第9話 夜霧
イレアナの向かいに腰掛け、彼女が自ら淹れてくれたお茶を飲みながら話をする。
たったこれだけのことに、どれほど焦がれていただろうか。
ロルフは思いながらも、記憶を失っているイレアナのため、自分が知っていることを話し続けた。
クリステア家から少し北、侯爵たちの住む高級住宅街から大通りを挟んだ向かいには、王族所有の狩場を市民のために作り替えた大きな公園がある。
今ではすっかり貴族たちの社交場、市民の憩いの場となりつつあるが、イレアナが幼い頃はまだ狩場の雰囲気を残していて、王女殿下だったころの女王陛下と気兼ねなく遊んだらしい。
それから、女王に即位した彼女の高い志のこと。彼女が心配する帝都の東側、下町と呼ばれる庶民の中でもいっそう貧しい人々が身を寄せ合って住まう場所のこと……。
「貴方に教わったのはこれだけじゃない。もっとたくさん、色々なことを教えてくれた」
ロルフが幼かったいつかの日も、イレアナはこうして静かに話を聞いてくれた。
子供だから、人狼だからとないがしろにせず、ドレスの裾が土について汚れるのもかまわずにしゃがんで目線を合わせてくれたのだ。
「何か、困ったことはない?」――会うたびそう言って気遣い、救いの手を差し伸べてくれたイレアナ。
今度は自分が彼女の助けになるのだ、とロルフは決意を新たにした。
「何か、困ったことはないか?」
フェルディの弟で、彼とともに人狼の森から帝都へ出てきた仲間――人狼による警ら隊の一員であるロルフ。熱心に自分を見つめる瞳に、イレアナは切なさを抱いた。
胸が痛いのは、なにもできない役立たずの自分に尽くそうとしてくれる彼に、負い目を感じるからだろうか。
「俺と貴方が出会った時のことを、話してもいいか?」
「ええ、もちろん」
ロルフは静かに語る。
じわじわと続いていた枯れの影響でとうとう群れで育てていた作物さえも取れず、周囲に獣の姿さえ見えなくなったある日のこと。
頼りの大人たちは疫病で倒れ、その時狩りに出られたのはフェルディと同じ年頃の数人のみ。まだ幼いロルフは村に残されたが、ひもじさをどうにかしたくて森を抜け、館のある町までやってきたのだと言う。
畑の作物でもいい、とにかくなんでもいいから食べられるものを、と物陰に潜みながら探していたところ、いい匂いのする馬車がやってきて跡をつけた。
運よくその馬車は館に山ほどの食料を運び込んでいたので、馬車がいなくなると同時に食糧庫に飛び込んだのだ。が、当然、そこには鍵がかかっていて。
どうにか壊そうとしたところに、イレアナが現れ、追い払うよりまず事情を聴いてくれたのだ、と。
「あの時貴方は食料だけじゃなく薬や医者まで手配してくれたし、貴方自身も一緒に手伝いや看病をしてくれた。そのうえ、屋敷に行く俺を嫌な顔せず迎えてくれて、お茶を飲んだり、お菓子をくれて……」
よほど大切な思い出なのだろう。語るごとに熱っぽさは増して、聞いているこちらが恥ずかしくなりそうだ。でもロルフが語る「イレアナ」は今のイレアナではない。
彼の気持ちに応えてやれない申し訳なさを抱きつつ、イレアナは小さなため息をついた。
「とにかく! 俺にとって貴方は恩人なんだ。何があっても、絶対に守ると決めた! 不自由もさせたくないし、嫌なやつがいたら始末してやるし……とにかく、困ったことがあったらすぐに言ってくれ。俺はあの時とは違ってでかくなったし、その辺の奴には負けない。兄貴以外なら」
ロルフはフェルディよりもさらに長身だが、そのせいか体形はすらりとして見える。
かっちりとした制服ごしにもその筋肉の分厚さがうかがえるフェルディとは違って、どこかほっそりとしたその体形を、ロルフは気にしているのかもしれない。
けれどイレアナからしてみたら十分に逞しい体つきだし、彼でも勝てないと言うフェルディが信頼して護衛に置くくらいなのだから、腕は確かなはずだ。
それなのにロルフは自信なさそうに――きっと彼が狼の姿であれば耳もしっぽもシュンとしょげたように垂れていただろう――視線を泳がせて。
「なんて、貴方の眠りを守れなかった分際で何を言ってるんだって思ってるだろ? でも、仕方がなかったんだ。王家には枯れをどうにかできる力があるって聞いて兄貴が帝都に行ったけど、国に忠誠を示せって言われて……」
「それで群れの皆で帝都にやってきたのね?」
「ああ。警察の数が足りないから、人狼ならその補助にうってつけだろうって話だった。働くことが忠誠を示すことになるって。実際そうやって働いてるけど、兄貴は……」
むっとした表情をして、ロルフは拳を握った。
いつもむっつりしててわかりにくいやつだけど、怒ってるわけじゃねえんだ。怖がらないでやってくれ。
フェルディはそう言ったけれど、イレアナの前では表情豊かだし、怖いとは思わない。イレアナは握りしめられた拳に、己の手をそっと重ねた。
「兄貴は将来俺たちのリーダーになる奴だ。だから一番に森を出て、帝都に向かった。なのに最近は、ハイランズ卿に構ってばっかりだ。帝都の群れのことは俺に任せるって、行き先も言わないでいなくなって……!」
ロルフはフェルディよりも肌の色が薄い。
おかげで熱が上がればすぐ頬が赤くなるのだけれど、その赤みがどんどん鮮やかさを増している。
イレアナは苦笑しながら重ねた手を撫でた。
ロルフの自分に対する情熱は口ぶりや視線で伝わってくる。
そうしてそれと同じぐらいの熱意でもって、彼は兄のことも大切に思っているのだ。
「フェルディが好きなのね。兄として、群れの一員として、とても尊敬している?」
「もちろん。あいつは適当なところもあるけど、いつだって俺の目標で……。でも貴方のことも、その」
「ん?」
「貴方のことも、同じくらい好き、です」
「まあ」
さすがに耐えきれなかったのか顔を伏せたロルフだが、髪の合間から見える耳が真っ赤になっている。
イレアナは驚き、しかしくすくすと笑った。
愛らしい、とはこのことを言うのだろう。ハーヴェイやフェルディは良くしてくれるけれど、面倒を見てもらっている立場でなんとなく打ち解けるというところまではいっていない。
でもロルフとなら気の置けない話ができるかもしれない、なんて思った瞬間――
「?!」
チカチカ、と照明が点滅する。
とっさにシャンデリアを見上げた瞬間、あたりが真っ暗になった。
「停電かしら?」
「……イレアナ、そこを動くな」
人狼の優れた目は新月の闇夜でも昼間と変わらぬようにあたりを見渡せるのだとか。
イレアナも暗闇に目を慣らそうと、瞬きを繰り返す。
やがて窓の傍に闇の塊を見つけて――
「誰?」
「え?」
窓辺に、誰かいる。
手を伸ばせば触れられる位置にいるロルフが、驚きの声を上げた。
窓の傍の闇の塊――濃い影は、家具や木の影ではないはずだ。
停電前、そこには何もなかったのだから。
「……イレアナ、俺の後ろに」
ロルフの背に庇われながら、イレアナは息を呑んだ。
今日は嵐でもなく、この館は使用人こそいないが放置されていると言うわけでもない。
停電は偶然ではないだろう。だとすれば、わざわざ停電させたうえで屋敷に忍び込んだと言うことになる。
ただ単に泥棒が入ったのならいい。けれどもし、イレアナのことを知る――イレアナを目覚めさせた誰かだとしたら。
「ここにいて、動かないでくれ」
小声でロルフが言う。イレアナは小さく頷いた。
ロルフは少しずつ少しずつ、窓辺へと足を進めていく。
彼の目でも、ほとんど闇とひとつになった影の正体は見えないらしい。
「……」
ロルフの体重を受けて、床がギ、ギ、と軋む。
静寂に緊張感が高まり、イレアナは組んだ両手に知れず力を込めながら息を殺してロルフの背を見守った。
ようやく闇に慣れたイレアナの目が、かすかに揺れるカーテンを捉える。
侵入者は、窓から入ってきたのだろうか?
そう思っていると――
「!」
急にあたりが明るくなって、思わず目をつぶる。
はっとして無理やり目をこじ開けロルフの背中を見たが、その向こうにあったのは何事もない部屋の片隅。それだけだった。
ロルフはそれでも慎重に前後左右、天井から床までを確認し、カーテンを引く。
窓は閉まっていた。一応開けて外を確認するが、やはり何もなかったらしい。
「気のせい……?」
確かに暗闇の中さらに濃い影がそこにあったし、カーテンも揺れていた。
だがいくら暗いとはいえ、窓を音もたてず、それも開けるだけでなく丁寧に閉めていなくなる侵入者なんているだろうか。
「そう、みたい」
ロルフの呟きに言葉を返して、イレアナはほっと息をついた。
少なくとも今ここに侵入者はいないし、停電は設備の摩耗か何かだろう。
後でフェルディに伝えておこうと決めつつ、イレアナは照明を見上げた。
「この部屋だけだったかしら?」
「わからない。兄貴のところに行ってみよう」
言いながらロルフは手を差し出す。
女性をエスコートするそんな仕草や心持も、かつての自分が教えたのだろうか、なんてふと思ってイレアナは知れず気持ちを沈ませた。
だがそんなイレアナの手を取ってロルフは笑う。明るいフェルディのそれとは違って、ほんのわずか、口の端を上げただけだったけれど。
「大きくなって、貴方の背を越したら。こうして貴方をエスコートしたいと思ってたんだ」
フェルディの部屋は一階だ。
階段を降りて角を曲がったところで、ランプを手にした彼と出会う。
停電はどうやら館全体に及んでいたらしい。
「大丈夫だったか? あ、いや、お前がいるんだからそんな心配は必要ないか」
イレアナを守るように立つロルフに、フェルディが苦笑を浮かべる。
イレアナからロルフの表情は見えないが「当たり前だろ」と言わんばかりに胸を張った気がして、それが少しおかしい。
イレアナがくすくすと笑うと、ロルフが振り返って。
「そうだ、貴方はそうやって笑っていていい。俺が守るから、安心してくれ」
「……頼もしい発言だが、私のことを忘れてはいないか? お前たち」
「別に? これから様子を見に行こうとしてたんだぜ、お坊ちゃん」
「その言い方はやめろ」
部屋には非常用のランプが置いてあるのだろうか。
現れたハーヴェイもまた、ランプを携えていた。フェルディのもの同様火は入っていないが、万が一また停電になった時のためにと持っているのだろう。
「イレアナは……大丈夫そうだな」
ハーヴェイが一歩イレアナに歩み寄る。が、とっさにロルフが動いた。
覗き見たその表情は、まるで主を守ろうと牙を剥いて唸っている番犬そのものだ。
イレアナはロルフの背を撫で「大丈夫よ、ありがとう」と伝えて。
「原因はなにかしら?」
「館全体が停電したなら、主電源のほうかもしれないな」
「なら俺が確かめてくる。お前たちは食堂にいてくれ」
「暖炉に火を入れないとな。少し寒いかもしれないから、部屋に戻って上着を取ってきたほうがいい」
「わかったわ。行きましょう、ロルフ」
帝都の夜は冷える。
館はしっかりとした作りだからすきま風とは無縁だが、食堂は広いから暖まるまでしばらく時間がかかるだろう。
ロルフとともに階段を登り、自室のドアを開けて――イレアナは息をのんだ。
部屋が暗い。
真っ暗なのだ。
「ロルフ、私電気を消したかしら……えっ?」
明かりはつけたままできたはずだ。でも、自分の思い違いかもしれない。
確かめるべく自分の後ろにいるであろうロルフに振り返って、イレアナは体を強張らせた。
ドアがない。
いや、あるにはあるのだろう。
けれど、見えないのだ。黒いインクで塗りつぶされたように、イレアナの背後は真っ暗、いやそれよりも暗い漆黒になっていて。
「……!」
戸惑う視界の端で、何かが動いた。
一度目の停電の時確認したカーテンが、ほんの少し開いたままになっていたらしい。
