第8話 聖女
アイロンがけを施され皺ひとつなく伸ばされた新聞の見出し『下町連続殺人事件、犯人は吸血種か』にちらりと目をやって、イオンは小さく息をつく。
テーブルに並んだ朝食――表面に薄く砂糖をかけてパリっと仕上げた小ぶりのクロワッサンは好物のひとつだが、今日はどうしても手が伸びない。
いくつかの果物とジャム入りのヨーグルト、紅茶だけを口にして執務室に向かい、重厚な机を前に腰を下ろすと、イオンはいよいよ深く長いため息をついて頭を抱えた。
クリステア家の所領や収入に関する記録、管理する吸血種たちの帳簿など、様々な資料や書類が積み上がる机の端には、金の額縁に入った小さな写真がひとつ飾られている。
微笑みをむける淑女と、彼女の半分ほどの背丈もない小さな子供。
かつてのイレアナと自分を見、イオンはもう一度溜息をついた。
イオンはイレアナの兄の子で、イレアナ自身が選んだ後継者でもある。それ故物心ついたときからイオンはずっとイレアナのそばにいて、クリステア家のすべてを幼いながらに眺めてきた。
突然当主となった彼女を冷遇し嘲る先代の重鎮たち。それに増長して秩序を忘れた若い一族。病んでいくイレアナの姿。彼女が消えたあの日の事――
「……」
クリステア家ではイレアナを深く落ち込ませ、逃げ出させてしまうようなことが重なり、逃げ隠れた田舎では恐ろしいことがあった。イレアナは心も体も傷ついて深い眠りにつき、おそらくは代替わりの日が来るまで目覚めることもないだろう、ならそれまで彼女が愛した地で静かに過ごしていればいい。
というのが当主代理を務めるイオン――ひいてはクリステア家としての見解だが、未来の当主、或いは現当主代理として、イレアナが目覚めて家に戻ってきたとき、かつてのように苦しむことなく過ごせる快適な場所であるようにとイオンはとにかく、様々なことを行ってきた。
イレアナを嘲り従おうとしない重鎮たちには制裁を。その脅威を以て若く無秩序な一族はイオンを――或いはイオンが使う「影」の存在を恐れ、自然とクリステア家に恭順するようになった。
屋敷の中だって様々な改装を施した。気まぐれにお菓子を作ったりすることのあったイレアナが使いやすいように厨房を作り替え、荒れ果てていた温室は庭師を雇いなおして整えさせ、いつでも血の代わりに新鮮な花を手に入れられるようにした。
帝都には居たくないと言うことも想定して、帝都外の本領にある屋敷も居心地がいいように家具などの入れ替えを行っているところだが、それもほとんど終わっており――ともかくクリステア家は、少なくともイオンは、いつでもイレアナを迎え入れられる状態なのだが。
「罠やもしれぬ。人狼の仕業ではなくとも、あれらにはハイランズがついている。あの家は女王の犬だ」
影はそう言って、イレアナに会いに行くべきではないと言う。
イレアナが目覚めてさえいない可能性、イオンやクリステア家に関連する誰か、或いは何かをおびき出す罠ではないかと疑っているのだ。
だがイオンが死んだとて、跡継ぎがいなくなるわけではない。イオンの兄はすでに結婚していてもうすぐ二人目の子が生まれる――そしてその子はイオンの後継になる予定だからイオンの生死など大した問題ではないのだ。
正直に言えば、会いたい。ずっと焦がれた人なのだ。幼かったとはいえそばにいて助けられなかった自分がその眠りを邪魔するべきではないとずっと我慢していたけれど、本当は会ってそばにいて、名前を呼んで、撫でてほしい。
「我慢しろ。今はその時ではない」
イレアナが目覚めたと聞いたからか、ここのところ影の口調はひどく重苦しい。声色から情めいたものが一切消え失せ、氷のようになったと思う。
影は主なきクリステア家の守り人だ。気を張るのもわかる。だがイレアナが目覚めたのが本当だとして、いったい誰が目覚めさせたのだろう。
クリステア家ではない。これは絶対だ。影も、イオンも、家令のタリーも、イレアナに会いたいとずっとずっと思っているが、過去の行いを反省して、イレアナの幸福、彼女の意志を尊重すると決めている。
では人狼か? おそらくそれも違うと思う。理由がない。
となると残る可能性は――イオンは静かに立ち上がって机の上のベルに手を伸ばした。が、わずかな逡巡の後に手を引いてそっと執務室を出る。
今頃タリーは自室で家令としての仕事をしているはずだ。影は夕方に目覚める生活をしているので、午前中のこの時間はぐっすり眠っているだろう。
イオンは足早に玄関ホールまで降りると、コートを羽織って屋敷を出た。そうして裏手の馬小屋まで向かい、馬丁に声をかけて早急に馬車の用意をするよう言いつける。
玄関前で待っていると、御者は慌てた様子で馬車を動かしてきて。
「お急ぎですか? どちらまで」
