昔話
成海うろ
昔話
昔の話をしよう。まあ、昔と言ってもそんな大昔ではないのだが。
私は幼い頃、中国に住んでいた。小学校の半ばで日本に帰ったので、記憶は全くと言っていいくらい残っていないが、たったひとつ、鮮明に覚えている出来事がある。
*****
確か、小さいながら家出を敢行した時だった。理由は覚えていないし、どこへ歩いて行ったのかすら定かではないが。
歩いて、歩いて、しまいに自分がどこにいるのかも解らなくなって泣きながら歩いている私に声をかけたのは、ひとりの老婆だった。(両親は追いかけては来なかった。後から聞けば「まさかそんな遠くまで行くとは思っていなかった」らしい。)
彼女は小柄で、いっぷう変わった歩き方だった。腰を左右に揺らし、ひょっこりひょっこりと、子供の自分でも簡単に追い越せそうな速度で歩いている。
『どうかしたのかい?』
素直にうちがわからない、と涙混じりに言うと、老婆は困った顔をした。名前を聞かれ、これまた素直に答えるともっと困った顔をした。
『あれま、可哀想に。おばあちゃんも、お嬢ちゃんのおうちはわからないねえ……』
どこかで待っていたら、迎えに来てくれるかも知れない。そう言った彼女に従い、私はすぐ近くの広場の、入口近くのベンチに腰掛けて待っていた。
しばらくするとさすがに落ち着いて、私は辺りを見回す。が、やはり知らない所には違いない。漠然とした不安を抱えて視線を落とすと、隣に座った老婆の足が異様に小さい事に気付いた。
何も知らない私は好奇心にかられ、それを口に出した。すると老婆は軽く驚いた顔で、お嬢ちゃんのお祖母ちゃんはこんな足じゃないのと問うた。
私が首を横に振ると、老婆は軽く頷いて言った。昔の人はみんな、こんな足だったのだと。
『お嬢ちゃん、走るのは好きかい?』
私が頷くと、老婆はにっこり笑って同じ動作を返した。
『お婆ちゃんもそうだったよ。』
『今は違うの?』
『走れなくなっちまったのさ。これの……小脚のお陰でね。』
ほら、とひらひら揺らした足は、やっぱり小さい。自分の足と並べてもまだ小さい。固い蒼い靴に鎧われたそれは、当時の私より頭ひとつぶんも大きかった老婆にはあまりに不自然で、私はなんとなく恐怖を覚えた。
『お嬢ちゃんは好い時代に生まれた。おばあちゃんの小さい頃は、おばあちゃんやお嬢ちゃんの様に走るのが大好きでも、みんなこんな足にしなきゃならなかったからね。自分の足を大切にね。』
その時の老婆の微笑みは、嬉しそうで悲しそうだった。相反する感情が混ざりあったその顔を、私はよく覚えている。
そこで、老婆との記憶は終わっている。おそらく、両親が迎えに来たのだろう。
そこからしばらく経って、私は日本に帰国した。
そこからいろんな事があった。小学校の五年か六年で、まず私はその老婆が言っていた小脚とやらの正式名称を知る事になる。そこであの足のおぞましさを知り、ついでの様に中国史の漫画を読み漁る事になった。
中高では陸上部に所属、その傍らで図書室に足繁く通い、その足や中国文化の本を読み尽くした。
その足は、革命によりすっかり廃れてしまったと言う。あの老婆が働き盛りだった頃はさぞかし大変だったのだろう。そうぼんやりと思いはしたが、それよりももっと鮮烈に、生々しく浮かび上がるのはあの奇妙な笑顔と異様に小さな足、付随した恐怖であった。
本を読んでいる時も、スターティング・ブロックを蹴る時も、遅刻しそうで走っている時でさえも。
あの足は、歩くのでさえあんな風に身体を揺らさなければ歩けない。走ろうとしようものならば、どうなるのだろう? 足に凄まじい激痛が走るのか、痛みの前にバランスが取れなくなって転ぶのか。そんな疑問が頭をぐるぐる回る。
大学でもやはりそれは変わらず、私は東洋史を専攻する事になる。そしてまさに今、あの足をテーマに卒論を書こうとしている。
幼い頃の衝撃とは恐ろしいものだ。そう感じながら、私は図書館に足を踏み入れる。
その足はごく普通の大きさで、ごく普通の柔らかいスニーカーに覆われていた。
おしまい。
※小脚(シャオジャオ)
正式名称は纏足。女児の足の親指以外の指を脱臼させ、布できつく巻いて足の成長を止める漢民族の風習。
昔話 成海うろ @Narumi_uro
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