飛んで火にいる

草森ゆき

しゃべる虫

 珍しく俺の住居に藤宮がやってきた。アパートなので、と言いながら手を差し出してくる。芋虫が乗っていた。もぞもぞ動いている。しかしアパートなので、の意味がわからない。

「訂正します。部屋が狭くて置けないんです」

 理解したので受け取った。芋虫はよろしく、と言った。

 ……あ?

 いやこいつなんで話すんだよ、虫なのに。俺の訴えを無視して彼女は芋虫を指先で撫でる。いいこにして待っててね。そんな大学の後輩やら家族やらに話すような優しい声を出す。

 いやこの芋虫あんたの後輩とか友人とか家族とか恋人とか、そういう虫なのか?そんな虫をよりによって俺に預けるのか?あんた大丈夫か?

 藤宮はよろしくお願いしますと言い残して立ち去った。芋虫は俺の掌の上で転がっている。柔らかそうなボディだった。強く摘んだら汁らしきものが溢れて来てすぐ死にそうに見える。自慢ではないが俺はずいぶん生活が雑だ、うまく預かれる自信はなかった。もう受け取ってしまったが。

 数分見つめて過ごした。そのうちに腕を登り始めたのでカーテンに引っ付け腕組みしつつまた眺めた。インテリアとしては嫌いじゃなかった。

 おなかがすいたらよびます。芋虫は虫にしては明瞭に話してカーテンをよじよじと登り始めた。薄い生地のカーテンは、芋虫がすすむたび不安定に揺れた。



 藤宮という女はいつだったか居酒屋のカウンターで隣り合った。はじめは特に話もしなかったが、俺がオクラ納豆を注文したときに、私もそれを、と横からすばやく言った。それで店主は知り合いだったと勘違いをしたらしく、ひとつぶんの皿にふたりぶんのオクラ納豆を入れて寄越してきた。

 躊躇した俺に構わず藤宮は新しい割り箸をぱきりと割って、混ぜてもいいですか? と透いた声で話しかけてきた。俺は了承し、オクラと納豆は十全に混ざり、藤宮は藤宮透子ですと名乗りながら俺のグラスにビールを注いだ。

 不思議と嫌な距離のつめられ方ではなく、それは藤宮がキリンかアサヒかでエビスを選び、唐揚げかフライドポテトかでオクラ納豆を選び、猫か犬かで芋虫を選ぶような女だったからだと思われた。

 犬とか猫とかは嫌いじゃないがけっこううるさい。人類の中にはわがままほうだいよく喋る犬や猫やハムスターの方が意思疎通ができてかわいいとする風潮もある。この居酒屋に入る手前も夜だというのに飼い犬に引き摺られ散歩をする飼い主をみた。うっすらとした夜の中、犬は飼い主に向かってさいきん近所に越してきた雌犬が好きなんだ、とあんがい低い声で相談をしていた。飼い主はぐるぐる唸って、でもそれは双方同意がないとね、とアドバイスをし、お伺いを立ててみるから待ってて、となだめながら路地の向かう側に消えていった。

 虫はしずかなので。エビスを傾けて藤宮は呟いた。琥珀色の液体が細い喉をゆるゆる通り、俺はそのさまを横目で見ながら昔蝶々を飼ってたよ、と言葉を返した。

「蝶々」

「そう。子供時代だよ、縁側の窓を開きっぱなしにしてうたた寝をしてたんだ。そうしたらいつのまにか入ってきてた。なぜだか出て行かなくって、俺はそいつのために毎日花を摘んで帰ったよ。綺麗な蝶々だった、しずかにひらひら居間を飛んでさ、俺のまわりをぐるぐるしてから肩に止まるんだ。かわいかったな、なんて名前の蝶々だったかはもうわからないんだが」

 暮野さん、と藤宮が俺を呼ぶ。

「なんの花を摘んで帰ったんですか?」

 そう問い掛けながら粘つくオクラをすくいあげ、カウンターに頬杖をついてぽたぽたと糸を引く姿を見つめていた。横顔がいちばん綺麗な女だなと思ったときにはもう惚れていたんだが、藤宮はたぶん俺に、というか人間って種類の生き物に、あんまり興味がないようだった。

 それでも連絡先は交換できて、俺と藤宮はおもに居酒屋において良好な関係を築き続けていたのだ。しゃべる芋虫を渡されるまでは。



 芋虫は全然成長しない。藤宮はちょくちょく俺の部屋に来て、カーテンを自分の領地にした芋虫を眺めている。あなたのところに置いて正解でした。独り言みたいに話し掛けてきて、芋虫も同意のように頷く。正確には頷いたのかどうか定かではないが首らしいところが上下する。人差し指の第一関節だけをちょいちょいと動かすような素振りで。

