文鎮

増田朋美

文鎮

文鎮

その日は、朝はこの秋一番の冷え込みというべきなのか、極端に寒かったが、昼間は半そででもいいのではないかと思えるほど、暖かい日であった。昼と夜の寒暖の差が激しすぎて、もう疲れてしまうのではないか、と、思われる日だった。それでは、其れが原因で体調を崩してしまうひとだって、たくさんいるはずだ。普通の一般的な内科に行っても、病名とか、症例を判定することはできず、仕方なく精神科に回されるという人も、たくさんいるのだった。

「えーと、都筑華代さんですね。ご住所は、富士市厚原。職業は、現在働いていらっしゃらないと。」

影浦は、彼女の書いた問診票を眺めながら、とりあえずそれを読み上げた。

「学歴は、えーと、藤高等学校、理数科、、、はあ、ずいぶんとレベルの高い高校に行ったものですな。」

「でも、県立高校に行っただけで偉い人になれるのは、静岡県しか、ありません。其れよりも、ほかの県と同じように、私立に行った方が、えらいってしてくれればいいのに。それに、私は、高校も卒業できませんでしたし。」

と、影浦の目の前にいる若い女性は、そういうことを言った。彼女は、緑のズボンに、ピンクの長そでのシャツを着て、小さくなって患者椅子に座っている。見たところ、影浦の身長とたいして変わらない大柄な女性なのだが、その中に、とても繊細な一面が隠されているのかと影浦は思った。都筑華代という、変わった名前であるが、其れもある意味コンプレックスになっている患者も多いのである。

「じゃあ、急に勉強ができなくなったのは、いつの事ですか。」

と、影浦が聞くと、

「ええ、高校に入ってしばらくは、勉強はできました。でも、二、三か月くらいして、勉強が、すごく苦痛になり始めて、机に座っていることもできなくなるほど、つらい気持ちが続くようになったんです。

それで、だんだん勉強ができないということで、周りのひとに、そそのかされればされるほど、勉強ができなくなって。それで、もう疲れてしまって、ずっと寝ているしかできなくなったんです。其れでも、学校は、私に対して冷たかったんです。それで、私は、焦りましたけど、どうしても、自分で勉強しようという気になれなくて。結局、学校から、除籍されました。そのあとは、もうどうでもいいって感じで、ずっと家の中に引きこもってしまったまま、ついに30になってしまいました。」

と、彼女はしっかりと自分史を語った。きっと、彼女が疲れたら、一寸休ませてやれるような環境が少しでもあれば、また違っていただろう。でも、彼女にはそれが与えられなかったのだ。それで、精神障害を悪化させてしまったという、パターンである。何人かを診察していると、いくつかパターンが見えてくるものだ。大体、受験勉強が原因でおかしくなった子は、受験の強いストレスに耐え切れなかったか、それとも、学校に入学してついて行けなくなったか、そのいずれかに入ることが多い。彼女、都筑華代は、藤高校という名門校に入ってから、おかしくなったというパターンである。

「わかりました。それ以上、自分のことを語るのは、お辛いですからおやめください。其れよりも、これからどうするか、を考えましょう。まず初めに、現在あなたが、抱えていらっしゃる、症状についてお尋ねします。今ある症状は、問診票によりますと、幻聴と幻覚があると書かれておりますが、其れは、いつ、どこで、どのような症状が出るのでしょう?」

影浦は、鉛筆をとって、彼女の名を書いたカルテに、書き込もうと身構えた。

「ええ、時間が決まっているとか、そういうことではありません。ただ、これからどうしようか、不安を感じたりすると、隣の家の犬が、いじめられているような情景が浮かんでしまうんです。其れは、何度やっても、消し去ることができなくて。それで、そういう風に、かかせてもらいました。」

と、彼女が発言したので、影浦はそれをカルテに書き込んだ。そして、

「これは、一番重大な質問なんですけどね、その、隣の家の犬がいじめられている光景が見えることを、あなたはどう思っていますか?それが思い浮かんできて、苦しいですか?それとも、自分を守るためには仕方ないと思ってしまいますか?」

影浦は、出来るだけさりげなく、彼女にそういうことを言って見た。これは本当に、大切な質問で、症状を快ととるか、それとも不快ととるかで、精神疾患の病名を決定する、大事な足掛かりになる。

