第1章 第1話
今から9年前の春、私は慣れない制服のブレザーに腕を通し、父母に連れられて電車に乗り込んだ。
今日は中学校の入学式だ。
ずっと憧れだった私立の中高一貫校。
手が届かなかったはずの第1志望校。
小学校のブラスバンドクラブでトランペットを吹くようになってからずっと入りたかった、オーケストラ部がある学校。
しかし天気はあいにく雨模様。
空気はひんやりしていてまるで冬が戻って来たみたいだ。
冷たい雨粒は今にもみぞれに変わりそうだった。
「しかし、ほんとに頑張ったわねえ。」
電車の座席に腰掛けて、母は嬉しそうに私のほうを見て語りだした。
「何が?…って受験に決まってるじゃない。1年間で20も偏差値を伸ばして受かったんだもの。約束通り、音楽教室でトランペットを習わせてあげるから。」
雨でどんよりしていた私の心がパッと明るくなった。
そうだった。今日は入学式のあと、音大付属の中高生向けの音楽教室で体験レッスンとソルフェージュ(読譜力や音感、音楽への知識を深める勉強)の体験授業を受けさせてもらえるのだ。
その音大は私がこれから6年間通うことになる学校のそばにあり、放課後に通えそうだ。
新入生たちは学校に着くとまず教室に集められ、その後暫くしてまるで音楽ホールのように広い講堂へと連れて行かれた。
在校生が演奏するオーケストラが祝福の演奏をし、その後私達1人1人の名前が呼ばれ、そして長くて極めて退屈な「校長先生のお話」が始まった。
勿論内容なんて殆ど覚えていない。
ただ、1つだけ頭の中に引っかかる言葉があった。
「人生は片道切符の列車の旅のようなものだ。」
__本当にそうだろうか…?
__1度過ぎてしまった過去は本当にもう二度と戻ってこないのだろうか…?
__もしかして…本当にもしかしてだけど…心の奥底から願えば、人は何度でも過去へ行くことができる気がする………「記憶」という極めてあやふやで、自分自身の手で都合良く勝手に解釈された過去の世界の中に………
入学式が終わり、私と両親は校門を出た、そして今度はそのまま音大付属の音楽教室の体験レッスンと授業へ向かった。
まずは約1時間のトランペットのレッスンを受け、基礎的な奏法を丁寧に教わった。
これから私の師匠になる吉田先生は、大体父と同年代のくらいの男性だったが、全体的に品があり「紳士」という印象だ。
レッスンを受けた後はソルフェージュの授業だが、その前に30分ほど時間に余裕があった。
いつの間にか雨はやんでいて、だいたい色の柔らかな西日が差し込んでいる。
私は、レッスンで教わったことをメモすると大学の敷地内を散策することにした。
私は、普段の生活とは違う「非日常」が大好きだ。
そんな私にとって、初めて訪れる音楽大学の迷路のような広い敷地を散策するのは至福のひとときだった。
先程レッスンを受けてきた4号館を出ると、目の前に中庭がある。
音楽ホールと1号館と4号館に囲まれた四角い広場のような空間に満開の桜の木が所々植えられていて、中央の池の中では色鮮やかな鯉が悠々と泳いでいる。
真新しい煉瓦造りの4号館と音楽ホールに比べて、4号館の出入り口から向って右側にある1号館は薄汚れた白いコンクリート造りの古臭い建物だった。
あと数年後には解体されて建て直されるらしい。
ふと、見上げると1号館の屋上に誰かいる。
オレンジ色に染まってゆく大空を背景に、誰かの黒いシルエットが遠くにぼんやりと浮かび上がる。
体格的に大学生ではないだろう。
だとしたら、音楽教室の生徒だろう。
少年だろうか…少女だろうか…この距離でははっきりとは分からない。
だが、なんとなく華奢で儚げな印象である。
__そうだ、私も屋上に行ってみよう……!
私は、1号館の入り口へ飛び込むと屋上へ続く階段をイッキに駆け上がった。
しかし、あと1階分上がれば屋上に着く……ちょうどその時だった。
私は踊り場で知らない女の子とぶつかって尻もちをついた。
私も相手も全速力で走っていたのでお互いすぐに止まれなかったのだ。
「ごめんね!!怪我はない??」
女の子は即座に立ち上がると、立ち上がろうとする私を心配そうに除き込み、手を差し伸べた。
背丈も年齢も私と同年代だが、全体的にがっしりしていて筋肉質である。
くりくりして無邪気な大きな瞳がチャーミングだ。
__彼女は残念ながら、屋上の"誰か"ではないな……。
直感的に私はそう思った。
彼女の名前は藤田麻衣。
私と同じ中学1年生だそうだ。
幼稚園の頃からこの音楽教室でヴァイオリンを習っているが、ソルフェージュの授業を受けるのは今日が初めてらしい。
麻衣にとってこの大学はいわゆる「庭」みたいなもので、幼い頃から音楽教室の友達と鬼ごっこや隠れんぼをしてはしゃぎまわっていたそうだ。
今日も麻衣は鬼ごっこをしていて、逃げている最中に私とぶつかったのだという。
「紗月ちゃんは、新しくここに入ってきたんだね。もうすぐ彩花ちゃんと真理ちゃんが来るから一緒に行こうよ。」
麻衣は私の腕を引っ張ると、今までやっとの思いで駆け上がってきた階段を下り始めた。
こうして、私の「屋上へ行く」という望みは絶たれてしまった。
せっかく4階まで上がった階段を2階まで下って廊下に出ると別の女の子が2人待っていた。
「もうっ、麻衣ちゃん逃げ足が早いんだもんっ。」
2人は口々にそう言いながら私達に近づいてきた。
彩花ちゃんと真理ちゃんだ。
私達は初日早々仲良くなり、ソルフェージュの授業が始まるまで4人でそれぞれの小学校時代を語り合った。
いつの間にか、さっきまで晴れていた空は再び雨模様に戻っていた。
こうして、私の遠い記憶の彼方の中学校生活が幕を開けたのだった。
(第1章 第2話に続く)
蜃気楼 月の夜明け @Moondawn
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。蜃気楼の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます