第10話 進展

 謎の停電に不可解な現象はあれど、ロルフが護衛として加わった初めての夜は穏やかに過ぎていった。

 警ら隊で処理している事件の進行を確かめるべくフェルディは出かけていき、ロルフはイレアナの隣の部屋で眠る。

 しっかりとした作りの館は、隣の部屋の物音どころか気配さえも感じさせはしないけれど、隣に誰かいるという事実があるだけで、寂しさはまぎれた。

 けれど人狼の優れた感覚では、イレアナの気配や動きが知れてしまうようで――ハーヴェイやロルフが眠っているうちに、彼らの朝食を用意しよう。そう思ってイレアナは早起きをしたのだが、支度を整えて部屋を出ると、部屋の前にはロルフが立っていた。

 曰く、護衛なのだからそばにいないとだめだろう、とのことで、まったくその通りなのだけれど。


 朝食の支度を手伝うというロルフに座っているよう言って、イレアナは湯を沸かし、パンを切り、貯蔵室の食材を確認する。傷んでいるものはなさそうだし、いつの間にか、新鮮な花が加えられている。昨晩のうちに誰かが用意してくれたのだろう。

 サンドイッチとサラダをこしらえて盛り付けていると、ハーヴェイがやってくる。キッチンを覗き込む彼に「座ってろ」と冷たく言う様は、警戒心の強い犬のようだ。実際は狼なのだけれど。

 ハーヴェイは慣れているのか軽くあしらいつつポットとカップ、茶葉を手に食堂へと戻り、暖炉で沸かした湯でお茶を淹れる。

 そんな様子を眺めつつ、イレアナは盛りつけたサンドイッチやサラダをトレイに載せ、食堂へと運んだ。その後ろを、花束を持ったロルフがついてきて、イレアナの隣の席に腰を下ろす。


「悪いな」

「このくらいは、させてください」

「この花はどこから持ってきた」

「フェルディに頼んでおいたものだ。今朝とれたばかりで新鮮だぞ、間違いない」

「……兄貴が持ってきたなら、大丈夫そうだな」


 ハーヴェイが淹れてくれたお茶が配られると同時に、朝食が始まる。

 彼が淹れてくれたのは、さわやかなミントの香りがするお茶だった。目覚めにはいいかもしれない、なんてイレアナが思っていると。


「……」


 ロルフは手に取ったカップの水面を睨んで、険しい顔をしている。

 その鼻がひくひく動いているのを見て、イレアナははっとした。犬や狼は人間の何倍も嗅覚が鋭い。

 だからイレアナにとってはさわやかなミントの香りでも、彼にとってはきつく感じられるのでは、と。

 案の定。


「どうした? 俺の淹れた茶は飲めないか?」

「お前、わざとだろう……!」

「意趣返し、というやつだ」

「!」


 警戒されているロルフへのハーヴェイからのちょっとしたいたずら、ということなのだろうか。

 ロルフはグルルと唸って見せたが、ハーヴェイはどこ吹く風で新聞を広げる。それからロルフは持ち上げたままのカップを一息にあおって紅茶を飲み干し、その様子を見たハーヴェイは苦笑いを浮かべて。


