リンドウ色の夜明け

リンドウ色の夜明け


 さざ波の音が近い。運転席のドアを閉め、大きく伸びをしながら潮の薫りを胸いっぱいに吸い込む。一瞬だけ閉じ開いた視界の隅、遠くに灯る民家の明かりを見た。

 午後十一時。僕は一人でこの岬へやって来た。

 夕食と風呂を済ませてから、ふと思い立ち、車を走らせること二十五分。夜間は人や車の動きが極端に少ない田舎道。夏の夜は生き物の動きが活発だ。道中、路上へ飛び出して来るノラネコやキツネなどの夜行性動物を危うく轢きかけながらも、幸い大事は起こさなかった。


 海を一望できる岬はこの街で人気の観光スポットで、天気のいい昼間や夕方には観光客で賑わう。けれど、今は人の気配がない。遅い時刻だから当然だろう。

 付近に大きな灯台がある他は街灯も見当たらず、星を眺めるには絶好の場所だ。


 駐車場、公衆トイレを通り過ぎ、岬の突端にある展望台へ歩みを進める。石畳の上を歩きながら見上げた夜空は、うっすらと雲がかっていた。


 暗闇の中、ぼんやりと視認できる大きないかりのモニュメントを横目に歩き、行き止まりの柵の前でやっと立ち止まる。涼しい夜風が頬を撫ぜた。この街で塩気を含んだにおいを嗅ぐ度、僕はいつも青魚を連想した。


 柵の上に両腕をのせ、ひんやりとした肌触りを楽しむ。

 海を見るのは久し振りだ。いや、こんなに真っ黒な海面を見たのは初めてかもしれない。真昼に、真っ青な海を訪れたのは確か――。


 脳裏に浮かんだ情景。あまりにも綺麗で、思い出すと、胸が苦しくなるほど幸せな。


 危なかった。まだ塞がりきっていない傷口に触れ、知らぬ間にこじ開けてしまうところだった。

 つらい記憶を呼び起こして現実を嘆くために来たのではない。ただドライブがてら星を眺めようとしただけなのだ。天体観測に向いているところは……と考えて、真っ先にここが思い浮かんだのだから仕方がない。


 ため息は、ザアザアと打ち寄せる波音に呆気なくかき消された。


 「……そこに誰かいる?」


 呼びかけられた。


 女性の声だ。あまりにも急に聞こえたものだから、僕は両肩を跳ね上げて縮こまった。


 どうやら僕の他にも岬に佇む人がいたらしい。暗いから他人の存在にはまったく気がつかなかった。左右を見回してみると、僕からほんの数メートル離れた位置、緩やかにカーブした柵に寄り添うようにして立つ誰かの影を見つけた。


 「あ、はい。いますけど……」


 僕は小柄な人影に向かって答えた。上ずった声の調子がおかしかったのか、くすくす笑う声が微かに聞こえる。

 何か会話をした方がいいのだろうか。それとも今まで通り黙っているべきなのか。


 「真っ暗だから、自分の他には誰もいないと思ってた。でも、見えてないだけだったみたい」


 迷っていたところへ、相手の方から話しかけてきてくれた。女性の声には違いないけれど、落ち着いていてどこか深みのある声音だ。海と風が奏でる音と一緒に心地よく僕の耳に届く。


 気恥ずかしさと驚き、そしてわずかな安心感をおぼえて僕も少し笑った。


 「この辺り、街灯もないから夜は本当に暗いですよね。こんなに近くにいる人の顔も見えないなんて」


 「それが却って役立つこともあるんでしょうけど。ほら、ここってカップルにはおすすめのデートスポットになってるでしょう。お昼に限らず、天気のいい夜にも来る二人連れは多いのよ。夜に街からわざわざ車で出て来るなんて、ちょっと物好きな気がするけれど」