「そうですね。私にしてみれば、そういうことを言わないと、家族が私のことを、何もしないダメな人というものですから、其れは、仕方ないという気がいたします。」

彼女は、正直に答えたようだ。なるほど、と影浦は、其れもカルテに書きこむ。

「初めのころは、それではいけないと思っていたのですけど、知らないうちに、お前はダメな人と、家族に言われ続けるうちに、そういうことを言って、そういうことが実際に起きているようにしておかないと、私が家にいられないので。」

影浦は、なるほどなるほどと言って、出来るだけ彼女の話を逃さないように真剣に聞いた。たとえ支離滅裂な話であっても、現実には起きていない話であっても、真剣に聞くという姿勢を示すことが、一番大事だと思う。其れをしなかったら、適切な治療というものは、出来なくなってしまう。

「本当は、友達に会うわけじゃなくて、一人で出かけているのに、誰かと一緒に行ったとか、そういう事も話しているんです。出ないと、本当に私、ただの引きこもりしか価値がないし、それに生きていてもしょうがない存在になってしまうから。あ、もうなっていることは百もわかってますよ。私は、向いている仕事もないし、出来ることと言ったら、家事を手伝うことくらいだし、文字通りただ、生きているだけの人間です。そんな人間が、生かされていいわけないですよね。幸せになっていいなんて、法律はどこにもないでしょ。だから私、空想の世界では、ちゃんと仕事に行って、ちゃんと働いていることにしているんです。」

「そうですか、出かけるときは、いつも一人で出かけているんですか?具体的にどこに出かけているんでしょう。」

「ええ、一人でバスとかタクシーとかに乗って、カフェとか、図書館とかに出かけてます。でも、一人で行くのは寂しいですよね。何かサークルにでも入ればいいとは思うんですが、私は、仕事をしていないから、そういうところに入ることはできなくて。だから最近は一人でカフェとかでぼーっとしています。家族には、適当な名前を付けた友達に、会いに行っていると伝えてあります。だから、家族は私のことを友達がたくさんいる人と思っているでしょうけど、実際には一人もいなくて、私は、一人でぼんやりしているだけなんです。」

「なるほど。またもう一つお聞きしますが、将来の目標とか、そういうものはありますか?」

「ええ、あるとしたら、そうですね。仏門に入りたいかな。きっとうちの家族は不幸な死に方しかできないでしょうから、その謝罪をするためにも、祈って暮らしたいという夢もあります。」

影浦は、カルテに書き込みながら、せめて彼女が受験で疲れてしまったときに、味方になってくれる人がいてくれたら、ここまで重症化しなかっただろうなとおもった。でも、そういうひとは、彼女の前には現れなかったのだろう。其れをせめても仕方ない。だから、彼女の気持ちをどう変えていくか、それを少しずつ、段階的に治していかなければならない。

その前に、彼女に聞いておく必要があった。

「あの、一寸お尋ねしたいんですけど、心の事ではなくて、体の事で、何か悩んでいることはありますか?たとえば、足が痛いとか、そういうことです。」

「ええ、そうですね。足が痛いということはありません。ただ、半年くらい前からなんですけど。」

と彼女は語り始める。

「もう半年くらい、頭痛が続いていて。それで、時々、動けなくなるほど頭痛がひどくなる時があって。まあ、其れも、仕事をしないで、何もしないためのいいわけだって、家族は言っていますけど。一度、大きな病院で検査をしてもらいましたが、なにも異常がなくて、その時は、さすがの私も、怒ってしまいました。でも、家族は信じてはくれませんでした。だから、私は、もうこの人たちに話しても無駄だと思って、頭痛のことは、何も言わないでいます。でも、最近は、」

と、彼女はそう言いかけて言葉を切った。

「はあ、最近は何ですか?ちゃんと最後まで話してください。このことは誰にも言いませんから、その分あなたのことはちゃんと、話してほしいんです。」

「そうですか。最近は前より一寸痛いかなという気がします。でも、私のいうことだから、誰も信じてくれはしないと思います。だから、もうどうでもいいやと思うようになりました。」

影浦がそういうと、彼女は明るくそう答えるが、影浦はその言葉に一寸引っかかるものがあった。

「でも、念のため、一寸、脳のCTとってもらった方が良いですね。一度、総合病院かどこかで、やってもらったらどうでしょう。」

「ああ、結構ですよ。どうせ精神障害者と言って、相手にしてくれないでしょう。そんな目をまたするのは、いやですよ。」

彼女はそういうが、

「いえ、ぜひ、やってもらった方がいいですね。それで異常がなければないで、こちらで治療に専念することができますからね。まあ、多少ひどいことを言う医者もいますけど、其れは一寸我慢していただいて。」