「さすが野蛮な人狼だな。そのお茶は高いんだぞ」

「繊細な貴族のお坊ちゃんには耐えられないか? 気絶したら受け止めてやるから安心していい」


 ま、まあこれがハーヴェイなりの、そして人狼なりのコミュニケーションというものなのだろう。

 その証拠に、空気は険悪どころかくつろいだ雰囲気で、ハーヴェイはくつくつ笑ってさえいた。

 ロルフはどこか不機嫌そうにぶすっとしていたが、それでもイレアナが「次はロルフが淹れてくれたお茶を飲んでみたいわ」と発言すると、その表情をぱあっと明るくして。


「練習した。大丈夫だと思う。なんなら、昼にでも」

「ええ、じゃあお願いね」


 期待に目を輝かせる姿は純真な子供のようで可愛い。

 穏やかな朝食に、ロルフがいるとほんの少しの賑やかさが相まって、イレアナはとても楽しい気分だった。

 こんな風に楽しい日がずっと続けばいいのだが。


「……イレアナ、この屋敷を出てはいないな?」


 新聞に目を通していたハーヴェイの、硬い声。

 何か悪いことがあったのだと、その声色で察して、イレアナの気持ちは沈んだ。

 いつもそう、なのだ。

 大きな喜びなどなくていい。穏やかな日々、生活の中の小さな楽しみがあれば十分だから、どうかそれが続きますように、と願って、でもその願いはいつだって叶わない。


「出ていません」

「そうか、では人狼の誰かが話した、ということか?」

「何の話だ」


 テーブルの上、ハーヴェイが広げた新聞の見出しに、ロルフが目を見開く。


『下町、止まらぬ猟奇殺人――犯人は血を求めた吸血種か』

 問題は続きの本文だろう。そこには「吸血女王の再来」とある。行方をくらませていた彼女が、帝都で目撃された、と。


「まさか! 人狼の中でもイレアナのことを知っているのは俺と兄貴だけだ!」

「……ならクリステア家が情報を流した、ということになるな」

「あんたじゃあないのか?」

「私がこの情報を流すメリットは?」

「……」


 長年姿を消していた吸血女王が人知れず帝都に戻ったというタイミングで起こったとされる、下町の猟奇殺人事件。

 首を食いちぎられ血を失っているという被害者の様子と、吸血女王を結びつけるのは簡単なことだ。

 元々下町では「吸血鬼の仕業に違いない」と噂されていたと、記事には書かれている。

 吸血一族の主が失踪して間もないころ、秩序を捨て去って獣の如く本能のまま、下町の人間を襲っては血を奪う吸血鬼もいたらしい。権力もなければ後ろ盾もなく、警察もろくに取り合ってもらえない下町の人間はただただ餌食にならぬよう、怯えて暮らすしかなかった。

 だが今は人狼の警ら隊がある。

 まだ人々に完全に信用されていない彼らがこの事件を解決すれば、人狼は喜んで帝都に受け入れられ、また女王からも厚い信頼を得ることができるだろう。彼らの動向に今後は期待したい。

 そう書かれた内容に、イレアナは思わずロルフを見た。

 彼らは故郷の森、自分たちの住処を守るために帝都へやってきている。この事件を解決すれば、故郷を救うという目標が、大きく前進するに違いない。


「私たちの目的は、イレアナを目覚めさせた者が誰なのか、その目的はなんなのかを突き止めることだ。こんな新聞の噂に振り回されている場合ではない。少なくとも、下町の件の犯人がイレアナでないのは確かだ。彼女がここにいる間に事件が起こっているのだからな。アリバイは私が証明できる。こんなデタラメな記事はすぐに撤回するよう、新聞社に抗議しておこう」

「いいえ」


 精気を奪われ、枯れた花。それから顔を上げて、イレアナはハーヴェイを見た。

 自分には何もない。けれど体一つあれば、できることもある。


「私は、人狼の警ら隊のところへ行こうと思います。公式に彼らに監視してもらって、その間に事件が起きれば、私の仕業ではないことは証明できます」

「簡単に言うが、警ら隊の詰め所は下町にあるんだぞ? 到底淑女がいるべきところではない」

「私を目覚めさせた誰かの目的が、私を利用することなら――今頃その人物は、失った私を探しているとは思いませんか?」

「囮になるつもりか……!」

「少なくとも、殺されることはないと思います。殺してしまいたいのなら、眠っているうちにやればよかったんですから。でも誰かはそうではなく、私を目覚めさせることを選んだ。なら、目覚めた私に何かをさせるつもりだったはずです。私に殺しの罪を着せようとしているのなら、私が警ら隊に監視されることで、その作戦は失敗となります。私を連れに来るのなら、逆に相手が罠にはまることになるでしょう? ともかく、尻尾ぐらいはつかめると思うんです。こうすれば私のことも、殺人事件のことも、両方の話が進みます」


 過去のことも、記憶を失っていることも、自分の立場も関係ない。

 今ならこの身をただ預けるだけで、いくつものことが進展するかもしれないのだ。


「もし誰かの狙いが、貴方の命だったらどうする?」

「それこそ、私を仕留める最大のチャンスだと思って、姿を現すと思いませんか?」

「……」

「新聞の記事は、殺人事件と私を結びつけようとするだけでなく、私をおびき出そうともしているのかもしれません」

「だが、」

「そうだ、人狼と吸血種は天敵で、私を捕まえて人狼は大得意になっているとか、そういう記事を書いてもらうのはどうですか? そしたら人狼を買収して私に接触しようとしてくるかも!」

