象徴としての語り(山脇文学とその時代)

 「山脇正太郎は象徴的な作家である」と言ったのは、私の曾祖母の友人の母であった。年代から察していただきたいが、彼女は字が読めなかった。「狐がついた」かと思われる勢いで、さらに続けてこういった。
 「山脇正太郎は、「ドーナツ」をもって、時代に残る作家になるであろう」と。

 私の手元に吉行淳之介全集がある。10巻だけ欠本であったのを、山脇氏に注文してもらったことを思い出す。吉行淳之介は私の好きな作家であるが、全集の表紙には吉行が好きであった、パウル・クレーの絵が描かれている。大胆な線と思いきった省略がクレーの特徴と言えるだろう。吉行の文学にも同じ傾向が見える。

昔から絵画は、文学者に愛好されていた。とりたてていうほどのことでもなさそうだが、吉行淳之介と山脇正太郎から美術を取り除いて論じるわけにはいかぬのである。

山脇氏はどうかというと、氏は「オカネ・クレー」とことあるごとに言っていて、このことからも彼の美術好きが垣間見えるのである。

吉行の家に訪問した小説家が、吉行の家に梶井基次郎の全集が置いてあったのをみて、やはりと思ったという。
「檸檬」で有名な梶井基次郎は散文作家というより詩人であった。詩人は事実を淡々と伝えるというよりも象徴で描く。そういえば吉行も詩人であった。

山脇氏においてもまた絵画が好きだという以上に、象徴的な作家である。
かくいう私も山脇氏の家を訪れたとき、ビールジョッキが置いてあって、やはりと思ったのである。

さて、象徴とは何かということを説明せねばなるまい。
象徴とは形や語感など何か関連があるものをいう。たとえば、トナカイとクリスマスは互いに連想できる関係にある。つまり、象徴的な関係にあるが、「〒」のような記号と郵便は象徴的な関係にない。
恣意的なつながりしかないからだ。

だから、文章をそのまま読むのではなく、象徴として読む。一見、ドーナツの話をしているようだが、実はその底にもう一つストーリーが隠れているのだ。

このことを指摘したとき、フランスの侯爵である山脇氏は、ドンペリを片手にもち、葉巻をくゆらせながら、「なかなか優れた目をもっているようだね、ワトスン君」といって、微笑をたたえているのである。

ドーナツに込められた意味をみてみよう。

「ドーナツは丸いです/ドーナツには穴が開いています」

ドーナツは「どう?夏」の意味だ。つまり、「遊びにいかない?」ということだ。
「丸」は「九」に点が入るので「十」。「穴」はカタカナの「ウ」と「ハ」。
「開いています」とは、「パチンコ台のチューリップ」のことだ。
すなわち、解読するとこうなる。驚くなかれ、見事なカバーストーリーになっていることがわかるはずだ。

「遊びにいかないは十です。遊びにいかないにはウハがパチンコ台のチューリップ」
という意味になる。
今後、山脇正太郎は象徴詩人の名をほしいままにするだろう。

                       
文芸批評馬鹿 ビシバシ忍月

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