 「……なら、僕たちだって相当な物好きですよ。だってこんな時間に、こんな寂しい場所へ一人で来てるんですから」


 「言えてる」


 暗闇の中で彼女が笑う。女性らしいなと、僕は微笑ましくなった。


 「ここへは車で来たんですか?」


 たずねてから、自分が乗って来た軽自動車以外、駐車場には車が一台もなかったと気がつく。案の定すぐ「歩いて来たの」という返答があった。


 「家、この近くだから。憂うつな気分になった時はよく来るの」


 じゃあ、今のあなたは気分が落ち込んでいるんですか。


 喉まで出かかった問いを飲み込む。深入りされたくない領域は、誰にでもあるはずだ。僕にだってある。育ててくれた親や仲のいい友人にさえ口を出して欲しくないこと、そして言いにくいことが。


 あるいは、赤の他人相手になら打ち明けられるのかもしれない。


 「あなたは車で来たわよね。さっきエンジン音がしたもの。街の方から来たの?」


 「ええ。三十分くらいかけて」


 「そんなに遠くから……。何か、つらいことでもあったの?」


 「いえ、僕はただ星を見に」


 苦笑しながら言いかける。口をつぐむと、寄せては返す波の音がより一層大きく聞こえた。今日の波風は穏やかだ。強風が吹く日が多いこの街にしては珍しく、静かな晩だった。


 返答をためらったのは、嘘になりそうだと思ったからだ。


 星を見に来たのは本当だけれど、彼女の言葉を否定するのは正しくない。


 「……いや。つらいことなら、確かにありました」


 相手から見えないにも関わらず、僕は大げさに二、三度うなずいてから訂正した。そこから先を話すかどうかは、反応を窺ってからにしようと再び口を閉じる。


 数秒後「そう」という短い相槌が打たれた。


 「どんなことがあったのか、聞いてもいい?」

 「…………」


 「私はね、恋人にフラれたの」


 ヒュッと、喉が鳴った。


 息を呑んだのは、彼女が吐露した理由が僕と同じものだったからだ。


 「失恋したのはこれが初めてじゃないんだけど、しんどくて。大好きな人から別れを切り出される瞬間って、直感的にああこの時が来たんだなって分かるの。分かるけど、受け入れられるかは別。なんとか受け入れた気になろうとしても、どうしてもだめになっちゃう時があって……。一人きりの部屋で座ってるとまだ涙が出てくるの。彼女と別れてからもう半年近く経つのに、時々ね」


 「……彼女?」


 聞き返した直後、深く後悔した。

 触れてはいけない箇所に、僕は爪を立ててしまった。軽くなのか、皮膚が裂けて血が滲むくらいなのか、それとももっと深々とか。度合いは分からなくとも、相手に何らかの衝撃を与えてしまった、という確信めいたものがあった。


 沈黙が苦しい。忌々しい耳鳴りのように波音をうるさく感じた。

 謝って、この場をやり過ごすべきだろうか。許してもらえたとして、その後、僕は一体どうすればいいのだろう。


 「……ええ、彼女よ」僕があの問いをする以前と変わらない調子で女性の声は答えた。


 「私ね、同性――女の子しか好きになれないの」


 見開いた両目に潮風が当たり、ひりひりと痛んだ。


 泣いてしまいそうだった。目の痛みのせいばかりではなく、心の奥にしまい込んでいた気持ちが揺らいだせいだ。哀しみと喜び、相反した二つが一遍に吹き出し、ぐちゃぐちゃに混ざりあった感情――名前の分からないそれが胸の中に溢れてくる。


 「そうなんだって自覚したのは、中学生になりたての頃。あれから十五年以上経つ今でも、難しいなって思う時はある。上手くいかない時の方が多いの。だから受け入れてもらえた時は嬉しくて仕方ない。……その代わり、終わっちゃう時は死ぬほど苦しいんだけど。今はこんなに苦しいのに、私はまた懲りずに恋をするのかぁって考えたら嫌になる。恋愛感情なんて、捨ててしまいたいくらいに」