「人狼にそんなやつはいない。皆イレアナのことを、命の恩人だと思っている」

「ならロルフは私に協力してくれますね?」

「貴方のことは俺や人狼が守るし、問題ない」

「じゃあ、作戦決定ということで」


 「貴方という人は……」とため息をついたハーヴェイはしかし、呆れつつも笑っていた。

 イレアナも笑みを返す。

 何かをしなければと、抱く焦燥感。同時に沸きあがる、自分には何もできやしないという無力感。

 どうせやったところで失敗するに決まっているという虚無感さえあった。

 自身に覚えのないそれらはきっと、過去の自分が抱いてきた感情なのだろう。過去とは言え、同じ自分だ。似たような間違いを起こし、失敗するかもしれない。

 でも今は恐れよりも、やらなければという使命感とやる気に満ち溢れていて。


「反対しても押し切られそうな気がするな」

「それどころか、一人で人狼のところに乗り込んでいってしまうかもしれません」

「それは大変だ、何せ人狼と吸血種はかつて互いを滅ぼさんばかりに激しい戦いを繰り広げた過去があるらしいからな」

「ふふ、」

「待っていなさい。すぐに馬車を呼ぶ。きっと詰め所は退屈だぞ。フェルディがそこそこいい場所を用意してくれるとは思うが、警察署とは違って主に庶民を相手にする場所だからな。毛布とクッションと……匂い消し香も持って行ったほうがいいかもしれない」

「馬車を降りる時は、深刻そうな顔をした方がいいでしょうか? それとも、毅然とした女主らしい態度を?」

「……それは馬車の中で決めよう。ひとまずそうだな、フェルディに会ってくる。堂々とクッションや毛布を持ち込むのもどうかと思うしな。ついでに新聞社にゴシップを売るよう伝えてくるさ」

「反対されると思っていたんですけれど、案外と乗り気ですね」

「君を起こした奴の目的もわからず、下町の連続殺人鬼も捕まらない。だがもしかしたら、これを機に一網打尽にできるかもしれないだろう? それに、これが一番安全だ。君一人で勇んで出て行かれるよりはずっとね」

 

 ふっと笑って見せたハーヴェイの横顔に、誰かが重なる。

 温かい気持ちと同時に切ない痛みが湧き上がって――でもそれが誰なのか、イレアナは思い出せなかった。






 頭を内側からハンマーで叩きつけられるような激しい頭痛と、吐き気を催すほど濃い鉄錆の臭い。見えるのは暗い天井と、遠くから聞こえてくる声。

 帝都の目覚めはこれしか知らない。

 どうにか牢の隅まで移動して、光も当たらぬそこでえずく。

 ここにあるのなら、きっと泥水さえ口にしていただろう。とにかく口いっぱいに広がっている錆の味を消してしまいたい。だがここには泥水さえないので、とにかく唾液を出して唾を吐くか、或いは胃液を強引に戻して嘔吐するしかなかった。

 

 口元を拭った手からも錆の臭いがする。乾いた血の臭いだ。

 赤黒いそれがぱりぱりと剥がれ落ちていくと自分の白い肌が見えて、そこでようやく安堵する。

 顔も胸元も、全身血だらけのまま放置された獣のような状態であっても、まだ自分は「自分」なのだと、確認するだけで目の奥が熱くなって。

 

 どうしてこんなことになったのだろう、と切なくなると同時に、家族を殺した愚民どもや愚民そそのかした教会――聖女のせいだと憎しみが込み上げる。

 その激しい憎しみと怒りの炎のおかげで、心はまだ折れずにいられそうだ。いや、それどころか、目の当たりにしたかつての惨状を思い出すだけで、奮い立つことすらできる。

 拳を握りしめ、そっと鉄格子に近づいた。

 いつもは酩酊したように視界が揺れ、吐き気はひどく、そのうえ熱っぽくて、ただ牢の中で呻きながらしばらくのたうつしかできないのだが、今日は随分と調子がいい。

 昨晩あまり血を飲まなかったのか、或いは投与される血が体に馴染んできたのか――うっすらと考えながら、聞き耳を立てる。

 遠く、おそらくは一階上の研究室とやらから聞こえてくる、白衣の男とその雇い主の会話だろう。


「吸血一族の当主をついに見つけたとか。さすがは我らの海なる聖母に選ばれし乙女、これで帝都に巣食う魔族どもを根絶やしにできましょう」

「ああ、だがまずは研究の成果だ。どうだ?」

「今のところ、めぼしい成果は……。魔族の力をかき消す竜の力、本当なのかどうか今一度資料を精査すべきでは?」

「地の魔族はすべて竜の眷属であると聞く。魔族の中で最も繁栄しているのは吸血鬼どもだ。ツェペシュは土地の魔族すべてを支配したという言い伝えもある。そのうえ、代々血継の儀なるものを行うらしい。だから吸血鬼の血に秘密があるのでは、と思ったのだが……」

