文化祭の終わり

田島絵里子

文化祭の終わり


ジェミーは困惑した。ジェミーは演劇など知らない。お遊戯の時間は寝ていたから、幼稚園の頃なんて覚えていない。

 ゴールドマン学園100周年。文化祭で、ミュージカルを演じることになったのだ。

 コーラス部顧問のオスカー・ライヘンバッハが歌を作り、演劇の演出をする。ストーリーは美人の主役を慕うあまり、野獣が自分の森に連れて行ってしまうというものだ。美女が野獣の心を解きほぐし、もとの村に戻してもらう。その様子を、妖精たちが歌いながら応援する。


 ジェミーの役は、妖精その3であった。生徒会長の自分が主役でないのは不満だったが、チビで剽軽な顔をしているジェミーの外見では、役がつくだけでも儲けものなのだった。

 音楽室でシナリオが、配られた。練習が始まった。ジェミーは困惑した。

人を魅了する演技なんてできっこない。自分に演技力があるとは思えない。だけどオスカーの目は輝いてる。ジェミーはライヘンバッハが好きだった。だから、ためらう気持ちを抑えていた。


 ライヘンバッハが脚本を渡す妖精その1役の親友キャラハンは、その2役を演じる先輩のサンドラの隣で、担当する歌のチェックに忙しそうだ。どちらも性格は善良で誠実。信じられる友と先輩がいる。自分もこの二人に相応しい人になりたい。そうなれば、きっとライヘンバッハ先生の目にとまるだろう。

 音とりがはじまった。アルトはジェミーの担当だ。ピアノを習っているのがこういうときに役に立つ。内心誇らしく思いながら、鍵盤をたたいたが、実を言うとピアノはきらいだった。鍵盤を見るとゲンナリする。何度練習しても上達しない腕前に、塾の先生もあきれ果てた。


 ――ジェミーさんには、もっと努力して欲しいですね。

 塾の先生は、叱りつけた。まったく上達の気配が見られません。

 上達するのだろうか? 基礎なんて単調だし時間のムダだ。単調な曲を練習したってちゃんとした曲が演奏できるわけがない。ジェミーはクラシックに関心がなかったから、モーツアルトの練習曲も一度として楽しいとは思えなかった。むしろ、単調な音符の並びに、もともと少ししかない忍耐も切れ果てるというものだった。


 しかし、ライヘンバッハのためだ。彼が頼むなら、あの練習曲を、一万回奏でたって構わない。

試みにピアノを叩いていると、音楽室の扉が開いて、ひとりの人が現れた。長い髪に、きれいなワンピースを着た女性で、細い指をしている。

「今日から、このアニーが音とりをする」


 出迎えたライヘンバッハ先生は、彼女を招きながら言った。ジェミーは眉を寄せた。何ものなんだろう? 新任の先生だろうか。

 アニーと呼ばれた女性は、ピアノの前に座るなり、さらりとリストの『ラ・カンパネラ』を弾いて見せた。ジェミーは歯がみした。ライヘンバッハ先生が、感心したようにアニーを見ている。負けたくない。

 ソプラノの音とりがはじまる前に、ジェミーは先生に申し出た。


「別室にある小さなピアノで、アルトの音とりをしたいんです」

 ライヘンバッハは、意外そうな顔になったが、許可した。ジェミーは別室でアルトの音をとったが、もちろんそれだけでは終らない。演劇に伴奏をつけようと試みた。

 たんたんたーん。

 ピアノの音は、練習曲のように単調だった。


 アルトの部員たちは、「なにやってるのよ! ちゃんと音をとってよ!」と文句を言ったが、ジェミーは無視した。この演奏が上手くいけば、ライヘンバッハは振り向いてくれるんだ。あの暖かな笑顔を向けてくれるんだ。

「じゃあ、練習をはじめるから、こっちへ」

 ライヘンバッハが呼んできた。


 演出は大事だ。練習でもきみは振り向くんじゃないぞ、と先生は命じたので、ジェミーはそれをそのまま受け止めた。ライヘンバッハ先生の言うとおりにしていれば、きっとわたしを認めてくれるんだ。ピアノは上手じゃなかったけれど、演技は上手だと思ってもらえる。


  ライヘンバッハは、優しい笑みを浮かべていた。ジェミーのへたな演技やピアノの音とりも、面白がって許しているように見えた。わたしは、好かれている。わたしは、好かれている。アニーがなによ。彼女はただの、ピアノの先生じゃないの。

 本番が始まる直前、ライヘンバッハは、生徒たちを集めて言った。


「この舞台は、映像部が記念にビデオ撮影してくれる。がんばれよ」

 こうして舞台がはじまった。主役のリサは野獣にさらわれる。そして野獣の心を解きほぐそうとする。いよいよ妖精の出番だ。ジェミーは心臓が喉から飛び出しそうになっている。観客の目が彼女に注視した。ジェミーは声を放とうとした。だが、息が乱れ、唇が、かわいて熱い。


 ジェミーの頭がクラクラした。息があがって苦しかった。落ち着け、と思えば思うほど、めまいがしてならなかった。目がかすんできた。ジェミーは自分が練習不足であることを痛感した。演技がはじまると同時に、自分に注視する人々の顔がまともに見られないことに気づいた。ジェミーの視界は、伸びたり縮んだりするように思われた。

「山の彼方から煙がぽるぽると……」


 音程がはずれた。ジェミーは泣きそうになりながら役目を終えた。主役は村に戻り、舞台は跳ねた。

 数日後の音楽室。みなでビデオを見た。ジェミーのトチリもバッチリ映っている。ところがどうだろう。その背後で、妖精その1が、妖精その2といっしょに彼女を指さして嗤っているではないか。いかにもジェミーのしくじりが、可笑しくてならないという態度だ。


 まさか、あのふたりはそんな性格だったろうか。ジェミーはふたりを振り向いた。いや、いまの二人は、どことなく態度がぎこちない。キャラハンは、バツが悪そうだし、先輩のサンドラは顔を伏せている。

 このとき、初めてジェミーは、ライヘンバッハがどんな演出をしたのか、ハッキリと悟った。



 ジェミーはコーラス部をやめた。ピアノの先生は、ライヘンバッハと結婚した。ビデオは今も、学園の音楽室のどこかに保存されている。

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文化祭の終わり 田島絵里子 @hatoule

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