がいることで、由加子は何やら落ち着いた気分でいる。それは一体、どういうことなのか――頭ではなく、何か、体の中に、その答えがある――そんな気がするが、やはり、わからない。思考が、感情が、まとまらない。だが、心地よく感じていることは、確かである――?

 そんな不透明な心地よさに満たされていた。二人を乗せたタクシーはやがて、由加子の言ったファミリーマートに到着した。

「着きましたよ」

 運転手の声に、三太郎は目を覚ました。

「あ、すみません、ここで一人、降ります」

 そう告げると三太郎は先に車を出、由加子に手を差し出してその手を取る。思わず彼の顔を見上げるが、彼は由加子と体を入れ替えて、車内に戻ろうと身を屈めた。

「ちょっと――」

「あ、コート、いいですよ、着てって。月曜にでも持ってきてくれれば」

「じゃなくて!」

 由加子は三太郎の腕を引いた。引いてしまった。その引いた手の意味を、彼女自身、わからないままに、彼女は、彼の腕を引いた。






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