「閣下、お言葉ですがこの血の持ち主は三日月島の吸血鬼です。大王ツェペシュの血統でなければ、望む結果が得られないのでは?」

「だがあれの血はヒトと変わらなかったではないか」


 いつの間にか肉を抉られ、未だに疼く右腕を抑えて歯を食いしばる。

 獣の身に落としただけでは飽き足らず、名高い血統の己が血肉まで利用していたとは。

 怒りで体が燃えそうだ。だが今は、話を聞く以外どうすることもできない。


「吸血鬼となった大王ツェペシュの血が必要なのかもしれません」

「ならばちょうどいい。一族の当主を生け捕りにし、血を絞りつくしてくれよう。この血を提供してくれた某氏のようにな」

「であれば我々は待つだけでよさそうですね。もう彼に血を与える必要はなくなりましたが、現状その血がどう変化しているか、じっくり採取して確かめたいと思っていたところです」

「いや、あいつには最後にもうひと働きしてもらう。聖女よりも先にクリステアを捕えなければ、あいつ、その場で殺してしまうかもしれん」

「我らの聖女が? まさか」

「……まあいい。行くぞ」


 二人が近づいてくる。

 とっさに汚れた床に転がって、いつものようにうめき声を上げた。

 案の定男たちは「三日月島の血統は、ツェペシュの血統には馴染まないのかもしれません」などと言いながら、警戒した様子もなく牢の鍵を開ける。


「最後の仕事だ、これを終えればお前の望み、吸血鬼の牙が手に入るぞ」


 何が望み通りだ、殺すつもりのくせに、と内心男を詰る。

 もう一人はすでに腕の傍に回って、血を満たした注射器を用意しているようだ。

 いつもなら、なすすべもなく怒りに心を燃やしながらただ見ているしかない。

 だが今日は違う。


「お前が会いたがっている吸血一族の当主が、もうすぐ人狼どもの警ら詰め所に現れるはずだ。詰め所は下町にある。下町はお前の得意分野だろう? 何せ今までさんざん血を食らってきた場所なのだからな」

「……」

「吸血鬼どもの評判を落とすための仕掛けだったが、まさかクリステアの当主が釣れるとは思わなんだ。まさか目覚めていたとはな。それにしても聖女め、どうやって居場所を突きとめたのやら。まあ私としては、一石二鳥、というわけだが」


 王弟アルバートが立ち上がって背を向ける。

 牢を出るその瞬間、立ち上がってその背中を思い切り蹴り飛ばした。

 慌てて駆け寄ってきた白衣の男にも、拳をお見舞いしてやる。

 一族の中でも体格はいい方だった。力も強く――お前ほど我が国の王に相応しいものはいないわ、と微笑んだ姉の言葉が蘇る。まだそう時間も経っていないのに、顔がもう、思い出せない。

 早くお前が王になるのが見たいわね。あら、お父様に退位してほしいってわけじゃあないのよ?と茶目っ気たっぷりに言った二番目の姉は、自分と同じ髪の色をしていて特に仲が良かった。

 

 遠いあの日を思い出し、涙がこみ上げる。

 だがそれを拭い去って牢を駆けだした。

 目指すは下町。大王ツェペシュの血を引き牙を持つ、クリステア家の当主イレアナのもと。

 はっきりとした意識で降り立つ庶民街は、記憶よりもずっと明るく、賑やかだった。


「やだ、あの人、血かしら。ひどい汚れ……」

「目を合わせない方がいいよ、やめときな」

 

 遠巻きに見つめる人々の目を臆しもせず、堂々と道を行く。

 庶民による突然のクーデター、その最中「圧政と苦しみの象徴」として皆殺しにされたクスミ一族は、ツェペシュの代から土地を治めてきた正当な王の血統だ。

 故郷を異民族に奪われたツェペシュは帝都に渡りそこで「吸血種」の力を手に入れ、息子を置いて一人故郷へと戻った。

 そうして奪い返した祖国に凱旋、再び玉座に返り咲いた後は、同じように異民族に支配されようとする諸国を救い、それがやがて「北の大国」と呼ばれる大きな共和国となったのだ。

 その血と牙は帝都からやってきたツェペシュの孫を介して続き――それが今のクスミ家に繋がる。

 

 北の大国と言えども、その大半は寒冷地だ。もとより人々は部族ごとに小さな集落を作って慎ましく暮らしていた。

 言葉も文化も違う人々が寄り集まってしまったのだから、諍いはいくらでもあった。だがまず必要なのは諍いよりも食料を作ることであり、そしてそれがどんな人々にも等しく行き渡らなければ意味がない。

 様々な苦心の末、クスミ家はどの地域のどんな人間にも命じ従わせることのできる強権者として君臨することとなった。

 そうすればどんな諍いも一言でやめさせられる。クスミ家が「部族同士争いのないよう協力して暮らせ」と言えば、対立しあう部族でも命令通り協力し合わなければならない。

 従わない者には死かそれに近い罰を与えた。

 そうでなければ、厳しい土地では皆生きていくことができないから。

 

