五分間の甘い夢

夜野せせり

第1話

 私は数学が得意だ。

 返ってきた中間テストの答案を見てにんまり笑う。

 だけど、隣りの席の清瀬はこの世の終わりみたいな顔をしている。

「だれかさんはいいよなー。今回も一組トップかなー」

 恨めしそうに私の机をのぞきこむ。反射的に手で隠したけど一歩遅かったようで、 清瀬は目をまんまるく見開いた。

「きゅ、九十八点……。人間じゃねえ……」

 顔がかあっと熱くなった。いい点をとったことが急に恥ずかしくなる。

「俺なんて赤点だよ、まじやばい」

「赤点っ?」

 私は大げさにのけぞった。

「赤点なんてどうやったらとれるの? 信じらんない」

 はっとした。清瀬の顔がひきつっている。ほんの仕返しのつもりだったのに、言いすぎた。

 ごめんと言いかけたところで、「静かに」と先生に注意されて、うやむやになってしまった。ちらと盗みみた清瀬の顔は沈んでいる。

 ああ、またやっちゃった。私、どうしてこうなの?

 最近、私は変だ。清瀬と話しているとサボテンになってしまう。トゲトゲのサボテン。清瀬を傷つける。

 昼休み、仲良しの史子に数学を教えている時。懲りない清瀬は「俺にも教えてー」とからんできた。私はどきっとしてシャーペンの芯を折ってしまった。動揺を悟られたくなくて、「清瀬のせいで折れたっ」なんて言ってそっぽを向くと、清瀬は、

「じゃあもういいよ。中根には聞かないから」

 と言って去ってしまった。

 嫌われた。世界の終わりだ。終わりを自分で手繰り寄せてしまった。

「私のバカ。バカ。バカバカ」

 帰宅して、まっさきにパティに泣きついた。パティのふわふわのからだに鼻先を擦りつけると、ほんのりひなたとミルクのにおいがする。つぶらなふたつの目が、すすり泣く私の顔をじっと見ている。

「なんで清瀬にだけいじわる言っちゃうんだろう」

 パティは首をかしげた。ように、私の目には映った。

 テディベア、だと私は思っている。ママは違うよと笑っているけど。

 パティは私が赤ちゃんの頃にうちにやってきた。以来、ずっと親友。中一にもなってまだぬいぐるみとお話ししてるなんて、とママは眉をひそめるけど関係ない。史子にもほかの友達にも話せないことを、パティにならぶつけられる。

 ちょっとぶさいくなところが可愛い。ゆるキャラみたいで。熊のわりに鼻先がとがりすぎているし、胴体もブタみたいにずんぐりしてるけど、どんなベアよりもパティが愛おしい。

「くまじゃないなんて、ママひどいよね。パティはこれでも、テディベアなのにね」

 鼻をすすりながらパティの頭をなでた、その時だった。

「熊ではない。失礼な。我輩は獏だ」

 いかつい男の声がする。わがはい?

 きょろきょろとあたりを見回すけど誰もいない。この部屋にはテレビもラジオもない。

「空耳?」

「ではない」

 その時。ひざの上に抱っこしていたパティがひょいっと立ち上がった!

