第11話 竜の血

「自分を囮にするなんて、思い切ったな」


 半ば呆れ、半ば感心した様子のフェルディにイレアナは牢の中で苦笑した。

 元々警察署だったこの建物には立派な鉄格子付きの地下牢が備わっている。

 いつもはがらんとして冷たいその中に、今は毛布やクッションだけでなくランプやテーブル、椅子まで持ち込んであるが。


「人狼の皆さんなら、必ず守ってくれると信じていますから」

「当然だ。貴方はこの身に代えても守り通す」

「おう、じゃあここはロルフに任せる。俺は上にいるとするか。下町の警らもやってるが、今日は非番のやつらもかき集めてここの警護に当たらせたからな。差し入れぐらい持って行ってやらないと」

「ありがとう。ロルフも、よろしくお願いします」


 襲われるかもしれないという緊張感はある。でも、多くの人狼に囲まれて目の前にはロルフもいるのだし、必要以上に恐れることはない。

 イレアナは差し入れられた本を開いた。

 フェルディが持ってきてくれたお菓子のレシピ本だ。

 少し傷んでいて使い古された――というほどではないが、誰かのものだった形跡がある。誰かからもらってきてくれたのだろうか、なんて思いながら読み始めたのだが。


「ロルフ、貴方も座っていいんですよ」

「いや、俺はいい」

「そうですか。でも疲れたらいざという時に動けないでしょう?」

「……疲れる前に座る。有事の時にすぐに動けるように立っていたいんだ」

「そうですか」


 牢の前を行ったり来たりするロルフが気になって仕方ない。

 が、何か起これば彼は実際に戦わなければならないのだし、座ってなんていられないのだろう。気にしない方がいい。

 イレアナは再び本に目をやった。ランプのおかげで薄暗い牢の中でも読みやすい。

 ペンと紙まで用意してくれていたので、気になったレシピはメモしておくことにした。

 そうしてしばらくすると上階で何かあったらしく、ガタゴトと音がして。


「イレアナ」

「大丈夫です」


 目配せするロルフに頷いて、イレアナは姿勢を正した。

 イレアナを起こした者、吸血種を貶めようとする連続殺人犯――なんにせよ、来客者を装ってやってくる可能性もある。

 そういう時はロルフが別の牢に潜んで気配を消し、来客者とのやりとりを監視する手はずになっているのだ。

 案の定、来客がやってきたらしい。

 フェルディに先導されてやってきたのは、長いベールをかぶった細身の女性だった。

 ランプの灯りを受けて黄金に見えるベールが少し眩しい。金糸か、何か特殊な糸で編まれたものなのだろう。


「初めまして、クリステア卿。わたくし、フィデスと申します」


 白磁のように真っ白の肌に、人形めいた微笑み。

 名前を聞いて、イレアナははっと息をのんだ。

 連日新聞に載っていた、教会の聖女。下町の民を思い行動する彼女の名は――フィデス。


「教会の聖女?」

「そう呼んでくださる方も多いですが、私はただ奉公をしているだけですわ。実は尼僧としての教育も受けておりませんの」

「でも下町で献身的に活動なさっているのだとか」

「それはわたくしが下町の出身だからにすぎません。わたくしと同じように、貧しく哀れな人々を救いたいだけですわ」

「……何故こちらに?」


 フィデスが軽く身をかがめる。まるで内緒話をするように。

 イレアナは警戒しつつもほんの少しだけ彼女に近寄った。鉄格子に加え傍にロルフがいるとわかっていても緊張してしまう。

 

「ああ、ようやく、」

 

 呟くフィデスのベールから、彼女の髪が見える。男性よりもずっと短い、短すぎるほどの長さで髪色は抜けてしまったような淡い栗色。

 瞳も、似たような色合いだ。そしてなんだか、ガラス玉めいた不気味さがある。

 そう感じるのは教会が、特に吸血種を指して「魔族」と呼び、嫌っていることを知っているせいかもしれないが。


「……ようやく会えたわ、ツェペシュの牙。わたくしはね、クリステア卿、魔族が大嫌いなの。『彼』の力を奪い取った挙句、勝手に繁殖するなんてドブネズミのように汚らわしい」

