ウンディーネのキス

悠井すみれ

第1話

「街に出ようと思ってるんだ」


 水精ウンディーネは情が深いものだとは聞いていた。恋した男にひたすら尽くす代わり、裏切ったら必ず復讐するとか。だからそう切り出すのには少々勇気が要った。


「だから、もう会えないと思う」


 とはいえ、とは何を誓った訳でもない。ただ、狩りとかの折に、湖で水を汲んだり手や道具を洗ったりするついでに時々話すというだけで。だから、何も言わずに消える方がかえって面倒なことになりそうだと不安だったのだ。


「ふうん」


 こちらの自意識過剰だったのか、多少は拗ねたりもしたのか。彼女は水中で身体をくねらせて僕の顔に水飛沫をかけた。目を瞑る直前に、鰭のついた彼女の爪先を飾る、銀の鱗が閃いた。

 そしてゆらりと水面に立ち上がり、彼女は首を傾げた。


「じゃあ、最後にキスしてくれる?」

「良いよ」


 それで円満に去れるなら安いもの、と頷くと、彼女は音もなく僕の方へ滑り寄って来た。指の間の水掻きが広がって、両の掌が僕の頬を包む。

 間近に見る彼女の目は不思議な色だ。水精だからといって帯びるのは青い色とは限らない。というか、彼女の目こそが水の色だ。絵に描くのとは違って水は何色にでもなる。空の青、木々の緑。飛沫は白く弾け、陽光を映せば眩く輝くし、夜に見れば呑み込まれそうな深淵の黒。今は僕の困惑気味の表情が映り──近づく。

 水精とのキスは当然のことながら水の味だった。緊張して喉が渇いていたのかもしれない、口に入った清らかな甘みを思わず呑み込む。彼女の一部を呑み下したのだと思うと、後ろめたさを伴う高揚で胸が高鳴った。


「またね」


 頬の熱は、彼女の冷たい指のひと撫でが拭ってくれた。形の良い綺麗な手が振られて、すぐに水中に消える。もう会えないと言ったのにまた、とはどういうことかとは思ったけれど、深く考える余裕は僕になかった。




 町には人ではないものの姿はなかったから、彼女の姿もあのキスも、次第に朧になっていった。それでも、初めての人間の恋人と、初めてキスする時には彼女のことを思い出した。人の唇の温かさと比べてやっぱり違うんだな、と思ったから。

 冷たく甘い、水の味が蘇ったのはその瞬間だった。僕の裡から水が湧き出て、唇を通して恋人の口に染み込んだ。彼女の喉がこくりと動く。そして目を開けた時──青いはずの彼女の目はの水の色になっていた。何もかもを映す、人ではない色の目。


「久しぶり」


 微笑むを見て僕は思い知る。水精は情が深いのだ。

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