紳士服のコサカ
みつお真
第1話 紳士服のコサカ
私のスーツはオーダーメイド。
一式で20万円。
勿論税抜き価格だ。
銀座にある老舗の洋品店で、全てピン札の一万円札で支払った。
この戦闘服に袖を通すと、脳内からアドレナリンが大量に分泌されて自然と鼻息荒く仕事に向かえる様な気がする。
しがないサラリーマン。世間からはそう見えているだろうが、この戦闘服は20万円もするのだ。
いっその事、値札をぶら下げたままにしておこうか等と、くだらない冗談話を同期の遠藤くんに話してやろうか悩んでいる私は最高にイケテイル様な気がする。
時計の針はすでに朝の6時を指している。
私はハンガーに吊り下げたまんまのスーツを眺め、あれやこれやと想像しているうちにとうとう一睡も出来ないでいた。
嘘だろ、、、
しかし良いのだ。
今日は月曜日。
戦闘開始の合図は、けたたましく騒ぎ立てるカラスの鳴き声と朝日だ。もう戦いは始まっている。
私はスーツに手を伸ばして深呼吸をした。
できる男の身だしなみ。まずは形から入らねばならない様な気がする。だから高い買い物も躊躇なく出来たのだ。
怖がる必要などない。
この戦闘服に身を包んで、今日から新しいサラリーマンとして生きていけば良いではないか。
対前年比102%の売上高を目指して、純利益を120万にのし上げれば良いではないか。人件費も削って、無駄な労力を省いて、優秀な実績を積み上げて昇進すれば良いではないか。
このスーツに身を委ねさえすれば、きっとその尊い夢は叶う様な気がする。
私はゴクリと唾を飲み込んでうんと背伸びをし、もう一度深呼吸をした後で歯を磨き、両手を石鹸で綺麗に洗った後でスーツにとうとう手をかける前に再び深呼吸をした。
何を悩んでいるのだ。
私は戦うサラリーマン。
このスーツで超満員の山手線に乗れば良いではないか。
しかし。
やはり。
どうしても。
もったいない様な気がする。
会社に着く頃にはボロ雑巾みたいになってしまうのではないかと想像するだけで吐き気がする。ならば車はどうだろう。
いや、私は無免許だ。タクシーを使わなくては無理だ。途方もない出費を朝からする訳にはいかない。それに、20万もの大金を使ってしまった今月は、かなり質素に生きなければならないのだ。朝昼晩と握り飯と塩でやりくりする覚悟がなくてはこんな高い買い物は出来ないだろう。
時計の針はいつの間にか6時30分を指している。
考えている暇はない。
決断に迫られながら私は、ある事を思いついた。
その妙案を瞬時に思い付いた私は、部屋の中で爆笑してしまった。
勿論、ひとりで。
押入れから昔に買ったゼロハリバートンのシルバーのアタッシュケースを引っ張り出し、丁寧に梱包された段ボールを開けてクッションビニールを剥がし、初めて目にした説明書と保証書を机の引き出しに仕舞い込んでいる時に気が付いた。
保証期間がすでに5年も過ぎている事を。
しかし致し方ない。
使うのが勿体無くて、宝物のように保管していたのだから。
私にとってこのゼロハリバートンは、徳川埋蔵金にも匹敵する程の価値あるモノなのだ。
その宝がやっと活躍出来る時代が到来した。
そう。
今しかない。
この新調したてのスーツを運搬出来るのは、このゼロハリバートンしか考えられないのだ。
私の鼻息と心拍数は荒波の如く高まっていく。
カオスの世界に埋没するサラリーマン。
その数奇な運命を呪いつつも、私は何かに酔い痴れた。
それはとても心地良くもあり、愛おしくもある。
『待っていたまえ山手線!』
私はそう叫んでいた。
紳士服のコサカ みつお真 @ikuraikura
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