「彼……?」

「ああ、『彼』はわたくしだけのもの。誰にも、魔族にもヒトにも渡さない。まずはお前からその牙を奪ってしまいましょうね」


 うっとりと囁きながら聖女が手を伸ばす。

 瞬間ぞくりと怖気が走って、イレアナは牢の奥へと後ずさりした。

 と同時に、何か大きなものが現れて――聖女が吹っ飛ぶ。いや、殴り飛ばされたのだ。


「クソッタレの暴虐者め! テメェはここでぶち殺してやる!」


 猛然と吠えたのは、白銀の髪が特徴的な青年だ。

 地下牢のランプで濃い影を落としたその顔色は青白く、赤茶の何かや砂や埃でひどく汚れている。


「イレアナ!」

「私は大丈夫、聖女が!」


 隣の牢で聖女との会話を聞いていたロルフが、飛び出してくるより早く現れた謎の青年。

 一体何者だろうと考えつつ、イレアナは聖女を追って視界の外に消えた青年を探すべく、牢の奥から手前へと移動した。

 そうして鉄柵ごしに覗き込んだ瞬間、バキ、と何かが壊れるような、嫌な音がして。


「やめろ! お前は何者だ!」

「クソッタレ! 教会なんかクソだ!! 俺たちはずっと努力してきた! 圧政せざるを得ないのはお前たちが愚かだからじゃないか!!」

「う……」


 青年の怒号の合間に響く、何かを叩きつけるような鈍い音、漂う血の匂い。

 イレアナは思わず口元を両手で覆った。

 そこでようやく上階から人狼たちが駆けつける。


「ロルフ、無事か?!」

「いいから早く手を貸せ! こいつ、馬鹿力だぞ!」

「だろうな。上で二人も殴り倒してくれやがった」


 青年と聖女は牢の奥にいて、イレアナのところからは詳しい様子が見えない。

 だがいくら力があっても、人狼数人がかりでは敵わなかったらしく、彼は間もなく人狼たちに拘束されると、聖女から引き離されてそのままイレアナの斜め向かいの牢に入れられた。