「ま、まさか、パティが」

「いかにも、我輩である」

「吾輩って……獏って……」

 手元にあったスマホで「獏」を検索した。画面をスクロールする指先が震える。

落ち着け、私。落ち着け。

「そんなもので調べずとも、本物が目の前にいるのだから聞けばよかろうに」

 パティがやれやれと両手をかかげた。その、アメリカのコメディのようなリアクションも、じじくさいしゃべり方も、すべてが「パティ」とは違う。

「ぬいぐるみは世を忍ぶ仮の姿。吾輩は夢を食らうあやかしよ。そなたの夢はまこと美味であった。甘くて舌の上でとろける砂糖菓子のようだった」

「私の夢、食べてたの……?」

 いかにも、とパティはうなずく。思わず自分の頭をぺたぺた触った。むはは、とパティが笑う。

「心配せずとも、夢を食らわれたところでおぬしの命にはなんの問題もない。深くぐっすり眠れるから、かえって健やかに成長するものよ」

 言われてみれば私は夢を見たことがない。「夢を見る」という感覚がいまいちぴんとこないんだ。まさか獏のせいだったとは。

「しかし最近そなたの夢は酸っぱくてかなわん。それでも腹が減るので我慢して食っておったが、もう限界だ。日ごとに酸味は増し、ゆうべなど苦いくらいであった」

「そんなあ」

 勝手に食べておいてその言い草はないでしょと思いつつも、不味いと言われれば傷つく。パティは私のひざから下り、ベッドの上にごろりと横になった。

「菜美の知り合いに、誰か悩みの少なそうなこどもはおらぬか? こどもの夢は極上だからな」

「パティ、よその子のところに行くの?」

 ひざの上に置いたこぶしをぎゅっと握った。パティは腹をぼりぼり掻きながら、

「だって不味いし」

 と、ぶうたれた。

 そんな。親友だと思ってたのに。

 パティがしゃべったことよりも、ベアじゃなくて獏だったことよりも、なによりもショックなのは、自分がパティにとって、単なる食糧の提供者にすぎなかったということ。

「何を泣いておる」

「だって」

 起きあがったパティは短い足をあぐらのように組み、ふう、と息をついた。

「そなたの夢が、再び甘くなればよいのだ。さすれば吾輩はずっと菜美のそばに」

「いてくれる、の?」

 涙をふいた。パティはつぶらな瞳を私からそらし、短い手で頭の後ろをしきりに掻いていた。

 次の日。

 私はサブバッグの中にパティをしのばせて、どきどきしながら登校した。

 夢が酸っぱくなった原因は、ひとつしか思い当たらない。清瀬だ。清瀬と席がとなりになった時期と、夢の味が変わった時期が重なるとパティは言う。

「恋というのはな。苦いのも酸っぱいのもえぐみの強いものもあるが、クセになるほど強烈に甘いものもある。頑張って甘くしろ」

「恋じゃないし。それに、そもそもパティが食べるのは夢でしょ。恋がどんな味だろうと関係ないでしょ」

 私が口ごたえしても、パティはにたにた笑っているだけだった。

 やな感じ!

「おはよー」

 登校してきた清瀬が、自分の席についた。せっかく挨拶してくれたのに、清瀬のほうを見れない。

「お、おは、おは」

 パティがこのもやもやに「恋」なんて名前をつけてしまったせいで、余計に意識してどきどきが止まらない。

「お、お、おはよっ!」

 やっとのことで言えたその時にはもう、清瀬は他の男子のところへ行ってしまっていた。

(何をしておる)

 パティの声がする。まだ彼はサブバッグの中。頭の中に直接響いてくるのだ。だから私も声を出さず、頭の中で話しかけた。

(パティ、へんな術みたいなの使えるの? これ、テレパシーだよね?)

(いかにも。人間の心がのぞけるし、夢に入り込むことも、夢を吐きだすことも、夢に人間を取り込むこともできるぞ)

 パティは得意げだ。獏のなかでも吾輩クラスにならないとこんな芸当はできないのだ、などとごたくが続いたけど遮った。

 パティ、と語りかける。

(清瀬の心も、のぞける?)

 チャイムが鳴って、みんなが慌ただしく席についた。

 頬杖をついて、ちらちらととなりの席に視線をとばす。

(あー、こいつはまずい)

 突然、パティの声が脳内に響いて、思わず変な声がもれそうになる。

(脅かさないでよ)

(清瀬光な。食えたもんじゃないぞこいつの夢は。例えて言うならば、金属の錆とか、そういう類の味だ)

(夢、食べたの? 清瀬起きてるのに?)

(眠っている時に見るものだけが夢ではない。その人間をとりこにしている考えや、妄想の類も我輩は食らう)

 ふうん。それで、甘い恋が食べてみたいのね。

(清瀬、悩みがあるのかな?)

