キンギョになるキツネ

如月冬樹ーきさらぎふゆきー

キンギョになるキツネ

「今年はパパが浴衣を買ってくれるって」


 突然の嬉しいお知らせに、あずさはそのまん丸お目々をパチクリさせた。


「お姉ちゃん、それって本当?嘘じゃないよね」


 毎年毎年、おねだりしては断られてきたのに今年になって急にいいよだなんて、梓はにわかには信じられなかった。ぬか喜びする前にもう一度確認してみる。

「もちろん本当よ。さあ、帰りましょ。」


 そう言ってかえでは妹の梓の手を握った。どうやら本当だということがわかると、梓はルンルン気分で姉と一緒に幼稚園の門をくぐった。


「お姉ちゃんの浴衣は?」


 ふと気になって、梓は聞いてみた。


「私はお母さんの浴衣を着るわ」


 お母さんという言葉を聞いて、梓は少し寂しくなってしまった。梓の母は、梓がもっと小さい頃神隠しにあった。少なくとも梓にはそう伝えられていた。楓と梓そして夫の三人を残し、母親は突然消えてしまったのだ。梓はそれ以降、七夕の短冊にはママが帰ってきますようにと書いてお願いするようになった。


 しかし、未だに母は戻ってはいない。そんな母が残していった数少ない品のうちにその浴衣があった。赤色の生地に白の和風な花柄が散りばめられた美しい浴衣で、優雅な金色の帯が特に母のお気に入りであった。梓はそれを見る度にまぶたの母をしのんだ。


「でもお姉ちゃんも新しい浴衣が良いってパパに言ってたよね」


「私は良いのよ。もう高校生なんだから。」


十六歳になった楓は背も伸び切り、夏の夕暮れの中で梓と並ぶと、まるで母と娘のようであった。


「そっか、でもママの浴衣可愛いよね。金魚みたいで」


 本当は姉とお揃いの浴衣を着たかったので、梓は少し不満だった。ただ、新しい浴衣を買ってくれるという喜びの方が大きかった。


「ただいま」


 家に帰っても案の定誰の姿もなく、二人を迎えてくれる声はしなかった。今夜も姉が夕ご飯を作ってくれた。大好物のオムライスだったので、付け合わせのレタスも残さず食べた。すると姉に残さず食べてえらいねと褒められたので梓はもっと嬉しくなった。夕飯やお風呂を済ませた後、しばらくトランプなどをして姉と過ごしていると父親が帰ってきた。


「お帰りなさい」


 梓は一目散に玄関へ駆けていく。楓はその少し後を歩いて追いかけて父を出迎えた。


「ただいま、二人とも良い子にしていたか」


 普段は具合が悪そうな父親だが、今日はいつもより陽気だった。


「パパ、浴衣買ってくれるんだよね。ありがとう」


 梓はコロコロと笑った。


「ああ、もちろん。それをきてお祭りに行こう。今年の夏祭りは何でも好きなものを買ってやるぞ」


 再びの朗報に梓の心は踊った。


「やったあ。すっごく楽しみ」


 子供っぽくはしゃぐ愛しい妹とヨレヨレで頼りない父親を見ながら、楓は少し物憂げな表情を浮かべていた。


 その夜、三日後の夏祭りが楽しみで眠れず布団の中で寝ようと頑張っていたところ、姉と父親の会話がたまたま聞こえてきた。


「もう嫌だわ。こんなこと」


 そう言う姉の声に続いて、布が勢いよく投げ捨てられる音がした。


「こんなの着たくなんかない。こんなの間違ってる」


 いつも優しい姉が珍しく声を荒げていた。二人と梓を隔てているドアが震えるほどの剣幕だった。こんなことは初めてで、梓は怯えていた。


「もう、これ以外無いんだ。許してくれ。許してくれ……」


 父親の今にも消えてしまいそうな声を聞き、梓は思った。やっぱりお姉ちゃんも新しい浴衣が着たかったんだ、自分のせいで買えなくなっちゃったんだ、と。だからといってどうすることもできず、暗闇の中で梓はうずくまっていた。


 週末の夏祭りまでは毎日幼稚園があった。梓は欠かさず通った。しかし、奇妙なことに自分たちの家、と言ってもマンションの一室であったが、そこにある物が梓が帰ってくる度にどんどん少なくなっていたのだ。