 聖女は牢の奥に横たわっている。その顔から体を覆うように、ロルフの上着がかかっていた。だらりと投げ出された白く細い腕は、ぴくりとも動かない。


「ロルフ、彼女は……?」

「脈がない」

「えっ」

「教会に連絡を入れてくる。鍵は持ってるな?」

「え、ええ」


 イレアナは牢の鍵を持たされている。万が一何かあったとき、自力で逃げ出すためだ。

 正面から侵入された時のことを考えて鍵は閉めているが、いつでも抜け出すことはできる。


「そいつは聖女なんかじゃない! 庶民を扇動した反逆者だ! 虐殺者だ!」


 鉄格子を激しく揺さぶり、青年が叫ぶ。

 その手が真っ赤で、イレアナは思わず目をそむけたくなった。

 だがそむけてはいけない何かがあるような気がして、彼に向き合う。

 大柄だから青年かと思ったが、よく見ればまだ少年と言っていいかもしれない。

 彼は今にも涙が零れ落ちそうなほど潤んだ瞳で、叫び続ける。

 すでに声は枯れかけていた。


「騙されるな! そいつは何かを企んでいるぞ! クソッ! クリステア家の当主に会うつもりが、どうして……」


 教会に連絡を入れに向かったロルフにかわって、イレアナの牢の前にはフェルディが立っている。

 イレアナとフェルディは、青年のつぶやきに顔を見合わせた。


「私に何か用ですか?」

「!」


 汚れた手で鉄格子を握ったまま、力なく跪いた姿があんまりにも哀れで、思わず声をかける。

 瞬間彼はハッとして顔を上げた。そうして食い入るようにイレアナを見つめる。


「貴方が、クリステア家の当主か? イレアナ・クリステア?」

「ええ、そうです。でもごめんなさい、記憶を無くしているの。だからあなたのことは覚えていなくて――」

「会ったことはない。だから覚えていなくてもいい。だからこれだけは知ってくれ。俺はカシマール。カシマール・クスミ。聖女の皮をかぶった魔女に滅ぼされた、クスミ家の生き残りだ。貴方に頼みがあって、大陸を越えてこの地にやってきた。どうか聞いてくれ!」


 濡れた瞳から涙が落ちる。イレアナは目を逸らすことができなかった。

 クスミ家と言えば、北の大国を治めていた吸血一族の名だ。だが彼らは先日民のクーデターにあって、処刑されたと新聞に載っていた。

 だが彼はたった一人生き残り、ここまで辛い旅をしてようやくたどり着いたのだろう。

 その意志の強さと折れない心を、イレアナは羨ましく思った。

 自分にも、そんな心があればよかったのに、と。


「俺に貴方の牙をくれ! 俺はまだ人間なんだ! 父は俺に跡を継がせる間もなく死んだ。あの魔女が俺たちの民を扇動して殺させたんだ。そのせいで北のツェペシュの系譜は滅んだ。だが俺はまだここにいる」

「北の元王族、クスミ家の生き残りがいるという噂は耳にしていたが、まさかこんなところで会うとはな」

「ハーヴェイ、お前、どうしてここに? 陛下から呼ばれたんじゃなかったのか?」


 地下牢はこんな作りになっているんだな、なんて呟きながら降りてきたハーヴェイに、フェルディが目を丸くしている。さすがの彼でも、こんなところまでやってくることはないのだろう。彼はちらりとイレアナに視線をやってから、改めて青年――カシマール・クスミを見た。


「その前に寄ったほうがいい気がしてな。当たりだったようだ」


 担架を持ってきた人狼たちが、静かな聖女を運び出していく。

 「何か進展があるだろうとは思っていたが、予想外の出来事ばかりだな」と漏らすハーヴェイも、今回ばかりはさすがに困り顔のようだった。

 庶民から絶大な人気を誇る聖女の死。その犯人は、亡命してきた北国の旧王族だというのだから、政治的にも頭が痛いのだろう。


「クスミ家はまだ滅んではいない! 牙さえあれば……!」


 牙――新たな吸血種を生み出すことのできるそれは、クリステア家の当主であるという証であり、後継者を選択する権利を持つということだ。それをよこせと言うことは、自分を後継者にしてくれと言うのと同義である。けれど彼が望むのはクスミ家の再興だ。

