第3話
「いらっしゃい」
鹿子が珍しく連休を取れた日は、私達が出会ったバーへと赴くことが多い。
この辺りなら堂々と手を繋いだり腕を組んだり出来るため、鹿子のテンションも心做しか高く見える。
「幸せそうな顔しちゃって。妬けちゃうわね」
「えへへ〜。あの時真嶺さんが声かけてくれたのは~マスターのおかげなんですもんね~。恩返しに~これからもお世話になりますよ~ね~真嶺さ~ん」
「そうだね。……鹿子、ちょっと飲み過ぎじゃない? 大丈夫?」
二軒目というのに鹿子は随分酔っており、いつも以上に顔をほころばせている。
「大丈夫ですよ~。ぁん」
少し手が触れただけなのに、鹿子は瞳をとろけさせて、甘さたっぷりの声を耳元で零した。
「もうっ真嶺さんのえっち」
「っ」
少し離れると、今度は挑発的な表情へと切り替わる。
その瞳には見惚れざるを得ない引力が確かにあって、落ち着いたBGMと甘いカクテルの香りが酔いを一層加速させた。
「……ちょっと、お手洗いに行ってきますね~」
「うん」
車での一件から、そういう雰囲気にしないよう努めてくれている鹿子は、生まれてしまったソレをリセットするかのように席を立つ。
「……まさか貴女達、まだキスもしてない、とか……?」
流石はマスター。ぎこちない私達のやり取りを見て察したらしく、ズバリ正解を言い当てた。
「あの日、散々鹿子ちゃんを甘やかした後置いていった時は酷い女だと思ったけど……どうやらタダのヘタレだったみたいね」
「私も最近はいろいろ頑張ってるんですよ。けどその……最後の一歩が踏み出せないというか……」
「変にロマンチストになっちゃったらダメよ? 時には勢いで押すことも……まぁ鹿子ちゃんが良いならいっか」
たぶん、良くはない。あんなに喜んでくれた彼女だ、きっと出来ることならもっと深いところで繋がりたいと思っているはず。そしてそれは私だって同じだ。
ああ、マスターの言うことはあまりにも図星だ。私今超面倒くさいロマンチストになってる。早くやることをやってしまえばいいのに……!
「あら、芸能人がお忍びで来るには……ここは安すぎない?」
来客を告げる呼び鈴が揺れ動くと、続く足音は真っ直ぐこちらへ向かってきた。
そうか、私が鹿子に初めて声を掛けた時、その腹を察知されたことに驚いたけれど、ここまで露骨ならば無理もない。
「そういうあなたは芸人さん? ナンパにしては面白くないけど」
「ふふ、強気なのね。嫌いじゃないわよ」
その女は一帯を塗り替えるような強い香水を振りまき、さっきまで鹿子が座っていた場所へ平然と腰を落ち着けた。
「ねぇ、グラスが二つあるのわからない?」
「わかってて声を掛けてるの。どこから自信が湧いてるのか試してみたくない?」
テーブルに乗せていた私の手に、下心が隠れていない左手を重ねられかけ、触れる前に避ける。
はぁ、苦手だ。自信があるのは良いことだと思うが、堂々と浮気を勧めてくるような人間とは関係を持ちたいとは思わない。
「「あっ」」
鼻歌混じりでそこへ戻ってきた鹿子は、明らかに、『自分が座っていた場所に人がいる驚き』ではない声を上げた。
「なに、あんた鹿子の新しい飼い主?」
あぁ。
さっきまであんなに楽しそうに酔っていた鹿子の顔から血の気が引いていき、視線を泳がせてはまばたきを繰り返している。
こいつが鹿子の元カノ――マスター曰く、悪い女ってわけね。
「その子、束縛強くてうんざりしない? セックスも下手だし気の利いたこと言えないし。流石にその子よりは貴女を満足させる自信があるわ。せっかくなら一流を知りたいでしょう?」
一流、ねぇ。そんなものを知るより一人の人から愛されることの方がよっぽど幸せだと思うけど、まだ会話はしてあげない。
まずするべきは、あんなに泣くほど愛していた人に、ここまで言われた鹿子の意思確認。
「鹿子、何か言い返すことは?」
「えっ……あの……」
「ないの?」
「えと、えっと……私……」
こんな狼狽した状態で話せって言う方が不憫か。
「じゃあ私の言いたいこと、言わせてもらうね」
カクテルに口を付けて潤し、少しの酔いに身を任せて、女に目を合わせ言葉を紡ぐ。
