第4話
鹿子がうちに来たのは、これが初めてというわけでない。映画を見たり料理を作ってもらったりするために、月に三回くらいのペースで招いていた。
だからズンズンと迷いなく進み、回りの目なんて気にせず私の腕を引く鹿子は、ようやくその足を止めると、先程渡したプレゼントをポケットから取り出して瞳を輝かせる。
「お邪魔します……!」
鍵を開けてドアノブを回すと、まるでお宝でもみつけた子犬のようにパッとこちらを向いて微笑む鹿子。
「ただいま、でも良かったのよ?」
「っ真嶺さん~!」
自分でもちょっとクサいかなと思った台詞だったが、喜んでくれたらしい鹿子は胸元へ抱きついてきた。
「……真嶺さん」
「……先にシャワー浴びていい?」
「……はい、待ってますね」
確実にその雰囲気になったことを察知したが、まずはエチケットを優先させる。しばらく離れてくれなかった鹿子をなんとか引っ剥がし、そそくさとバスルームへ。
普段何気なく済ませていた体の細部まで念入りに洗う。そりゃあもう、念入りに。
「……」
下着は……いいか。こんなに早くここまで来るとは思っていなかったから、鹿子をその気にさせるような装備がない。ならいっそ着飾らないでいこうじゃないか。……どうせ脱ぐんだし。
「私もお借りしますね」
普段遣いしているバスローブだけ巻いてリビングへ戻ると、すっかり酔いが覚めたらしい鹿子が、ぎこちない笑みを浮かべて言った。
お風呂にも何度か入ったことはあるし、お湯の出し方やらバスグッズについての心配をする必要はないだろう。するべきは、彼女が出てきたその後についてだ。
「……」
大丈夫だ、予習はしてきている。きっとなんとかなる。
男との経験すらないのはマイナスだと思っていたが、むしろ変な固定観念がない分柔軟に対応できるのでは?
そう、増し過ぎた不安は限界を超えると自己を正当化するために自信へと切り替わるのだ。
「……」
こういうのって布団の中で待ってて良いのかな……寝たと思われないかな? いやね、別に寝たと思われてやり過ごそうとかは一切思ってないけどね??
「電気、消しますね?」
やがてバスルームから出たらしい鹿子が、か細い声でそう言うと一直線で私が潜っているベッドへ。見えはしないけど足音でばっちりわかる。
「真嶺さん……?」
たぶん、電気を消してくれたのも、初めての私が恥ずかしがらないよう配慮してくれたのだろう。くぅ……鹿子はこんなに優しいのに……私は結局寝たフリしか出来ない……!
「嫌だったら、言ってくださいね?」
この台詞を聞くのも二回目だ。なんて感慨に浸る間もなく、壁を向いて寝ていた体勢を仰向けにされて……そっと、胸に手を置かれる。
「ふふっ、真嶺さん、すごくドキドキしてますね」
バレたぁ! 起きていることが今確実にバレた。人体の不随意運動には勝てなかったよ……。
「真嶺さん、もしよろしければ、目は瞑ったままでいいので、私のも触ってくれませんか?」
言われて、左手がとられる。力を抜いて彼女の誘導に任せると、柔らかくて温かい肌の奥で激しく暴れる心臓を感じる。
「わかりますか? 私もこんなにドキドキしてるんです。……格好、悪いですか?」
「そんなこと……あるわけないでしょう?」
観念した私も言葉を発して、ようやく目を開けた。
月明かりが薄く照らす鹿子の、緊張した笑顔があまりにも、あまりにも可愛すぎて、美しすぎて、脳が沸騰しそうだ。
「良かった。……真嶺さんは力を抜いていてくださいね。いつも私をリードしてくれて……大切にしてくれたお礼をさせてください。でも、あの――」
「鹿子」
きっと私は今、生涯最大の勇気を振り絞ったことだろう。
以前車内で鹿子がそうしてくれたように両手で頬を包み、初めて、自分の唇を人と重ねた。
「真嶺、さん」
「大好きな貴女になら、何をされたって幸せだわ。だから……鹿子のしたいことをして?」
「っ……。そんなことを言われたら……加減できないじゃないですかぁ」
蠢く指先、這い回る舌、脳を犯す甘美な言葉達――。
それらによって私は、勉強や部活、仕事よりも恋人作りを優先させる人の気持ちがよくわかった。
そして、初めての相手が鹿子で良かったと強く思う。子猫を撫でるような優しさと、生者に縋る亡者のような激しさを交互に受けても、恐怖は一ミリもなかったから。
×
「んっ……」
カーテンをすり抜ける柔らかな朝陽に、意識がじんわりと覚醒していく。
私の右腕を枕にしてすっぽりと収まっている鹿子は、未だ穏やかな寝息を立てて、少し、微笑んでいるように見えた。
(……予習……全然、役に立たなかったな……)
結局私は寝落ちするまで鹿子にされるがまま。一度たりともリードを奪うことはできなかった。というか、太刀打ちできる気もしなかった。
(次は、私も……)
鍵を渡したのだから、機会はまだたくさんあるだろう。
そうだ、きっとこれからも私は、数え切れない程の初めてを積み重ねていく。
そのとき一緒にいてくれるのが鹿子ならば――それがなんだろうと――私は同時に、幸せな記憶も積み重ねることができる。
男とか女とか、そんなのは関係なくて、この愛おしい存在と、これからも生きていきたい。
心臓の奥からそんな感情が溢れ湧くと、自然に鹿子の頬を撫でていた。
「……ん、……真嶺さん。おはようございます」
自分では軽く触れただけと思ったが、ぴくんと反応して重たそうに瞼を持ち上げると、微笑みを確かなものにした鹿子。
「おはよう。鹿子、あのね」
こんなこと、きっと今じゃないと言えない。
特別な夜が明けた、特別な朝にしか。
「はい」
「私と、これからも一緒に生きてくれる?」
そう思える幸せと共に――微睡む瞳を大きく開いて、次の瞬間には大粒の涙を溢れ出させた鹿子を――力いっぱいに抱きしめた。
「それは……私の台詞ですっ」
対抗するように全力で抱きしめ返され、心臓が重なり合う。
安心なのか、暖かさなのか、寝不足なのか。私達は再び、深い眠りへと落ちていく――互いの鼓動を、子守唄にして。
男でダメなら女でいいか 燈外町 猶 @Toutoma
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。