 「分かります」


 話が途切れたと判断した僕は、間髪入れずに共感の言葉を口にしていた。


 潤んだ目で遠くを見た。灯台の灯りが僕たちの頭上高くをかすめ、真っ暗な地平線の彼方へ溶けていった。


 ああ。どんな場所にもいるものなのだ。


 同じような痛みを抱えている人は。


 「僕も、そうなので」


 「あなたも……?」


 「彼氏と別れたんです。四か月くらい前に」


 僕と、その恋人の場合も同じ。上手くいかないことだらけだった。

 人の目、というものはどんな場所にいても気になるもので、田舎ともなれば余計に慎重な行動を取らなければならない。噂話が伝播するスピードには目を瞠るものがある。この街へ越してきて、彼と出逢い、別れるまでおよそ一年という短い月日の中、何度「人の口に戸は立てられぬ」というが頭の中で渦を巻いたことか。


 「その人は学校の教師で、頭のいい人でした。僕より何倍も。彼とは飲み屋で知り合って、すぐに意気投合しました。好きになるまであっという間だったけど、なかなか話を切り出せずに友人のまま半年を過ごしました」


 「どの科目を担当している人だったの?」

 他愛なく、彼女がたずねてきた。誰かに失恋話なんてしたことはなかったせいで緊張していた僕は、その一言で肩の力を抜くことができた。「数学です」笑いながら答える。


 「男の人って、数学好きが多いイメージがあるわ。気のせいかしら。私は数字にはめっぽう弱いけど」

 「僕も。教科書を読んでるだけで苦々しい気持ちになったものです。……けど、彼と出逢ってからは少しだけ好きになれたんですよ、数学」


 方程式すらまともに解くことのできない僕を、彼は馬鹿にすることもなく受け入れてくれた。同性しか好きになれないことを話した時も、驚きすらしたけど彼は真剣な顔で聞いてくれた。好意を伝えた時にさえ真面目な態度を崩さなかった。

 寛容な人だったのだ。本来は女性とつき合うはずの彼が男である僕からの告白を受け入れてくれて、半年間も恋人として接してくれたなんて、今考えたら夢のような話だ。


 「……どうして別れてしまったのか、聞いてもいい?」


 ためらいがちな声がする。


 一際、強い海風が涼しげな音を耳に残して通り過ぎていった。


 「見られたんです。僕と一緒にいるところを、彼の同僚に」


 職場で悪い噂が囁かれるようになるまで、そう長くはかからなかった。教師という職業に就いていると、ささいな事柄でも後に多大な支障をきたす。知っていた。知っていたのに、どうしてもう少し周囲に気を配れなかったのだろう。

 噂はたちまち教師たちの間で広まり、やがて学校の責任者の耳にも届いた。事実確認をするためだと、僕の恋人は彼らと面談をすることになった。

 こういう時どう対処するかは人それぞれだろう。僕たちの場合は、職場へ正直に打ち明けた。二人で何度も話し合って決めたことだった。


 だけど、それが間違いだったのだ。


 「彼も最初は『一目見て恋人同士だって分かるほど、僕たちは仲がよく見えたんだろうね』なんて笑ってました。でも、笑っていられたのも最初のうちだけで、彼は次第に僕を避けるようになっていって……。ある日電話で、遠くの街へ異動になったと聞かされた時には胸が、これ以上ないってくらい苦しくなりました。ぜんぶ、僕のせいだから。許してもらえないと分かってはいたけれど何度も彼に謝って、自分から別れ話をしました。心の準備なんて、とっくに整ってると思ってたのに、別れ際は涙が止まらなくなってしまって」


 自分の感情がコントロールできなくなったのは初めてで、ひどく取り乱した。彼の住む教員住宅を出てから、車の中で涙が枯れ果てるまで泣いた。そこからどうやって自宅まで戻ったのかはうろおぼえだ。よく途中で事故を起こさなかったものだと今では苦々しくも笑い飛ばせる。


 うねっては水音を立てる漆黒の波から顔を上げ、天を仰ぎ見ると星が見えた。雲が晴れてきた。月も出ていない今夜は、天の川までくっきりと観測できる。時折、雲に遮られながらも夏の大三角形が小さな星の群衆を囲んで誇らしげに輝いている。