(悩み、だろうな。こやつの頭のなかは、数字だらけだ。数字に支配されておる)

 数字、だらけ。

 1時間目は数学で、清瀬は腹痛でも我慢しているみたいな顔で自分のノートを睨んでいる。問題を解く手は止まったまま。私はそっと、教科書に視線を戻した。

 赤点、ショックだったんだね。それなのに私、あんな言い方しちゃって。

 やめろ、酸っぱい、とパティの悲鳴があがる。勝手に食べないで、と私は舌を出した。

 一日中、清瀬を観察し続けた。やっぱりどこか元気がないように見える。

「菜美、教えて」

 史子が菜美の前の席の椅子を借りて座った。いつの間にかお昼休みになっていた。史子が菜美の目の前に広げたのは塾の問題集。

「また課題やってこなかったの」

「だって自分ひとりじゃわかんないんだもん」

 しょうがないなあ、とこぼしつつも、史子と一緒に丁寧に問題を解いた。

「菜美の説明、わかりやすい。塾の先生より教えるの上手だよ」

「そ、そうかな」

 まっすぐな賛辞に、恥ずかしくなってしまう。

「いつも頼っちゃってごめんね」

「いいの。誰かに教えてると自分の復習にもなるから」

 史子のおでこを人差し指でこづく。テキストで半分顔を隠して、史子が笑った。

「中根って、沢田にはやさしーのな」

 突然背中に声が刺さった。ふり返らずともわかる。清瀬だ。

「ていうか俺以外にはやさしーよな」

「あんたが嫌われるようなことしたんじゃないの?」

 史子が冗談めかしてまぜっかえす。私はがちがちに固まってしまっていた。

「沢田、やっぱ塾って大変?」

「うん。夜遅くなるし、課題も出るし。うちは結構厳しい方だからとくにきつい」

 はーあ、と清瀬は盛大なため息をこぼした。

「俺さ、つぎの期末も赤点だったら、陸上部やめて塾行けって言われてんだよね」

「えーまじ? 清瀬って走る以外になんも取り柄ないのに」

「ほっとけ」

 清瀬と史子のやりとりはぽんぽんと毬のようにはずむ。私は清瀬の言葉を拾うだけで精一杯。部活を辞めさせられる、それであんなに、落ち込んでいたんだ。

 力になりたい。清瀬にも教えるよって言いたい。言いたい。シャーペンをにぎる手にぐっと力をこめたら、ぽきりと芯が折れた。

「あー、菜美、また」

 史子が笑う。

「筆圧強すぎ。握力強すぎー」

 清瀬にからかわれて、思いっきり彼を睨んだ。

「こっわー。俺もう退散―」

「おうー。行け行け」

 史子が笑いながらしっしっと手を振った。

(史子が清瀬にたたく軽口にはぜんぜんとげがなくて。子犬がじゃれ合ってるみたいで。なのに私は)

(泣くな菜美。史上最悪に不味いぞ)

 ぺっぺっ、とつばを吐きだす音まで脳内に届く。「パティのばか」とつぶやいた。


 帰りのホームルームの最中。いかんな、とパティは言う。

(ひどくなるいっぽうだ。これでは吾輩は飢え死にしてしまう)

(我慢してよ)

(そなたも食ってみるがいい。変な匂いまで混じってきて最悪だ。例えるなら蛇を干した粉でつくった秘薬)

(例えなくていいから)

(吾輩はそなたの夢を食うのはやめる。ぬいぐるみはやめだ。他の憑代を探す)

「行かないでっ」

 とっさに叫んで、立ち上がった。はっと我に返ると、クラス全員があっけにとられて私を見ている。

「中根のやつ、寝ぼけてんの」

 清瀬が言って、みんな笑った。

「……っ」

 どよめきが引いて、教室がしんと冷えた。

 私、最悪。こんなとこで、みんなの前で泣いちゃうなんて。そう思うのに涙は止まらない。パティまでいなくなっちゃったら、私。視界の端に、戸惑っている清瀬のすがたが映る。優しくしたいのに。力になりたいのに。