 寝ていると髪に登ってくる。潰れても知らないよ。俺の抗議に芋虫は笑う。

「笑えるのか、小説とかも読める?」

「文字、読めます」

「そりゃいい、本を勝手に読んでもいいよ。その辺の本棚に適当に差してある」

「わかりました暮野さん、ありがとう」

 なんだか芋虫に話しているのかあいつに話しているのかわからない。というかいつまで預かればいいのかもわからない。藤宮透子本人に聞いてみるとそのうち引き取りますと来る。もうどうにでもしろとやけっぱちになり、芋虫を同居人認定する。

 芋虫はよじよじと本棚を登っていた。お目が高いので俺がいちばん気に入っている詩集の背表紙に頬擦りをしていた。引き出して開いてやり、ページは自分でめくると言ったのでそのまま机に置いて、仕事に出かけた。

 帰ってきてもまだ読んでいた。というか後ろの方のページにある、俺が好きでマーカーを引いていた一節の上に体を横たえ寝息を立てていた。

 


 動物園はほとんどカウンセリングルームだ。

 藤宮が行きたいんですと言い出して、俺はちょっとかなり億劫だったが藤宮を連れて動物園にやってきた。あちこちでざわめいている。親子連れがキリンの檻へと走っていき、キリンはいらっしゃいおちびちゃんと接客スキルの高い朗らかな声で迎え入れていた。

 この動物園で話がうまいのはリスとライオンだと噂に聞いた。しずかに話を聞いてくれるのはアフリカゾウで、ゾウ自体そもそも物静かな種族なので檻を囲む人間たちの泣き言を黙って聞いてやってから聖母のように慈しんでくれる、と本で読んだ。ライオンはけっこう諭してくれて、リスは友達のように気さくらしい。

 俺の説明を藤宮は聞いてはいたが興味がなかったようで、凛とした横顔のまま虫のコーナーに行きますと言った。

 それで俺たちは閑古鳥の鳴いている、ぴんと張り詰めたような静寂の昆虫類コーナーへと向かった。

 深緑色のライトが落とされた、どこかひんやりとする一角だった。屋内であるため外の喧騒からも切り離され、窓や扉越しに雑音以下のざわめきだけは注力すれば聞き取れた。藤宮は微笑んでいた。いちばん端の蜘蛛コーナーに駆け寄って、暮野さんありがとうございますと言いながら、透明のガラス越しに無言のキングバブーンと見つめ合っていた。その横顔はやはり綺麗で、俺は隣に並んでキングバブーンを視界におさめつつ神経は指先へと集中させて、藤宮俺は、と言いかけて飲み込んで指先ひとつ触れないまま蜘蛛が持つ目の数をかぞえながら二人と無数の虫たちがいる空間の中息を殺し部屋で待っているしゃべる芋虫のことを考えた。



 明くる日芋虫は左側のカーテンの中腹で固まっていた。死んだわけではない。蛹だ。細い糸で不安定にぶらさがるもんだからカーテンを開けられなくなった。

「なあ、羽化したらやっぱり蝶なのかこいつは」

 部屋に来ていた藤宮は、きょとんとしてから首を傾げる。

「何がですか?」

「いやあの芋虫氏だよ、蛹になってあそこにぶらさがってる」

 カーテンの方向を指差すと、怪訝そうな顔を向けられた。

「何の話ですか……?」

「……あ?」

 数分見つめあい、蛹が張り付いている箇所をもう一度指し示すが、なにもないと返される。

「……いやじゃあ俺はこれをどうすればいいんだ」

「蝶々にすればいいんじゃないですか?」

 無責任に言ってから、藤宮はバイトがあると立ち上がった。

「また来ます、暮野さん。今度は水族館に行きたいです、じっとしている貝をいっしょに見ましょうね」

 藤宮はそっと微笑んでから帰宅した。俺は数分呆気にとられ固まっていた。その間に思い出していたのは、俺が飼っていた蝶々の姿だった。

 あの蝶々はいつに間にか消えており、親に聞いてもそんなものは知らないと突っぱねられた。話をしないペットなんて飼っても仕方がないでしょうと母親は言い、俺は俺の周りをひらひら自由に飛んでいた蝶々が恋しくってしばらくの間喪失感を味わった。

 あの蝶々はなんだったのだろうか。藤宮が持ってきた芋虫ははじめからちゃんとした芋虫だったのだろうか。どうして成長しなかったのに急に蛹になったのだろうか。なにもわからない。なにもわからないし藤宮は、芋虫と俺になにかを期待しているのだろうか。


 ぶらぶらしている蛹に近付いた。

 おまえの飼い主なにかんがえてるんだ、なあ、さっさと蝶々になって自由にどこへでもいきなよ。俺の言葉に蛹は微笑む、微笑んだような気配が伝わる。

 あなたのまわりを飛びたいです。

 藤宮みたいな口調で返されて、俺はじわじわ途方に暮れる。

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