 「まだ、忘れられない? その彼のこと」


 「……」


 「私は忘れられない。いい意味で、だけどね」

 何も答えられない僕の代わりに、彼女が答える。


 「いい意味?」


 「未練があるから忘れられないんじゃなくて、忘れたくないの。思い出す度つらくても哀しくても、いつまでもおぼえていたい。だって、大好きだって心から想った人のことだもの。命ある限りは、ずっと忘れずにいたいわ」


 「強いんですね、あなたは。僕にも真似できるかな」


 「子供の頃、好きなアニメキャラクターの仕草とか口調とか、真似たことない? あれと同じで簡単なことよ。男の子がヒーローの真似をして強くなった気になるのと同じ。……私もただ、強いふりをしてるだけだもの」


 言葉の後半、彼女の声が震えていた。遮るものが何もない場所で海風にさらされているせいか、肌寒くなってきた。車から何か羽織れるものを持って来ようか。僕は彼女に一言告げて踵を返そうとした。


 小さくしゃくり上げる声。波がしぶきを上げる音に混じって確かに聞こえた。


 「ふりをしてるだけで、本当は何処までも弱いまま。同じ境遇のあなたと逢って、こうして話してて……それだけなのに、何か泣けてきちゃう」


 どんな言葉をかけたらいいのか、分らなかった。


 「何で私、男の人を好きになれないんだろう。女の子ばかり好きになるのなら、いっそ男になれればいいのに。になれたらいいのに。男のあなたと入れ替わることができたならどんなに楽か、……なんて出来もしないこと考えちゃう自分が、大嫌い」


 高い鳴き声がした。白い翼が羽ばたく幻を暗闇の中に見た。星々のきらめきが、今は滲んでしまってよく見えない。


 僕も同じことを時々思う。


 考えてもどうにもならないことだ。それでもつい考えてしまう。


 別れたばかりの恋人、彼に出逢う前の自分に戻れればと。いや、いっそのこと両親のもとに生まれた瞬間から人生をやり直せればいいのにと。馬鹿馬鹿しくて、自分が嫌いになりそうでも、考えずにはいられない時がある。


「入れ替わらなくていい」


 込み上げてくる苦いものを飲み込んで、言葉を吐き出す。


 「いいんですよ、あなたはあなたのままで。僕は今、あなたという存在にとても救われています。この岬にいてくれた、声をかけてくれた、それだけで僕は救われたんです。あなたが男であろうが女であろうが関係なく」


 欄干から一歩だけ身を引く。


 「……あの」


 嗚咽は止まない。僕は構わず続けた。


 「もう少しだけ、近くに行ってもいいですか」


 返事はなかった。代わりに、暗闇の中で何かが上下に大きく振られるのが目でかろうじて確認できた。多分、手招きされている。


 自分より一回り小さな人影へ歩み寄る。一歩だけ距離を置いた位置で立ち止まり、今まで通り海の音を聞きながら星を眺めた。はなをすする音が止むまで、しばらくそうしていた。


 「ごめんなさい」

 間近に聞こえた声はすっかり冷静さを取り戻していた。


 「やっぱりまだ未練があるのかな。感情が昂っちゃった」

 言葉の合間に苦笑が含まれていることに僕はほっとして「気にしないで下さい」と答える。


 「ねえ。聞いてもいい? あなたの名前」

 「名前、ですか」

 「私はシホ。下の名前だけでいいから教えてくれない? 今夜のこと、忘れずにいたいから」


 穏やかな吐息を感じた。微笑んでいる。気配で何となく察する。


 「……キョウヤ。それが僕の名前です」

 「キョウヤさん、ね。おぼえておくわ」

 「僕もおぼえておきます。シホさん」


 彼女を横目に捉えた視界を、明るい筋が横切った。流れ星と思われるそれは発光した刹那、跡形もなく消えた。

 僕とシホさんがする恋も、あのまたたきのように儚くて、いつかは消えていくものなのかもしれない。それでも力強く輝いて残像となり、心のどこかへ何かを置いていく。いつまでも消えない、爪痕にも似た何かを。