 と、その時。

「チャンスをやろう」

 声とともに白い光がはじけ、サブバッグの中からパティがぽんっと飛び出した。

 止める間もなく、パティはとがった鼻先から、ふーっと、長い息を吐き出す。息というか、湯気というか、煙というか。もくもくと大きくふくらむ、ミルク色の雲。

「五分だ」

 パティはおごそかに告げる。

「最近ろくな食事ができてないからな、五分が限度だ」

「な、なにが?」

「言ったであろう、吾輩は夢を吐くことも、人間をそこに取り込むこともできると」

 そういえば言っていた。

「五分間だけ、あまーい夢にご招待だ。菜美と清瀬少年を、だ。ぞんぶんに話せ。いいか、ふたりきりだぞ? このチャンスをムダにしたら、あとはもう知らないからな」

 言うやいなや、パティのつぶらな両目から桃色のビーム光線が放たれ、私と清瀬を包んだ。次の瞬間、私たちはミルク色のもやの中にいた。

「え? あれ? なんだここ?」

 突然妙な世界にひきずりこまれた清瀬は、きょろきょろとあたりを見回している。

「ゆ、夢の世界、だって」

 私の声は固く、うわずっていた。高鳴る胸を静めようと、息を大きく吸い込む。甘くてほんのりひなたくさい。パティの匂いだ。

「夢って」

 と言ったきり、清瀬は口をつぐみ、沈黙が降りた。

 何から話しかけよう。五分しかないんだ。こうして迷っているあいだにも、じりじりと時間は過ぎていく。

「夢って気持ちいいな。忘れてた。たしかにこういう世界、知ってた気がするのに」

 清瀬はこの奇妙な状況下で猫のように大きなあくびをしている。拍子抜けした。

「最近俺、眠れなくって。悪夢見るの。数字おばけが追っかけてくる夢」

「獏に食べてもらえばいいのに」

 思わず口走ってしまって、口を押えた。ぶはっと清瀬は笑う。

「獏かー。そりゃいいやー」

 清瀬はごろんと横になった。ふかふかの雲の中は、天井も床もどこもかしこもふかふかで。私も思い切って腰を下ろした。

 清瀬はまぶたを閉じて、ホントに眠ってしまいそうな勢いだ。

(もう三分経ったぞ?)

 パティがせかす。あと二分? どうしよう。チッチッチッチッ、と調子にのった獏はクイズ番組さながらに秒針の効果音をマネしている。

「清瀬起きてっ。清瀬っ」

 慌てて清瀬の肩をゆすった。ぱちっと目を開けた清瀬は、

「中根、脳みそ取り換えてー」

なんてことを言う。

「バカっ」

「威勢いいなあ。さっきはいきなり泣き出したから心配してたけど、大丈夫そうだな」

 清瀬はふいに真面目な顔になった。瞬間、心臓がどきんと跳ねた。

「俺がみんなの前でからかったから、嫌な思いしたんだろ? ごめんな」

「清瀬……」

 チッチッチッ、と獏の声がこだまする。二十秒、と将棋の対局のように獏は残り時間を告げる。十秒。

 どうしよう。やっぱりパティが言った通り、これって恋じゃん。

 タイムリミットはもうすぐ。いっそ告げてしまう? どうせここは夢の中なんだし。

「あたし……」

 好き。本当は清瀬が好き、と言いたかった。だけど口の中がからからで。

「どした? 中根」

 清瀬の、大きくてくりっとして、澄んだ瞳。見つめられるとどきどきが加速して、顔が熱くなって……。

「す」

「す?」

「す、すすす、数学っ!」

 思わず、叫んでいた。

「……教える」

 ブーッ。タイム・オーバーッ!

 パティの声とともに、雲が消えた。私も清瀬ももとの教室にいて、自分の席にちゃんと座っている。

 私ってば。告白するつもりだったのに、まさかの「数学教える」宣言……。

 その時。つんつん、と何かに腕をつつかれた。それは折りたたまれた小さなメモ用紙で。そっと開くと、

「よろしく中根センセイ」

 とある。隣を見ると、清瀬がにんまり笑っている。こくんとうなずくと、さらに清瀬は何か書きつけてよこした。

「夢だけど夢じゃなかったんだな、あの綿菓子。中根と話せて楽しかった」

……だって。

(あーあ、世話が焼ける。ま、ちょっとはマシな味になったから良しとしよう)

 パティのぼやきが、聞こえた。

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五分間の甘い夢 夜野せせり @shizimi-seseri

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