 悲運によって家族を失ったカシマールに同情はするが、彼に牙を譲ればクリステア家は永遠に牙を失い、新たな吸血種を生み出せなくなる。残念だが彼には、与えられない。


「牢を出ても、大丈夫ですか?」

「ああ、そうだな。フェルディ、イレアナのそばを離れるなよ」

「おう」


 鍵を開けて牢から出る。そうしてカシマールに近づいた。

 瞬間、彼は鉄格子の間から手を伸ばしたが、ほとんど同時にフェルディの手に押さえつけられる。

 痛いのか小さなうめき声が聞こえた。


「フェルディ、クスミ家の方に会ったことはありますか?」

「あるわけないだろ。顔も知らねえな。坊ちゃんは?」

「坊ちゃんと呼ぶな。北の大国は、どの国とも交流が薄いからな。王ならまだしも、その子息となると……」

「じゃあ、彼が本物かどうか判断できませんね……」

「俺は本物だ! アンタが牙をくれたらわかる! ツェペシュの系譜は同じ血筋にしか牙を分け与えられない! 頼む!」


 一同は顔を見合わせた。

 涙まで流して悲痛に訴えるカシマールの言葉が嘘だとは思えないし、イレアナ自身はできれば力になってやりたいと思うのだが、問題が多すぎる。

 まず第一に、牙は譲れない。これはクリステア家のものだから。


「カシマール、だったか? お前、牙は一人にしか相続できないって知ってるか?」

「知っているに決まっているだろう」

「ならアンタのために牙を失ったクリステア家は、今後どうしたらいいんだ?」

「……」


 もしかしたら、何か解決策を知っているのだろうと期待しながらイレアナは話を聞いていた。

 だがフェルディの言葉にカシマールが目をそらした様子から察するに、牙を二人に分け与えることなどできないのだろう。


「アンタの話が本当だったとして、家族が殺されたのも、まあ同情するよ。やっと帝都までやってきて、そんな汚れちまった姿なのも、大変だったんだなとは思う。だけどな、俺のためにクリステア家は没落してくれ、ってのはわがままなんじゃないのか?」

「第一、目的が不明瞭だ。牙を得て、何をしようとしていたんだ?」


 ハーヴェイの言葉にカシマールは「復讐を、そしてもう一度玉座に」と怨嗟に滲んだ声を漏らす。

 フェルディは大げさに両手を上げて「あー、あのな」と言葉を続けた。


「北の王族は民によって殺されてアンタだけが生き残った。で、民は今自分たちで自分たちのための運営を頑張って行こうってどうにかやってるところだ。そこに、アンタ一人で行って? 復讐だつって民をぶっ殺して? 予定通り自分が王になって? それでその後は全部うまくいくって? 本気か?」


 ギリ、と歯を食いしばったカシマールの顔が、恥辱に歪む。

 それもそうだろう。必死に考え、そのために生き延びてここまでやってきたのに、否定されただけでなく小馬鹿にまでされたのだから。

 でも――フェルディの言うことは正しい。それに、とイレアナは思う。

 例え吸血種がどれだけ強くとも、優れた身体的能力を持つとしても、無敵ではない。

 武器を持った多くの人間に囲まれれば死ぬ。当然のことだ。

 数世紀前ならいざ知らず、今は人間は、自分の大きさや重さが何十倍もある獣だって狩り殺してしまえるほどの力を持つのだから。


「せめて吸血種にしてくれってんなら話はわかったんだけどな。お前の考えてることは無謀が過ぎる。はっきり言って牙の与え損だ」

「人間ごときが何を言う!」

「その人間ごときにやられたくせに、何を言ってんだよ。第一俺は人狼だっつの」


 ガキってのは熱くなると視界が急に狭くなって、それ以外は見えなくなっちまうんだよな。破綻した理論でも、無謀でも、そんなん関係ねえって突っ走っちまうんだから。

 自身か、それとも身近な誰かが経験したようなそぶりでフェルディは言い、盛大なため息をついた。

 青白い顔を真っ赤にして怒るカシマールの瞳は、耐えきれぬ激情を湛えて再び濡れていた。

 牙もやれない自分が何と声をかけても意味はないかもしれないが――それでもイレアナは跪いてしまった彼に目線を合わせる。


「どうして私を訪ねようと思ったの?」

「姉上が、そうしなさいと」

「牙を得て、王になれと?」

「……親戚だから、力を貸してくれるだろうって」

「復讐しなさいと言ったわけではないのね?」

「……」

「ならきっと、あなたの姉上はあなたに生き延びて欲しかったのだと思います。帝都なら、大国の手は届きにくいし、貴族の一角であるクリステア家が匿っているのなら、うかつに手も出せないでしょう?」

「だったらなんで、姉上たちは一緒に逃げなかった!」


 カシマールには同情する。理解もできる。だが一方で、復讐など無駄だと思う冷めた自分もいる。

 しかし彼を逃がした姉の気持ちは、理解できる気がした。


「幸せになって欲しかったんじゃないかしら。王ではなく一人の人間として、平和な場所で」


 カシマールが目を見開き、イレアナを見つめる。

 その表情は迷子の子供のようだった。鉄格子がなければ抱きしめてあげられるのに、と思った刹那。


「!」


 物音がしてはっと顔を上げる。

 何事かと振り返ると、フェルディやハーヴェイの肩越しに、ベールが見えた。

 聖女が目を覚ましたのだろうか?