 引越しでもするのかしら、と梓は考えていた。試しに父親に聞いてみると、


「もっと良い所に行くための準備だよ」


 と言われた。やっぱりそうだったのか、と梓は納得した。


 とうとう夏祭りの日がやってきた。夕方の六時くらいから夏祭りの会場の神社に三人は向かった。あたりはまだ十分明るかったが、それでも昼間よりは幾分いくぶん空がオレンジ色を帯びてきていた。夏祭りの会場の神社はちょっとした森の中にあり、セミがミンミン鳴いていた。はぐれてしまいそうなほどの人混みと、どこまでも続いているかの様な屋台の列が梓の心を踊らせた。


 梓は淡い水色の生地に薄紫の朝顔が散りばめられた可愛らしい浴衣をきていた。丁度幼稚園で朝顔を育てていたので、この浴衣を選んでみた。姉も母の遺した浴衣を着て、妹に負けず劣らず華やかな服装であったが、父親は黄色の半袖ポロシャツにジーパンを着てリュックを背負っていた。梓が冗談混じりに


「お祭りっぽくないよ」


 と言うと父親は、


「二人が主役だからさ」


 と答えた。


 それからしばらく楽しい時間が続いた。梓は狐の可愛いお面を買ってもらった。梓にとってこれが人生で初めて買ってもらったお面であった。そして、タコ焼きとチョコバナナを食べた。父親が出来立て熱々のたこ焼きを口に入れ、まるでタコの様に口をすぼめて


「あちっ。あちちっ」


というのがあまりにおかしくて梓はキャッキャッと笑った。その無垢な笑い声は夏祭りをより華やがせた。楓も隣で目をそっと細めて微笑んでいた。


射的やヨーヨーすくい、金魚すくいもやらせてもらった。運よく一匹だけとれたが父親が、


「死んでしまうと可哀想だ」


というので、金魚はもらわずに返した。


 屋台の林を抜けた先には神社に続く石段があった。


「お参りしよう」


 と父親が言ったので、三人は石段を登り始めた。頂上にはお社があって左右には狐の石像があった。


 お賽銭を入れ、元気に鈴を鳴らして梓は願い事をした。


お母さんに会えますように


 そう梓は心の中で呟いた。


「何をお願いしたの」


 と姉が聞いてきたので梓は


「お母さんに会いたいってお願いしたの。神様だったら他の神様の神隠しだってやめさせてくれるよね」


 その答えを聞いて、楓は


「そうね」


と素っ気なく答え、それきり喋らなくなってしまった。すると突然父親が


「ああ、そうだな。もうすぐ会えるよ。きっと」


 と優しげに言った。


「本当?やったね、お姉ちゃん」


 そう言って姉の方を見遣っても、姉は何も言わずただ寂しげな笑みを浮かべるだけだった。お狐様も心配そうな顔をしているように梓には思えた。


 お参りを終えると、あたりはもうすっかり暗くなっていた。石段の上から見渡す屋台の光がまるで空の星々のようであった。そのうちに打ち上げ花火のアナウンスが流れた。


 最初の一輪が大きな音とともに空に咲いた。それに続いてどんどん打ち上がっていった。次々に打ち上がっては花開き、そしてさらさらと闇に消えていった。昔、母親と花火を見たことがあったかも知れない、梓は空を見つめながらそう思った。母の膝上で揺られながら、その日も花火を見ていた。その時背中に感じた母の温もりも、今はない。母はもう、花火のように消えてしまっていたのだ。