と、影浦は言った。彼女は、影浦の顔を見て、

「じゃあ、そういうこと言うんだったら、先生も一緒に来てくれますか。私、親は期限付きだとか、そういうことを言われてしまうのが一番怖いんです。そういうことを言われたら、まだ、ちゃんとすり抜けられる自信がありません。」

というのだった。影浦も少し考えて、そうなってしまうのもある意味仕方ないかと思いなおし、

「了解しました。じゃあ、脳神経外科の予約を取っておきましょうか。」

と、だけ言った。それを聞くと、彼女、都筑華代さんは、にこやかに笑って、ありがとうございますと言った。

「家族には、好きな人とお茶を飲みに行くとだけ言っておきます。予約が取れたら、私のラインに連絡をください。」

「わかりました。多分、すぐやってくれると思いますよ。」

と、影浦は、彼女が見せたラインのIDを、メモ用紙に書き写しながらそういった。

其れから数日後。影浦は、久しぶりに十徳を脱いで、着物と羽織姿になった。いつもなら、白い十徳羽織を着ているけれど、今日は医者という立場を使用しないため、其れは着用しないことにしたのだった。とりあえず、風呂敷に筆記用具などを包んで、彼女が待っているバス停に向かった。バス停に行くと、都筑華代さんが待っていた。

「おはようございます。今日も痛みますか。」

と影浦が聞くと、

「ええ、なんとなく痛みます。」

と、華代は答えるのである。

「じゃあ、バスに乗っていきますが、バス酔いなどしましたら、教えてくださいね。と言っても、五分くらいしか乗りませんけど。」

と、影浦が言うと、華代は、

「ええ、私も昨日インターネットで調べましたけど、かなり近くにあるみたいですね。」

と、相槌を打った。バスは、この地域だと、すくなくとも一時間に三本くらい走っているから、まだ便利なほうだ。朝早くだと、通勤や通学で利用する人が多いから、この時間だと、五本くらい走っている。数分まつと、バスがやってきたので、影浦と華代はバスに乗り込んだ。バスはすいていた。二人は、二人掛けのイスに座った。確かに五分くらい走って、脳神経外科の権威と言われている、真田病院の前でバスは止まった。影浦と、華代は、急いでバスの運賃を運賃箱に入れて、バスを降りた。

とりあえず、病院に入って、受付を済ませ、待合室でまたせてもらう。なんだか、頭を丸坊主にして、パジャマや浴衣を着た人たちが、二人の目の前を通った。きっと脳手術を受けた人たちだろうと、華代はつぶやいた。すると受付のひとが、これに記入をお願いしますと言って、問診票をはさんだ画板を華代に渡した。華代は、問診票に頭痛がひどいことを記入した。そして、何か病気にかかっていますかという欄を埋めようとして、手を止めた。

「ああ、そこのところにはですね。」

と影浦がいおうとすると、

「わかってます。先生にこの間教えてもらった病名をかけばいいでしょう?」

と、彼女はその欄に何も迷いもなく、統合失調症と書き込んだ。影浦も、それをわかっているならと、あとは何も言わなかった。華代は、お願いしますと言って、受付に画板を手渡した。

「都筑華代さん、診察室へどうぞ。」

と、看護師が彼女を診察室へ呼んだ。華代は影浦に付き添われて、診察室へ入った。看護師はここへどうぞと言って、彼女を患者椅子に座らせる。数分後、たばこのにおいを漂わせて、医者が入ってきた。

「えーと、都筑華代さん、頭痛がひどいんですね。」

40代くらいの女性医師であるが、明らかに彼女をバカにしているという風貌をしている。

「ええ、風邪だとか、そういうことを言われて誰にも信じてもらえないんですけど、もう半年くらい

、頭痛が続いていて。」

華代は言うことを正直に言った。

「そうですか。それはどんなときに痛みますか?」

と女性医師は華代に聞く。

「そうですね。家事を手伝った後とか、長時間歩いた後とか、そういうときでしたね。」

華代が正直に答えると、

「肩こりとか、そういうものはありますか?」

女性医師は聞いた。

「ええ、確かに私は、緊張しやすいタイプなので、肩こりはよくあるということはあります。」

と華代は、又正直に答える。

「そうですか、わかりました。多分、精神疾患による緊張性頭痛でしょう。大したことはありません。気にしないで、日常生活を送ってください。」

華代がそういうと、女性医師は、面倒くさそうに言って、華代にもう出るようにといった。それを一部始終見ていた影浦が、

「待ってください。薬はもらえないのでしょうか。せめて、脳のCTをとるとか、そういうことはしてくださらないんですか。」

と急いで彼女の話に付け加えた。

「ええ、大丈夫ですよ。大体そういう病気で来られる方は、何も異常がないことが多いです。ですから、特に精密検査なども必要ありません。それに、精神に障害のある人は、大概は甘えすぎていることが多いですからね。」