 だが彼女はカシマールにやられて「脈がない」うえに「見ない方がいい」ほどひどい状態になっていたはずで。


「――!」


 下がっていた聖女の頭が、ゆっくりと持ち上がる。だがそこにあったのは赤黒い何かだった。

 顔が、潰れている。そう気づいた瞬間ゾッとして、イレアナの全身が総毛立つ。二人の男性を間に挟んでいるにも関わらず、顔がないにも関わらず、ソレがイレアナだけを見つめているのがわかったのも、不気味で恐ろしくて。


「伏せろ!」


 今や不気味で恐ろしい何かに変じてしまった――そうとしか思えないほどに恐ろしく不気味な気配をまとった聖女が、すっと腕を上げる。

 同時に叫んだのは誰だったか。

 瞬きする間もなく「パン!」と乾いた音が響いた。

 そうして気づけばイレアナは地下牢の天井を見ていて。


「……う、」


 体に重いものが乗っていて、体に少し濡れたような違和感がある。

 重い何かを体をよじってどけつつ、イレアナは何とか上半身を起こした。

 瞬間、見えたのは聖女を取り押さえる大きな狼の後ろ姿。

 ハーヴェイはどこに?と視線を下げると――


「えっ」


 未だ自分に半分ほど重なった、コートの背中。

 何かに濡れる自分の手を見て、イレアナは息を呑んだ。

 赤い。

 赤くて温かい何か――いや、自分を庇ったハーヴェイの血で、手が濡れている!


「ロルフ! 誰か! 早く来て!」


 重なった体を動かし、ありったけの声で叫ぶ。

 ワンピースが汚れていて、淑女にはあるまじき格好をしている自覚はあるが、そんなことに構っている場合ではない。

 ハーヴェイの体を確認すると――彼は小さくうめき声をあげたが目を覚まして。

 

「大丈夫だ、おそらく急所は外した」


 フェルディの傍らに転がる黒い塊――小さな銃が、灯りに不気味な光を返す。

 一方のハーヴェイは痛みに苦悶の表情を浮かべつつも体を起こして壁に寄りかかった。

 片手で腹部を押さえている。出血が続いているようだ。


「聖女は、どうした?」

「……フェルディがおさえています」

「牢に入れてくれ。貴方には悪いが、上に行って人狼を呼んできてくれるか?」

「わかりました」

「ドレスを汚してすまない」

「大丈夫です」


 とっさながら狼の姿に転じ聖女をおさえ込んだフェルディは、ハーヴェイの指示に一度頷くと聖女の首根っこを咥えて手近な牢に放り込む。

 イレアナの背後には彼の制服が散らばっていた。上に人狼たちを呼びに行く間に、ヒトの姿に戻って着替えをするのだろう。

 それにしても、聖女は一体、どうしたというのか。

 今や牢に横たわるそれはピクリとも動かないけれど、先ほどは確かに動いていて、明確な意思を持って銃を持ち上げてた。


「……」


 ぶるりと震え慄きながらもイレアナは頷き、立ち上がった。

 ロルフは教会に連絡を入れに行くと言っていたからいなくても仕方がない。でも上にはほかの人狼たちがいるはずだ。聖女が放った銃の音を、鋭敏な彼らの耳が拾わないはずがない。