そこから差し込む月の光が、室内にわずかな明かりをもたらしている。
目が慣れれば、動いたものの正体がわかりそうだ。
そうしてじっと耐えたイレアナの瞳に、人影が映る。
「!」
それは、はじめ、黒い霧に覆われているように見えた。
暗い部屋の中でいっそう暗く、しかし目が合ったと本能的にイレアナが感じた瞬間、かかっていた霧が晴れるようにその姿が露になっていく。
それは、確かに人影だった。
月明かりに照らされて青白い肌以外は、纏った服も髪も、何もかもが黒い。
「貴方は、誰? 私を起こしたのは貴方?」
背はイレアナよりも少し高いぐらい、だろうか。ロルフ達人狼やハーヴェイは背が高いせいか少し小柄に見える。
体つきは、男性のそれに見える。だが青白い肌に精気のない表情をしていて、年老いているのか若いのかが判断できない。
「もしかして貴方、クリステア家の方なの? 吸血種?」
「……ろ、」
「え?」
「逃ゲろ、」
それが、目を見開いて訴える。
何かひどい苦痛に耐えるような顔をして、なんとか絞り出しているような声で。
「利用サれる、逃げロ、」
「そんな誰に……ッ!?」
思わず一歩近づき、問いかけようとした刹那、締め切ったはずの室内に突風が起こる。
立っていられないほどのそれに、イレアナはしりもちをつき――顔を上げると、そこにあったのは明かりのついた自分の部屋だった。
「イレアナ? どうかしたのか?」
背後のドアは閉まっている。
そこから聞こえるロルフの声に戸惑いながら立ち上がると、イレアナは今一度あたりを眺めた。
突風が吹いたにも関わらず、室内に乱れはひとつもない。
あの人影がいた痕跡も、それが入り込めそうな余地も、なにもない。
「夢を、見ていたのかしら……」
そんなはずはない。あれは確かに現実だった。
イレアナは『知って』いた。
黒い霧をどこかで見たことがある。ああだけれど、記憶は失われたまま、戻る気配すらなくて。
「……」
上着を手に部屋を出る。
顔色が悪い、と言うロルフに「夜更かしをしちゃったからかしら」なんて言葉を返して、イレアナは考えた。
名乗りもしない、正体もわからないあの人影の言うことなど気にしなければいいのだけれど。
まるで自分が業火に焼かれているかのように、苦しそうな様子だった。
そこまでしてわざわざ自分に伝えたかった言葉が「利用される、逃げろ」だとしたら――ああ、でもわからない。イレアナは内心に困惑を隠したまま、食堂へと向かい。
「フェルディはまだ戻っていない。点検に時間がかかってるんだろうな」
「そう」
「寒くはないか?」
「お坊ちゃんでも、暖炉に火を入れられるんだな」
「お前、兄とは違って礼儀をわきまえていると思っていたが、言ってくれるじゃないか」
「……イレアナが寒くないのなら、俺はどうでもいい」
「おっ? もうあったまってるな? いやぁ、電源室は寒かったぜ。故障の原因はそれじゃないのか? 一応調べけど、あの寒さと暗さと埃っぽさ以外に原因らしいものは見つからなかった」
暖かな食堂、賑やかな会話。自分を気遣ってくれる彼ら。
その中にまさか、自分を利用しようとしている人がいるなんて思いたくない。
間違いに決まっている。
「お茶を淹れるわね。ショウガとブランデー、どっちが温まるかしら?」
「ロルフのはショウガにしてやってくれ。こいつ、酒に弱いんだ」
「兄貴!」
「仕方ねえじゃねえか。体質なんだから。恥ずかしいことじゃねえよ」
相変わらず豪快に笑うフェルディと、恥じらう様子のロルフ。
ハーヴェイは「湯を沸かすなら、わざわざ寒い台所に行くよりもここにケトルを持ってきたほうがいい」と暖炉の上を示してくれた。
やっぱり、何かの間違いだろう。
イレアナは小さく息をつく。
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