女性医師は、華代のような人にはかかわりたくないという顔つきで言った。まるで、精神疾患を持っている人には、来ないでもらいたいという感じの口ぶりだった。

「せめて、脳のCTでも撮ってやってもらえないでしょうか。彼女もそのほうが納得すると思います。」

「そうですか、分かりました。じゃあ、そうしましょう。それでは、検査室に来てください。お父様はしばらくお待ちください。」

と、女性医師は面倒くさそうに影浦に言った。

「失礼ですが、僕は彼女の親御さんではありません。精神科医の影浦と申します。彼女が、自分の頭痛を誰にも信じてもらえないと訴えてきますので、今日は付き添いました。」

影浦は静かに、でもきっぱりといった。それでも女性医師の態度は変わらなかった。そんな人間の相手を良くしてあげられますねとでも言いたげな表情だった。

「それでは、都筑華代さんの脳のCTを撮ってやってください。」

と、影浦がもう一度言うと、女性医師は、仕方ないという表情をして、彼女を検査室へ案内した。

そして、CTの基本的な手続きを済ませ、撮影は完了する。撮影後、又呼び出しますから、こちらで少しお待ちくださいと看護師に言われて、影浦たちは、別の部屋でまたされた。其れから、数十分ほどたった時。

「影浦先生。一寸来ていただけないでしょうか。」

と、看護師が、いきなり影浦を呼びつけた。華代には、別の看護師が、一寸お話があるからと言って

その場に残らせる。何だろうと思いながら影浦は、その看護師に連れられて、診察室へ入った。

「現像はできましたか。」

と影浦が言うと、先ほどの女性医師は、一枚の画像を影浦に見せる。

「はあ、彼女の画像ですか。」

と影浦は、わざと知らないふりをして、彼女に言った。

「ええ、間違いなく彼女のものです。」

女性医師はそういうことを言った。影浦もその画像を見て、専門外であってもすぐにわかる。額に近い部分に、小さいけれど腫瘍ができているのだ。

「そうですか。分かりました。」

とりあえずそういっておいた。

「では、影浦先生の方から、彼女に話していただけますか?手術を希望されるなら、県立がんセンターに問い合わせてみますから。」

という女性医師に、影浦は、大きなため息をついて、

「こちらでは、彼女の手術はしてくださらないのですか?ここは脳神経外科ですよね?」

と思わず言ってしまう。

「ええ、そうなんですけど、当院では、」

そう言いかける女性医師に、

「いいえ、そちらの治療実績は、インターネットで確認しております。例えばウィリス脳動脈輪閉塞症の手術といった難しいものを何度も成功してきた方が、なぜ、このような簡単な脳腫瘍でたじろぐのでしょうか。」

と、影浦は一寸きつく言った。

「まさかと思いますけど、彼女が精神障碍者で、社会的には何も役には立たないことから、手術したって無駄だと思ってはいませんか。医者というのは、そういう事も決められるくらいえらいんですかね?あくまでも、患者のおかげで医者になれることを忘れてはいないでしょうか?」

「そうかもしれませんが、私どもも、実績というものは重視しなけばなりません。それに、こういう疾患のある患者さんは、うちでは扱えないということになっておりまして。」

女性医師は、よくある言い訳を言うのであるが、

「そんなことありません、どんな患者であろうと、医者は対応しなければならないんです。其れは、どこの科でも同じです。」

と、影浦はきっぱりといった。

「それでは、彼女に伝えていただけますか。もちろん、彼女が取り乱すことも十分あり得ると思いますから、そこを止めることは僕にお任せください。そこは任せてくれて結構ですが、脳腫瘍の説明は、あなたがしていただきたい。」

「わかりました、、、。」

女性医師は、納得するようなしないような態度を見せていたが、とりあえずそういってくれたので、影浦はほっとした。消してしまいたいと思われる人でも、時には接しなければならないこともあるのだ。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

文鎮 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る