 だがあたりは静まり返っている。

 こちらに駆け寄ってくる靴音どころか、話し声さえ聞こえない。


「……」


 悪い予感に震えそうになりながらも、イレアナは懸命に足を動かし上階へ向かった。

 見えたのは白い霧だ。辺りをうっすらと取り囲むそれはむっとした潮の臭いを含んでいて、咽そうなほどだ。

 口元をおさえつつ進んでいくと霧の中、うっすらと倒れている人影を認めて、思わず駆け出す。


「誰か、いませんか?」


 うっすらとしているように見えて、霧は存外濃く広がっている。

 万一にでも迷わぬよう壁に手をついて――そこでイレアナは違和感を覚えた。

 手のひらが、焼けるように痛む。


「え?」


 そういえばハーヴェイの血が付いたままだったと思い出し、慌てて離した手を見やる。

 そこは痛みの通り、焼けただれていた。まるで強烈な酸でも浴びせられたように。

 霧はやはり何かの薬品で、壁についていたそれに反応しているだけかもしれない。

 イレアナは努めて冷静にそう考えた。

 だが痛みは急速に広がっていく。

 ハーヴェイの血が付着した個所から、瞬く間に。


「あ、あっ……」


 スカートから滲んだ彼の血に、肌が焼ける。溶かされていく。

 がくりと座り込んで、しかしイレアナはどうにか前に進もうとした。

 自分が誰かを呼ばなければ、ハーヴェイは怪我をしているのに――だが焼け付く痛みは全身に広がり、とうとう力さえ入らなくなる。

 イレアナは震える手を伸ばして助けを求めた。

 誰か、誰か助けて、と。

 瞬間、白い霧がぐるぐると渦を巻く。室内ではあり得ないつむじ風を起こしたその場所からやがて光が失われた。

 空間にぽっかりと空いた黒い穴のような大きな闇の塊は、瞬く間に人の形になって――


「チッ、まったく、どいつもこいつも、想定外のことをしてくれる」

「貴方は、誰……?」

「意識はまだイレアナのようだな。クソ、失敗した。まったく」


 それは髪も服も何もかもが黒い、影のような男だった。

 うっすらと赤い瞳が、やけに爛々と輝いている。

 男はイレアナの前にしゃがんで無遠慮に顔を覗き込むと、苛立ちもあらわな舌打ちをした。


「聖女は取り逃がし、お前は竜の血に侵された。面倒なことになったぞ、これは」

「竜の、血?」

「焼け付くように痛むだろう。後天的に変異したとはいえ、己が特性を奪われる恐怖と痛みは想像を絶するはずだが……。そうか、お前には記憶がないんだったな」


 自分の痛みなど、どうでもいい。今はとにかく、ハーヴェイの怪我が気にかかる。聖女のことだって不可解だし、こんなところでのんびり話をしている場合ではないのだ。


「助けて、下に怪我人がいるんです。人を呼んでください!」

「コイツの記憶にある通りのお人よしだな。自分より他人の心配か。ほとんど炭化した体からそこまで回復するほどの能力を持つ己の手が、何故こんなにも焼けただれて痛むか、疑問に思わないのか?」