 花火が終わると夏祭りも終わりという雰囲気で、皆ぼちぼち帰り始めていた。その中、父親を先頭に三人は森の奥に向かって行った。


「どこに行くの。パパ」


 と梓が言っても、父親は


「見せたいものがあるんだ」


 と梓の方ではなく、正面を向いたままで答えることしかしなかった。


 梓の両側に茂る木々は皆黒々としていて、なんだか不気味だった。それなのに父親は暗がりの中をズンズンと進んでいく。


「なんか怖いよ。お姉ちゃん」


そう言って姉の方に顔を向けても


「大丈夫よ。お姉ちゃんがいるから」


 と言ってくるだけであった。そういう割には姉の様子は大丈夫そうではなかった。握った姉の手はじっとりと汗ばんで、肌もやけに青白かった。


 三人は無言でしばらく森の中を進んだ。そして、かなり奥まできた時に、梓は突然目隠しをされた。木綿のハンカチのような感触だった。


「絶対に取っちゃダメだよ」


 そう父は言った。


「パパ、なんか怖いよ」


 尋常でない雰囲気を感じとる。


「大丈夫怖くないよ。パパたちも一緒だから」


 優しい口調だが、穏やかさは感じない。


「やっぱり怖い」


 思わず泣き出す。


「大丈夫、大丈夫だから」


 語気を強めて繰り返す。


 すると喉元にチクチクするロープのようなものが巻き付けられた。


 梓は訳も分からず泣いていた。


 その時、梓の体はヒョイと持ち上げられ、連れ去られた。目隠しで状況がわからなかったが、姉らしき人物の荒い吐息が聞こえてきた。


 草を激しくかき分ける音を立てながら姉らしき人はかなりの速さで駆けて行く。そしてその内に、


「あっ」


 と短く言葉を発して立ち止まった。梓の耳にはさらさらと、川のせせらぎが聞こえてきた。何があったのか知りたくなり、父親の言いつけを破って目隠しをとってみた。


 するとそこには小川が流れていた。水面が弱い光と月明かりで照らされて、妖しく光っていた。夏の闇夜の中でホタルたちがふわふわと漂っていた。


 「綺麗だね」


 神秘的な光景を目の前に、そう梓は呟いた。そのうちに父親が追いついてきた。息を切らしている父親に向かって梓は


 「パパみて、とっても綺麗。これを見せたかったんだよね。こんなに綺麗なんだからママにも見せたいな」


 と笑顔で言った。


 父親はガックリと肩を落とした。そして物言いたげにこちらに近づいてきた。すると楓が父親に体当たりして、川に突き落としてしまった。バシャンという大きな波が夜に広がって、響いて、そして静まった。


「死んだら何もかもおしまいだ。死んだ人にすがり続けるなんてバカよ。私はお母さんみたいにこんな森の中で消えたりなんかしない。弱くても私は輝いてみせる、輝き続けてみせるわ。このくらいでくたばるもんか」


 初めての鬼気迫る姉の声に、梓は暫し茫然とした。水が流れる音と、虫の声だけが聞こえる。永遠の時が流れたように思えた。


「いくよ、梓」


 梓はまたもヒョイと持ち上げられた。姉の背中越しに見える父親がだんだんと小さくなっていった。徐々に暗がりに飲まれていった彼の顔はとても寂しそうだった。


 梓は気づくと絵本の世界にいた。幼稚園で先生たちが読んでくれた絵本にそっくりだった。あたり一面ベージュ色で、果てしなく平面が広がっていた。頭にボロボロの狐のお面をつけたまま、あてもなく彷徨っているとどこからともなく金魚が現れた。


 その金魚はまるでそこに水があるかのように空中をゆらゆらと優雅に泳いだ。梓はその真っ赤で綺麗な金魚を追いかけることにした。しばらく追っていると梓の他にも金魚を追っている物があることに気づいた。それはなんと一個の形が崩れたたこ焼きだった。たこ焼きは梓の横を並走していた。


しめしめと梓は思った。ちょうどいいところで食べ物を見つけた。梓はとてもお腹が空いていたのでそれを食べようとした。


 その刹那、たこ焼きからタコの足が出てきて梓の首にまとわりついた。その足はなるべく梓を苦しませないように優しく梓の首を締めていった。それでも苦しかった梓は思わず助けを求めた。


「助けて……」


 するとたちまち梓がつけていた狐の面が生きている狐に変わった。ただ、クレヨンで描いたような、そんな見た目をしていた。狐はタコの足に噛みつき、振りほどいた。それから、梓を口で自分の背中にヒョイっと乗せて一気に走り出した。しばらく走っているとさっきのタコが目の前にまた現れた。なんだか悲しそうだった。


「仲直りしましょ」


 梓がそういうとタコは嬉しそうに足を振った。狐も喜んでグルグルとその場を回った。梓も幸せな笑顔を浮かべた。そして狐と梓とタコは絵本の世界で仲良く暮らし始めた。


 ふと目が覚めると、梓の目には母の姿が映った。


「ママ……」


 寝ぼけた声で呼び掛けた。すると


「何言ってるの。私はお姉ちゃんよ」


 という楓の声がした。


 なんだお姉ちゃんか、と梓は思った。


「ここはどこ」


 と梓は聞く。


「電車の中よ、お婆ちゃんのところに行くの」


 姉は車窓から外を眺めながらそう言った。


「それからね」


 と楓は続ける。


「お母さんはもう死んだのよ」


 楓は遠くを見たままさらりと告げた。


 梓は音もなく、つうっと落ちてきた涙を手に持っていたハンカチで拭った。それは父親のハンカチであった。


 金魚のように清らかな衣を身に纏って、姉の目は曇りなく先を見つめていた。梓はそんな姉の表情に何故かしら、温かさを感じていた。



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