「パレデテの小教会まで」
「かしこまりました」
一人で馬車に乗り込み、間もなく出発した車内でそっと息をつく。
パレデテ――茶館という意味を持つそこは小教会という名の通り、小さくこじんまりとしている。
女王の宮殿を通り過ぎてさらに北、地位のある貴族たちが住まう区画の中にあって、身分関係なく誰でも気軽にお茶を飲みに来れるようにと名付けられ、開放されているその教会の持ち主は、かつても今も敬虔な教会信徒として名が高い。
教会信徒として、或いは庶民に手を差し伸べる高潔な貴族として、また或いは小教会と同じ敷地に併設された庶民のための学校を経営する教育者として慕われる彼はしかし、かつて大きな過ちを犯したことでも有名だ。
魔族――教会は忌々しさを込めて特に吸血種や人狼をこう呼ぶ――との恋、そして駆け落ち。
心身ともに傷つき疲れ果てたイレアナと共に田舎に姿を消した彼――アダム・ハティアリはそれから数年後、たった一人で帝都に戻ってきた。
愚かな恋から目が覚めたのだと言う者もいれば、吸血種と人間の共同生活がうまくいかなかったのだろうと言う者もいる。真相はイオンにもわからない。
だが彼は再三勧められても決して結婚することなく、恋人がいるという噂が立つこともなく、ただ庶民たちの救済に力を注いでいる。
おそらくそれは、イレアナが人狼を救うのを目の当たりにしたからではないか、とタリーは言うのだが。
「到着いたしました」
「……すぐに戻る。あの角のあたりで待っていてくれ。くれぐれも、やってきた庶民たちの邪魔にならないようにな」
「かしこまりました」
馬車を降りるとむっと湿った空気がまとわりつく。
もうずいぶん日が高い時間だと言うのに、あたりは薄い霧に覆われていた。かすかに潮のにおいもする。帝都を流れる大きな川、そのそばにあるクリステア家の邸宅とは違って、高級住宅街と呼ばれるこの辺りは川はもちろん、海からもずっと遠いはずなのに。
――潮の匂いがしたら、気を付けなければならない。我々は海に嫌われているから。
いつかそう教えてくれたのは影だ。イオンは警戒しつつ一度咳をして、霧に霞む小教会とそこから続く屋敷を見上げた。門は開いている。いつだってそうだ。ここは誰にでも常に開かれていて、夜にだって門扉を閉めない。
知っていながら一度も足を運ばなかったのは、イオン自身、アダムとイレアナのことをどう扱っていいか測りかねていたからだろう。
なかったこととして何も知らないふりをしていればいい。けれどその一方で、自分が知らないイレアナのことを聞きたいとも思う。
だが何故彼女を見捨てたのだと問い詰めてしまいそうな気もして。
「……やはり、来るべきではなかったかな」
まだ若いアダムと、疲れ果てたイレアナの間に何があったのかは知らない。だが彼がイレアナを深く愛していたことは知っている。
『彼女が君や従僕のことをひどく心配していたので、筆を執った。イレアナは無事で生活している。もしよければ彼女のために、君たちの状況を知らせてほしい』
当時まだ幼かったイオンに届いた彼からの手紙は一通だけではない。イオン自ら筆を執って文を交わしたのだから、そこから感じ取ったイレアナへの気持ちは確かだと思うのだ。
だからイレアナを起こすとしたら、彼ではないか、とイオンは考えた。だが今は、その考えさえ間違いな気がして足が進まない。
イレアナは平穏に暮らしていたはずの田舎の町で、火刑に処された。教会に捕まり、裁かれたのだという。けれどアダムはイレアナを見捨てたわけではないとフェルディは言っていた。
ならば自ら業火に焼かれたのかと聞くと、わからないとも答えたけれど。
吸血種は力こそ人狼に敵わないが、回復能力や耐久性はすこぶる高い。その体で生きたまま火に焼かれるなど、想像を絶する苦痛だったに違いない。
まさかイレアナがその道を自ら選ぶはずもなく、何かがあったことは確かなのだが、その何かを明らかにしたいような、怖いような、そんな気がして。
「……」
だがともかく、イレアナを目覚めさせたのはアダムではない。そんな予感がする。
彼が未だにイレアナを愛していたとしても、今更目覚めさせるならそもそも何故彼女を置いて領地を離れたのか。
アダムは――彼はおそらく、クリステア家と同じでイレアナの静寂と平穏を祈っている。
だから今日は戻ろう。馬鹿なことをした。貴方らしくない浅慮だとタリーに笑われるな、と苦笑しつつ、イオンは踵を返そうとして。
「あら、」
そこで声をかけられてしまった。
「ようこそ、パレデテの小教会へ。どうぞ遠慮なくお入りくださいな」
小教会から出てきた影は、たおやかな女の声をしていた。
言葉遣いは丁寧だが、少し下町のなまりがある。おそらくは教育を受けた庶民なのだろう。