「私なら、大丈夫、今は痛くても治ります。でもハーヴェイはヒトだから……!」

「いや、お前は治らぬぞ。それは竜の血だからな。人狼は『彼女』にすべて眠らせられた。あいつは本気でこの街を滅ぼすつもりだぞ」

「彼女とは、聖女のことですか? 滅ぼすって、一体――」


 わけがわからない。けれど、突然現れて名乗りもしないこの男の言うことを、どうして信じられるだろうか。

 少なくとも自分は吸血種だ。回復能力に優れ、不老長寿、ほとんど不死の力を持つという。竜の血がなんだか知らないが、このくらいは大丈夫なはずだ。

 少なくとも自分は、この牙を継承するまでは死ねないのだから。


「聖女の器を失ってもお前たち魔族が生きている限り『彼女』は現れるぞ。いや、お前という明確な目標を見つけたのだ。少なくともお前たちを滅ぼすまでは止まらんだろうな」

「人を、呼んでください。怪我人が、いるんです」

「博愛が過ぎると面倒を抱え込むぞ? まあ、余も他人のことは言えんが」

「人を、呼んで……」

「ならば、契約せよ。余の手足となりその身に『彼女』を取り込んで封印に応じよ。そうすればお前は生き延びられる。ああもちろん、すぐに人も呼んでやろうぞ」


 体中が焼けるように痛む。痛くて苦しくて息ができなくて、視界が霞んでいく。

 自分の怪我などどうだっていい。ただとにかく今は人を呼んでほしかった。

 返事をするべく、渾身の力で伏せる体を起こそうとする。全身がひどく痛んで、みっともない声を上げてしまいそうだった。それを堪え、歯を食いしばると――


「イレアナ! ああ、なぜこんなことに……!」


 男がすっと手を差し伸べ、そのままイレアナを抱き上げる。

 優しく腕に抱えるようにした男の顔は、先ほどまでの傲慢なそれから、悲哀にあふれるものへと変貌していた。


「竜の血を受けるなど、なんということだ……。でも大丈夫だ、保管してあるお前の血を使えば、今ならまだ回復させられる。 アイツの言うことなんて聞く必要はない。 利用されるな。 アイツが必要なのはお前じゃない。アイツがお前を、必要としているんだ! 今すぐ人を呼んで……ッ!」


 突然豹変した男の態度に戸惑う。契約を持ち掛けたのは貴方ではないのか、と。

 わからない。今日はわからないことが多すぎる。


「くッ……! ヤツめ、ここにきて目を覚ましおって……! だがな、イレアナ・クリステア、お前自身の血で竜の血を払えなかった場合、必ず余の力が必要になる。そして契約なしには余の血を分け与えることはできぬと昔から決まっている。お前が死ねば帝都は滅び、余は『彼女』を逃すかもしれぬが、また次の機会を待てばよいだけの話だ。さぁ、どうする。ツェペシュがそうしたようにお前が是と言えば、契約が成立しお前は余の力を受け取れる。答えよ」


 男の表情や口調がまた一変する。だがそのことよりも、話す内容にイレアナは呆れた。

 契約を結ばなければ自分が死ぬどころか帝都が滅びるという。これではまるで脅しだ。

 教会の人々は吸血種のことを吸血「鬼」と呼ぶらしいが、ならば目の前の彼は悪魔というやつではないだろうか。思っていると男がくつくつと喉を鳴らして。


「魔王、と呼ばれたことはあるがな」

「……誓います」


 彼の正体はわからない。けれどそんなこと、イレアナにはどうでもよかった。

 自分の命さえ、イレアナはそこまで大切に思ってはいない。思えない。自分が生きるのは次の代に牙を譲り渡すため。でも、自分以外の人々は違う。

 故郷を救いたい人狼、女王のため働く青年、主のいない館を守り続けてくれる血族――それ以外にもこの都には様々な人々が住んでいるだろう。彼らなりの幸せがあり、目標があり、希望を抱いて生きているはずだ。

 自分が頷くだけで、それが守れるのなら。


「誓うから、人を、呼んでください」

「聞き入れた。だがまずはお前だ」


 ぷつり、と腕に細い針を刺される感覚。見れば男はイレアナの腕に注射器を刺していた。注射器の中に満たされていた赤い液体が、あっというまにイレアナの中に入っていく。

 ぼんやり見ていると男は「お前には血が足らんのだ」と答えて。


「花の精気など間食にもならぬ。そんな状態では回復も遅かろう。記憶が失われたままなのは、お前がまだ回復途中であるからだ」

「血は、いや」

「好き嫌いをするでないわ。子供でもあるまいし。強引に吸血種化させられ血を啜らされる男もいるというのに……ああ、さすがに不憫だから言っておくがな、ここのところの殺人事件とやらの犯人はクスミの坊主だが、裏で手を引いておるのは薄汚い王弟よ。まあその辺のところは『この男』に聞くがいい。ともかく今お前に与えたのは、お前の血だ。当主の血を代々保存するのだと、お前以外のやつらは知らなかったようだがな。『この男』でさえ、だぞ? お前、わざと隠しておったな?」