 「この岬、前にも来たことがあるんです。恋人と一緒に」

 「同じだわ。実は私も、彼女を連れて来たことがあるの。綺麗な夕日が見られる場所だからって。まあ、こんな田舎だものデートスポットも限られるわよね。せいぜい景色を見るしか楽しみがないし」

 「ええ。けれど彼は、この街がとても好きでした。……ああ、もちろん僕も気に入っています。前に住んでいたところより大分、不便だけど」

 「ってことは、都会から越してきたのね。私もいつか、ここを出て暮らそうかな」


 お互いの存在を認識した直後と同じように、いくつか他愛ない会話をした。そろそろ帰らなくちゃ。話題が尽きた時、隣りでシホさんが呟いた。


 「あんまり長居すると、風邪をひいちゃいそう」


 思わず、送っていきましょうかと言いかける。でも僕は言わなかった。ごく何気ない言葉なのに、この時は決して口にしてはいけない禁句のように思えた。


 小さな人影が欄干から離れていく。


 錨のモニュメントと並んだ辺りで動きが止まった。


 「キョウヤさん」


 遠ざかっていく背中へ何一つ声をかけられないでいる僕に、彼女はなお親しげな声で呼びかけてくれる。


 「今夜ここで、あなたと逢えてよかったわ。ありがとう」

 「僕も、シホさんと話せてよかった。ありがとうございました」

 「元気でね」


 晴れ晴れと言い残し、シホさんは闇夜の中をまっすぐに歩いて行った。


 後ろ姿を見送り終えた数分後、夜風の冷たさに耐えられなくなった僕は車へ引き返した。運転席に座って一息つくと同時に眠気を感じた。春先、身体中の水分がすべて無くなりそうな勢いで泣いた場所だというのに、今は心が落ち着いている。先ほど体験した出来事を思い出すと口元が緩んだ。


 声と気配しか認識できない相手に打ち明け話をするだなんて。しかも、こんな場所、こんな時間に。傍から見れば妙な光景だろう。僕だってそう思う。


 それでも、心の何処かが軽くなったのも事実だった。


 これまでひた隠しにしてきたことを誰かに話し、分かち合う。勇気は必要になるけれど、とても大切なことなのだと知った。いや、教わった。シホさんに。


 車内の時計が十一時二十二分を示している。たった二十分間という短い時間で、僕たちは出逢い別れた。そしてもう、逢うこともないのだろう。それでいい。二度と逢えないとしても、僕はきっと彼女を忘れないだろう。シホという名前を耳にする度、僕は微かな痛みと共にこの夜のことを思い出すはずだ。


 欠伸が出る。身体が睡眠を欲している。

 仮眠してから家に帰ろう。座席を倒すとフロントガラスの向こうに天の川が見えた。抗いようのない睡魔に身を任せ、遠くに波音を聞きながら僕は眠った。


 目覚めは唐突にやって来た。


 青みがかった天井が見える。身を起こし、自分がベッドの上で眠っていた事実に戸惑い、そして落胆する。ただ都合のいい夢を見ていただけなのだと気がついた途端、ため息がこぼれた。


 何気なく目をやった先に窓がある。カーテンは開いていた。いつもは閉めてから眠りにつくはずなのに。


 空が見えた。深い青色に紫色を含んだような、不思議な色をしていた。


 あかつき。夜明け前の時間帯のことをそう呼ぶのだと、以前、僕に教えてくれた人がいた。その人は博識で、とても頭がよかった。彼の持つ知識は幅広く、花のことまで詳しかった。確か、こういう色を何かの花に例えて呼んでいた気がするけれど、何といっただろう。残った眠気が邪魔をして、上手く思い出せない。


 朝が、すぐそこまできている。それだけは確かだった。


 もうひと眠りするために身を横たえる。漁船の出港を知らせる汽笛が聞こえた。あの岬の付近にある港から船が出る。朝が来る度に。


 今頃、彼女もこの汽笛を聞いているのかもしれない。


 切なくて優しい夢の名残を引きずったまま、僕はもう一度目を閉じた。

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