最終話


「途中確認ですけど一応このY氏はヤマギシさんで間違いないですね?」

「間違いない」

「ヤマギシさんは以前大学で教授をなされていたんですね」

「ああ、国文学のね。もし未来が違っていたら君とも出会っていたかもしれないね」

「……そうですね。まぁ、こうして会ってますけど……そうか、だから……」と長野は一人腑に落ちたようだった。

「あの、ご友人か知人に誰か心理学や人間学の方はいませんか?」

 ヤマギシの膝に置いていた人差し指がほんの一瞬動いたあと、静かに「ロシアにいる」と言った。

「ああ、おそらく君の考えている通りだよ」

「そうですか、では質問をかえます。この資料は推測する限り、時が経ってから思い出すように書かれていますよね。何の為に書かれたのですか?」

「事実として記録を残すことにしたんだ」

「ただ子供の成長記録の為に書いた、本当に? 本当は何か別の為だったんじゃないですか?」

「……どういう意味だ」

「この原稿を読む限り確かにチハさんは1008番目の患者であり、問題はその1008番目の患者ということなんですよ」

「……」

「ヤマギシさん、もう嘘はやめましょう。この資料を公にすればきっと世界的なニュースになりますし、チハさんはきっと施設に収容されます。あとそうすることで喜ぶ大人がいる。でもヤマギシさんは最初から公にする意思はなかったんじゃないですか?」

「どうして?」

「二人の関係性、ですかね。私も短い時間でしたけど二人を見てきたつもりです。それにどうせきっと知り合いの研究者か誰かに、多額の売買取引でも持ちかけられたんじゃないですか? 半分脅しつきの」

 ヤマギシはしばらく黙っていた。外からパアンと割れた音が鳴って、長野はチハが鹿を撃ったんだなと思った。

「……私もどうしたらいいか分からないんだ。チハをあの時私が施設に引き渡していれば本来はもう学校に通ってちゃんとした教育を受け、友人だっているのかもしれない。のちに裕福な老夫婦にでも引き取られて、もっと豊かな生活をしていたのかもしれないとも思うんだ」

「それは違うと思いますよ」

「なに」

「チハさんはきっとヤマギシさんだから今まで一緒に暮らせているのだと思います。それにヤマギシさんは多額の売買で得たお金でチハさんを引き取って、どこか静かな街で暮らそうと考えていたんじゃないですか? でもそれはチハさんが世に晒されることになるし、もっと言うとそれは彼女の為ではなく自分のエゴに過ぎないのだと思った。だからといって正しい道は見つからない。私もここでの生活を知って、チハさんが虚飾の街での変わりすぎた生活に上手く馴染めるかどうかと言われれば、そうではないと思います」

「三億」

「え」

「三億で情報と一時的に患者を売ってくれと言われたんだ」

「如何にも大学研究者っぽいデリカシーのない研究魂ですね。でも公表すれば少なくともそれに近いかそれ以上のお金が動く可能性は十分にあります」

「これならチハに生活給付金がもらえなくても街で十分に暮らしていけるとも考えたが、問題はそこだけではないんだ。私は……」

 ヤマギシはまっすぐ火のゆらめきだけを見て、薄っすらと青みがかった瞳から、静かに涙を流していた。

「私はずっと彼女と共に同じ時間を生きられない」

 長野は鼻から息をもらしてからもう一度深い溜息をついた。


「新作タイトル(未定)」

 私、私は由紀。長野由紀。小説家を志して早四年。普段は免許を取得する為に日々小説を読み、プロットを書いたりして、試験に挑む私ではありますが、只今に限り少し様子が違います。

 というのも今、私は杉が等間隔一メートルに並んだ石段の上を歩いてます。壁面や石段横にある岩に薄っすらと苔が張りついていて清い空気満載です。因みに杉を支えるように竹がぞろぞろ生えていて、清いです。どうでしょうか。

 とても、とても清い感じがして何か新しい小説が書けそうな気がするのですか、どうにも書けそうにもないのでとりあえず歩くことにします。そのうち筆をとって清い作品を生み出す次第であります。

 続きです。一段、一段苔が覆った石段を踏みしめて行くと、肺に溜まった塵が洗われていきそうで、つい呼吸をふうっと吐いて、振り返って見ると誰も居ないので何だか笑ってしまってまた一段と石段を踏みます。

 いよいよ行き止まりになって、何やらこの先に寺院らしきものがあるそうなのですが参拝しては駄目そうで、竹の仕切りをちょうど弁慶の泣き所辺りを狙って仕掛けています。だから飛び越えることなど可能なのですが、お坊さんの方に吠えられては怖いので、諦めて引き返すことにしました。

 この日は前日に雨が降ったお陰で空気がしんとしたように沈んでいて、秋とはいうものの連日にあったような夏の厳しさはやってこず、首筋に汗が張りつかない日でした。ちょうど細水の膜が肌を優しく包み込んでくれます。清いですね。だけどもこの後、少し汗が張りつくことになるのです。

 諦めて次に誰もいない道を歩いています。隣は林があって、もう少し歩くと小屋がぽつんと立っていて、何やら窓や表扉が開いたままで、もうずっと誰も使っていない様子です。あ、自販機がありました。自販機は砂を被っていて、近づいてよく見るとボタンは微かに光っていて、緑茶の所にムカデの死骸が模型のように重なっていました。うわっと思ったけれど、凄いです! どうやってムカデは自販機の中に潜入して、この様な模型みたいに張りついて死んでしまったのでしょうか。外から人間に拳で叩き潰されたのでしょうか。これだと緑茶が150円なのかムカデが150円なのか分かりません。ふふふ。面白いこともあるのですね。

 次、行ってみます……


 私は机の上にある書きかけの原稿を呆然と見つめてため息をついた。

 このままではダメだ。では何がダメなのか。それが全く分からないから、もう一度ため息をついて席を立った。

 気晴らしに散歩にでも出向こうとして、やっぱり面倒だと感じてまた座った。鉛筆を握り直してのらりくらりと思考を重ねるも、纏まりはしなかった。気づけばうたた寝を繰り返しはじめたので、寝ないように鼻の下に鉛筆を挟みだした。

 鉛筆が机に落ちる音でまた起きて、少しでも外の空気を身体に入れて目を覚まさなくてはと思い、外に出ることはせず、窓を下から持ち上げた。

「さむっ」

 冷たい風が肌に触れた。晴れた裏庭の田んぼで、一人の少女がクワを使って土を耕している。ふと手を休めて、窓から覗く私に向かって元気にクワを振り回して何かを言っていた。きっと早く手伝え、働けとかそんな感じのことを言っているのだと思う。

 私は諦めて、これも何かの取材だと思い外に出て行くことにした。

 田んぼにはまだ夜中に降った雪が微かに積もっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

斑雪の虚構 meimei @ayataka_sanpo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説