 弱りかけた心臓が、とくりとくりと再び脈打ち始める。

 温かい血が体を巡り、頬が少し火照った。

 だが今度は急激な眠気に襲われて――抗えずイレアナは目を閉じる。


「眠れ。だが此度の眠りは、逃げるための眠りではないぞ。目覚めたらお前は戦わねばならぬのだ。しかし、安心するがいい。お前には余がついておる。僕も、クリステア家も人狼も、皆がお前の仲間だ。今度は僕も逃げない。共に戦うから。イレアナ、やっと会えた。僕のクローバー」


 男は跪き、眠るイレアナの片手を恭しく掲げると、忠誠を誓う騎士のようにその手の甲へと口づけを落とす。

 廊下の霧はいつの間にか消えていた。

 起きだした人狼たちの気配がして――


「兄貴! イレアナ!」


 起き抜け、叫びながら部屋を飛び出したロルフが見たのは、廊下で倒れる血まみれのイレアナだった。

 顔面蒼白になりながら駆け寄って安否を確かめるが、その体には傷一つなく、呼吸も穏やかで安堵する。

 誰か他人の血を浴びたらしい。と言うことは地下で何かが起こっているのだ。

 ロルフは早急にイレアナを近くの部屋のソファに横たえると、ヒトの体の足の遅さに苛立ちながらも地下へ向かった。

 が、下り階段を覗き込んだ瞬間、ハーヴェイを担いだ兄と遭遇して。


「兄貴、聖女が起きだして――」

「ああ、イレアナを殺そうとしたらしいが、ハーヴェイが庇った。随分来るのが遅かったが、何かあったのか?」

「霧があたりを包んで、皆意識を失っていた。でも兄貴、聖女は確かに――」


 原型をとどめぬほどに顔を殴りつけられ、首まで絞められていた。人間にしてはよほど強い力だったらしく、聖女の首にははっきりと手指の跡が残っていたのだ。

 だが本題はそこではない。

 上階に運び出して寝かせ、教会にどう連絡すべきかと頭を悩ませていた時、彼女はおもむろに立ち上がって歩き出した。途端あたりを白い霧が覆って――そこから先の記憶はないが、ともかく、ロルフが地下から運んだ時点で、すでに彼女は死んでいたのだ。

 脈はなかった。仲間が瞳孔の開きや生理的な反応まで確認した。

 心臓発作などではなく、殴りつけられ首を絞められたことによる死だ。仮死状態になっていたとは考えにくい。

 しかも聖女は――聖女の姿をした死体は、ふらつくこともなくまっすぐ地下へ向かって歩いて行ったのだ。意志も目的も、はっきりしていると言わんばかりに。


「本当に、死んでたんだ。死んでたはずだ、絶対に生きてない。生きてないのに……」

 

 背筋がゾッとして、体が震えてくる。吐き気までしてきて、ロルフは思わず口をおさえた。


「ともかくハーヴェイの手当てが先だ。このお坊ちゃんにキズでも残ったら、何言われるかわかんねえぞ」


 フェルディはそう言って、いつものように振舞う。

 だが彼の胸元には、赤黒い汚れが染みついていて――


「ロルフ、お前は間違っちゃいねえ。あれは確かに死んでた。でも、今じゃない」

「え?」

「あんなに臭い血は初めてだ。肉も、腐ってた」

「それは、どういう……」

「わかるかよ! そんなことより働くぞ! 今日は終わるまで寝られないからな! 覚悟しておけ!」


 檄を飛ばす兄の、ある種の図太さがこういう時は助かる。

 ロルフは深呼吸をした。

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霧のセレネイド DONZU @donzu

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