「私はね、ただただ同情してる。あんたがそうやって、猫撫で声をかけるべきは私じゃなくて鹿子だった。『そんな女やめて私とヨリを戻して、お願いします、過去の事は全て謝りますごめんなさい。』……そう言って頭を下げることだけが、あんたの、唯一の正解だったのに。それを外したんだ。哀れで哀れで……同情するよ」
言い終わって、グラスを空にすると――
「……ふんっ、見た目は良いのに見る目は最悪ね」
――女はそれだけ吐き捨て立ち上がり堂々と店を後にした。あれだけ言われても余裕ぶれる余裕があるとは。百戦錬磨というわけだ。
「マスター」
空いた席に鹿子が腰を落ち着かせたものの、若干重い空気が私達を支配していた。それをかき消すためにも追加で飲み物を注文しようとすると――
「はい、これ」
「あっ」
――差し出されたのは、鹿子と話すきっかけになった特別な一杯。
「今まで出してって言ってもくれなかったのに」
この味が忘れられず来る度に頼んでいたが、いつも断られていたので驚いた。
「あの人には困ってたのよ、常連さん泣かす常連だったから。顔もスタイルもお喋りもテクも良いもんで、性格の悪さを差し引いても、のめり込んじゃう子がたくさんいるのよねぇ」
鹿子もその中の一人だったということか。まぁ確かに、あれだけ自信満々に、相手を立てて口説いてきたら心が動く子も多いのだろう。
私には鹿子がいたから一ミリも動かなかったが。
「でも、あれだけ言われたらしばらく来られないでしょう。コレは撃退してくれたお礼」
「それはそれは。素直になってみるもんだね」
二ヶ月ぶりに味わう極上のカクテルを堪能していると、鹿子がおずおずと私の裾を掴んだ。
「真嶺さん」
「なあに?」
「今……言ってくださったこと、本当、ですか?」
「本当って?」
「その、あてつけとかじゃなくて、本心で、ああ言ってくださったんですか?」
「当たり前じゃない。私としては鹿子の口から言って欲しかったけど」
とは言ったものの、誰かへ強く自分の意志をぶつける鹿子は想像し難い。ならば私が彼女の盾になればいいだけ。これからも、大切な人をたった一人くらいは守れるよう、酒には強くなっておこう。
「っ……真嶺、さん」
「嬉しい?」
「……はい。嬉しいなんて言葉じゃ、言い表せないくらい……」
「じゃあ嬉しさついでに、これもあげる」
「っ! これ……!」
愛しい人の小さなてのひらに、自分の部屋の鍵を置く。たったこれだけの行動が、こんなにも幸せだなんて思ってもみなかった。なんていうか、満たされるってたぶん、こういうことの積み重ねなんだろうと予感させる。
「鹿子は相手のことばっかり気にして、自分の傷には無頓着でしょ? だから少しでも嫌なことがあったり、苦しいな、つらいなって思ったらいつでもおいで。私ばっかり鹿子に優しくされてるし」
遂に涙腺が決壊した鹿子は、鼻を啜りながら私の言葉へ頷いたり首を振ったり忙しそうだ。
「私は鹿子と違って美味しい料理を作ったり……その、気持ちよくさせてあげるテクとかは持ってないけど、側にいて話を聞くぐらいはできるから」
「っ……はいっ……」
それからは、泣きじゃくる鹿子の頭を撫でたり肩をたたいたり抱きつかれたら抱擁仕返したり……している事は出会ったときと全く同じなのに、私の心は、たぶん愛しさとか慈しみとか呼ぶべき感情で満たされていて、体感したことのない幸福感に包まれていた。
「……この鍵……今から使いに行ってもいいですか?」
「もちろん。それはもう貴女のものよ。好きに使って」
ハンカチで涙を何度も拭って、ようやく言語を発した鹿子は、私が答えきるよりも早く席を立って腕を組んできた。どうやらもう引っ込みはつかないらしい。
大丈夫、私だって覚悟はとっくにしているんだ。ただその勇気が出なかっただけで……ああでもこれ完全に鹿子にリードしてもらう感じだ……いや、勝負はまだわからない。
ここまで格好つけたんだ。ベッドの上でも、年上の威厳と余裕を見せつけようじゃないか。
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