愛と呼べない夜を越えたい

いいの すけこ

夜の海で

「ねえ、お兄さん……おじさま?あなたは一体どういう人なの」

 少女はこちらが質問するよりも先に、俺に尋ねる。

「警察の人?病院の人?どこかの学校の先生。それとも、ただのお節介焼きのおじさまかしら」

 動物のような目でこちらを見つめてくる。黒目が強く主張するその目は、可愛らしさよりも得体の知れなさの方が勝った。

 年端も行かない少女の考えることなど、『おじさま』にはわかりようもないだろう。

「誰だったら話しやすい?」

「別に誰が相手でも。そちらが理解できるかはわからないし、分かってもらう努力をするつもりもないけれど」

 私は勝手に喋るだけ、と少女は言った。

「私は好きなことを好きなように喋り倒す癖があるみたい。みんなそのうちついてきてくれなくなるわ。私のお喋りを楽しいって言って、ずうっと聞いていてくれるのは、あの子だけだもの」

 あの子。

 脳裏にひらめく、別室で眠っていた青い顔。

「まあ、いくら話してもいいよ。俺も質問するかもしれないけど」

「どうぞ」

 少女の許可を得て早速、俺は切り込んだ。

「なんだって、こんな遅い時間に海岸なんかにいたんだ?」

 俺が問うと、少女は黒目がちな目を細めた。

「いきなり質問するのね」

「していいって言っただろ」

「言ったけど」

 俺は壁の時計を見た。時刻は二十三時近かった。こどもが出歩いていい時間ではない。ましてや少女たちを見つけたあたりは、ろくな明かりも人通りもない海岸だった。

 季節は晩秋、観光地化に失敗して寂れていく一方の土地でのこと。

 煙草の買い置きを切らしてしまって、海岸通り沿いに一軒だけある酒屋の前の自販機を目指して俺が歩いていたのが、奇跡みたいな偶然だった。


「遠くに来たかったの」

 少女は窓辺へ視線を向けた。と言っても、黄色とも白ともつかないぼんやりした色のカーテンが引いてあって外は見えない。ベッドの寝具は清潔な白だというのに、カーテンは日に焼けてしまったのか、それとも元から微妙な色合いなのだろうか。

「あの子の家はぐちゃぐちゃでね。お部屋の中も、荷物なのかごみなのかわからないものでぐちゃぐちゃ。ご両親の仲もなんだかぐっちゃぐちゃみたい。だからあの子は、放課後になるといっつも泣くのよ。うちに帰りたくないって」

 そういう少女の横顔はまだ幼かった。

 家庭と、学校と、地域と。少女たちの世界は、あまりにも狭い。

「泣くだけ泣いて、いつもやっとの思いで家に帰っていくの。だけどそうやって何とか気持ちをとりなおして帰っても、やっぱり家はぐちゃぐちゃなの。それで、今日は本当に、本当に帰りたくないって言ってきかないから」

「それでこんなところまで?」

「そういうこと」

 彼女たちが着ていた制服――今は着替えているけれど――は、この辺りでは全く見かけない制服だった。上着もジャンパースカートも黒一色で、よくもまあ夜の海岸であれを着た人間を見つけられたものだ。

「夜の海を見に行きましょうって、私が誘ったの。夜の海って、だあれもいなくて、波の音だけが響いて、とっても素敵よって。私、夜の海なんて来たことなかったけど、想像できるでしょう。あの子は『素敵ね』って言って、ぜひ一緒に行きましょうって」

「なんでここの海岸にしたの?」

「どこでもよかったんだけど、闇雲すぎても失敗しちゃうでしょ。だから前に学校の校外学習で行ったところの、延長線上にあるところにしたの。校外学習は、私たち学生が自力で交通機関を使って見学地を回らなきゃいけなかったから、電車もバスも路線図を必死になって調べたのよ。だから校外学習の時よりもうちょっと足を延ばして、この海まで」

 ここまでをほぼ一息で喋って、少女は息を吐いた。

「あの子、遠足みたいねって楽しそうにしてたわ。日が暮れてきて、海岸行きのバスに乗り換える頃は少しだけ悲しそうにしてたけど、『帰る?』って聞いたら、それには首を振って『帰らない』って」