 なのに。

 庶民はそんなことを考えもしない。ただ王家は自分たちの富を搾取し、気に入らないことがあれば死をもたらす圧政者だと言い始めた。

 異民族に支配されず、先祖代々の土地で、受け継いだ言葉や文化もそのままに暮らせているのは誰のおかげなのか、食料の分配、土地の管理は誰が行っているのか――王家の言葉を聞き入れることもなく、考えることもしなかった。

 自分が生きる場所のこと以外を考えられるものは少ない。そう言ったのはクスミの主である大国の王を務めていた父だ。

 部屋で飼われる小鳥が外のことを知りもしないように、畑で暮らす庶民たちは王のことを知らぬ。だが我々は、庶民のことも小鳥のことも考えねばならんのだ、と。

 来年、18歳になって成人を迎え、正式に次期王位継承者として列される日を、心待ちにしていた。

 姉たちもその日のためにと、晴れ着や贈り物を用意してくれていた。ヒトのままであった母は何年か前の流行り病で命を落としていたが、四人の姉たちがあれこれと世話を焼いてくれたので寂しいと思ったことは一度もなかった。

 賢い父と優しい姉とツェペシュの末裔であること、王族の誇りをもっていつか自分も玉座と宝冠を戴き、この厳しい土地を支配していくのだろうと、そう思っていたのに。

 

 思いは王宮ごと、焼き払われた。愚かな庶民たちの手によって。

 父は落とされた首を人々の前に晒され、姉たちは一つの部屋に集められてそのまま銃殺されたと言う。

 知っているでしょう? 幼子を導くように手を引いて急ぎ足で王宮の奥に向かいながら、長姉がそう問いかけた。だが答える間もなく、彼女は言葉を続ける。

 ――帝国には私たちの親戚がいるの。クリステア家という一族よ。そこに行って、事情を話しなさい。きっと何か手を貸してくださるわ。

 父は真っ先に殺され、同時に継ぐべき牙も失った。国内の吸血種たちも、皆殺されているだろう。頼るべき場所はもう国外にしかない。

 この方よ、よく覚えておきなさい。

 そう言って見せた小さな肖像画には、座った淑女とその傍らに立つ幼い子供が描かれている。

 姉はそれがクリステア家の当主イレアナと、その後継者であるイオンだと教えた。どちらかに会って話をすればいいのだと。

 

 さあ、いきなさい。

 背を押され、振り返る。だが姉はすでに王宮へと戻る道を駆けだしていた。

 唯一の王子が見つからなければ、すぐに大国全土にふれが回るだろう。

 だから少しでも時間を稼ぐわ、と彼女は気丈に笑っていたが、顔色は青ざめていた。


「……」


 次姉たちも王宮を隠れ歩きながら帝国までの資金や仲間を確保してくれた。

 仲間は国を離れることを悔しがりながらも、絶対に戻って復讐すると、おそらく囚われの今でも燃えているだろう。

 同じ気持ちで雪積もる白い故郷を離れ――ここにいる。

 もうすぐクリステア家の当主にも会えそうだ。


「!」


 いざ歩み出そうとした刹那、潮の臭いが鼻先をかすめていく。

 ただの海の匂いではない。

 河口あたりの淀んだ水溜まり。潮水の中で海藻や生き物が腐っていくような、不気味で不快な潮の臭いだ。

 父は言っていた。海辺でもないのに、そういう臭いがした時は近くに敵がいる証だと。

 敵はどこに、と顔を上げた瞬間、背後から馬車の音が聞こえた。

 かなりの速さで駆けてきたそれは、あっという間に通り過ぎ、去っていく。

 だが窓辺に座る女の顔は、はっきりと見えた。

 忘れるはずがない、フードをかぶっていようが見間違えるはずもない。

 教会の名のもと、聖母の加護のもと、圧政者を打倒し庶民を救わんと立ち上がった、黄金の聖女。

 愚かな庶民どもを洗脳して王宮を焼かせ、一族を殺させた、憎き仇!

 

 脳裏にアルバートの言葉がよぎる。

 ――聖女よりも先にクリステアを捕えなければ

 ――その場で殺してしまうかもしれん

 

 クリステア家の当主は最後の希望だ。失うことはできない。

 これ以上自分の前に立ちふさがるのならば、教会など知るか! 八つ裂きにしてその首を晒し、体はカラスのエサにしてやる!

 若く壮健な体は酷使されてもなお力を残していた。怒りに燃えながら、下町を走る、走る。

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