「君は帰る気があったの?」

「どうかしら。私は別に学校も家も嫌ではないわ。ただ、あの子が『月子と一緒なら知らない場所でも平気』っていうから、じゃあ一緒にいてあげたいなって、思っただけ」

 少女は淡く微笑んだ。

「だって、私あの子が好きだもの。あの子も私を好きだと言ってくれたわ。おじさまは、女の子同士でおままごとしてるみたいだとでも思うでしょう。それでも結構よ。ただ私は、あの子のために何かしてあげたかっただけ」


「それで、二人で一緒に海に飛び込もうって思ったってわけか」

 我知らず低くなった声。少女は顔色一つ変えなかった。

「飛び込んでないわ。浜辺からざぶざぶ入っていったのよ」

「結果は一緒だ」

 あの時俺が二人を見つけていなかったら。

「日が暮れた海岸に着いて、それから二人でずーっと海を眺めていたの。ずーっとずーっとそうしててね、これからどうしようかって、なって。私、ここまであの子を連れてきたけど。何のあても、お金も、全然、何にもないのよって言ったの。そうしたらあの子、びっくりしてたけど『そうだよね』って」

 この辺りは確かに何もない。泊まる場所、食べる場所。バスが終われば動くことすらままならない。

「もう今晩は帰りようもないし。食べる物も寝る場所もないし。多分、本気でどうにかしようとすれば、きっとお巡りさんとか、優しい人とか場所とか、保護してくれるとは思うよとは言ったけど。でもあの子は『もういいかな』って言って」

 少女は童話でも語って聞かせるように続ける。

「二人で海の生き物になりましょうよって。魚とか、イルカとか。人魚も素敵ねって。最後は泡になってしまうかもしれないけれど、それもきっと綺麗よねって」

 綺麗であってたまるかと、心の中で毒づく。

「そう、あの子が言うから。あの子が『月子と一緒なら平気』って――」

「それが本当に、あの子のためになるとでも思ったか」

 少女の言葉を遮って、思わず言った。

「あの子の事を思うなら、君はこんなところに連れてくるべきじゃなかった。一緒に家に帰るべきだった。大人も子どもも、女も男も関係ない。君のしたことは、あの子への愛情なんて呼べるもんじゃない」

 この少女たちの、何を知るわけでもないけれど。

 人として、間違っていることは正さなければいけないと思った。

「正論をどうもありがとう、おじさま」

 少女は首を傾けた。頭を下げる代わりのような仕草だったが、謝意を感じることもなければ、かといって、大人を侮ってる風にも見えなかった。

「そんなことはわかっているわ。だけどね、おじさま。あの子はもう何度も何度も、苦しくてつらい真っ暗な夜を越えてきたの。越えて、越えようとして、越え続けて。今夜もね、夜を越えようとしただけなのよ、きっと」

 窓やカーテンで遮ったって、部屋を灯りで満たしたって。

「その結果、明日の朝を迎えられるか、また次の日の夜がやってくるか。そんなことは、きっと考えていなかったと思うわ」

 誰かが傍にいたって、夜は訪れる。

 それを越えることに疲れた時。

 ああ確かに、正論など届かずに、夜の海に呼ばれてしまう恐ろしい一瞬があるのだろう。

「腿まで海水に浸かって、スカートが重くなって。その時、おじさまの大きな声が聞こえたの」

「あの子は振り返った」

 俺の言葉に、少女は頷いた。

 俺の呼びかけに我に返ったらしいあの子は、振り返って、浜に戻ろうとして、波に足をさらわれた。そのまま転んだあの子を、共に海に入った片割れは助け起こそうとしたのか、しなかったのか。俺も動転していたからよく覚えてはいない。

「振り返ってくれて良かったよ」

 全身ずぶ濡れになった少女は、病院に搬送される頃にはすっかり体の熱を失っていた。けれど大事に至るようなことはなく、今は別室で眠っているのだった。

 本当に良かったと、俺は心の底から思う。

 少女たちが本音でどう思っていようと、どんな毎日を生きていようと。

 

「あの子はまた一つ、夜を乗り越えたのね」

 まだまだ、ずうっと暗い夜は続くのにね。

 そう言って、少女は夜の海のように真っ黒な瞳を静かに伏せた。

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