霧の向こうから、影が近づいてくる。
揺れるベールを捉えた瞬間、イオンは身を強張らせた。
「あら、貴族の方かしら? ハティアリ卿のお客様?」
頭のてっぺんから足先まで垂れる長く薄いベール。そこから透けるチュニックはまるで夜会のドレスのように襟元が大きく開けている。そのうえ下半身はかろうじて太ももを隠す程度の短いズボン、いやほとんどドロワーズだ。
下町の娼婦とてここまで足を晒してはいないだろう。
何よりそれらすべてが、ややくすんだ金色の布で統一されていて、イオンは思わず顔をしかめた。
霧の中のわずかな光を捉えて金紗のベールが輝くさまは、確かに神々しいのかもしれないが、その向こうに透ける姿があまりにも俗物的過ぎて。
「失礼、レディ。着るものに困っているのなら、援助をさせてもらえないか」
いくら庶民と言えどこんな格好の女性を放っておくことはできない。
イオンの申し出に女性はきょとんとした顔をしてから、唇に片手を当ててくすりと笑った。
「いいえ、親切な方、わたくしはこれで構いませんの。教会の方は立派な服をくださいましたけれど、それでどれだけの食料が買えるのかと思ったらいてもたってもいられず、髪と一緒に売ってしまったのですわ」
「……なんてことを」
ぱさりと女性が頭からベールを落とすと、現れたのは男性よりもよっぽど短い髪だった。
驚きに言葉を失うイオンに再び微笑んで、彼女はベールをかぶり直す。
「短い髪に貧相な足を出して歩く、これが下町の聖女の証なの。本当にご親切に、ありがとうございます。お礼にハティアリ卿を呼んでまいりますわね」
「聖女?」
「ああ、ごめんなさい、ご紹介が遅れてしまいましたわ。わたくし、フィデスと申します。皆さん、聖女と呼んでくださって親しんでくださいますけれど、このようにおかしな格好をしたただの女ですわ」
「……」
やや垂れ気味の目が細められて、淑女のように優雅に一礼をする。
なんとなく精気が感じられない気がするのは、霧のせいだろうか。
毎日下町や中心街、信者がいればどこにでも赴くという聖女の記事を新聞で見かけるたび、イオンはもっと活発な女性をイメージしていた。
例えば、かつてのイレアナのような――
「ハティアリ卿、今は授業の途中ですの。中で待っていてくださいますか?」
「わかった」
「醜いお姿をお見せしてごめんなさい。でももしわたくしのことを哀れだとお思いになるのなら、わたくしよりも下町の貧しい人々を気にかけてさしあげて。彼らが豊かになればわたくしも服を売らずに済みますから」
「ということは、貴方は教会が新しい服を与えるたびに、それを売って食料を?」
「ふふ、貴方のような親切なお方にあえて、今日は素晴らしい日ですわ。海なる聖母にいっそう感謝の祈りを捧げなくてはいけませんね。もしよければ握手をしても?」
「ああ、構わないが、」
「貴方様にも、聖母のご加護がありますように」
そっと差し出された聖女の手に己の手を重ねる。骨と皮ばかり、というほどではないが、ひどく細い。そのうえ彼女の肌はひどく冷たく、力は弱かった。
聖女はすぐに手を離すと小教会へイオンをいざなうが、自分は中には入らず踵を返す。
これから別の教会に行くらしい。
新聞記事の通り活発に行動しているようだが、ベールに覆われてなお細く頼りなげな後ろ姿にイオンは顔をしかめた。
まるで人形が歩いているような気がするのは、やはり、昼間だと言うのに晴れない霧のせいなのだろう。
そう自分を納得させると、イオンは小教会の中に足を進める。
案の定「貴方らしくない」と驚いた様子で言うタリーに、イオンは苦笑しつつ脱いだコートを彼に預ける。
「行き先を聞いたら、もっと驚くぞ」言いながら見つめると、彼は「おや」と言いながら眉をわずかに上げて。
「パレデテの小教会だ。アダム・ハティアリ卿の邸宅敷地内にある、あの」
「……! まさか、ハティアリ卿と?!」
「うん、初めて会った。聞いていた年齢よりも随分老けて見えたけれど、まあ、彼もそれなりに苦労をしたんだろうな」
イレアナを連れ去った憎むべき人物、とは思っていない。
だがその後の結末に思うところがなくもなかった。会ってどうするか――そこまでは考えておらず、むしろ会った時の感情に任せてしまえと紳士らしくないことさえ思っていたのだが、実際会ってみると、少し拍子抜けしたというのが正直なところだろうか。
イオンは執務室に向かいながら話を続ける。
「豊かな黒髪の青年だったんだろう? 当時は相当モテたらしいじゃないか」
「ええ……。寂しさゆえに、人肌の温かみを求めて女性の間を渡り歩いているのだと当時は噂されていましたからね」
「そんな感じは全然しなかった。年寄りというほどではないが、なんだろうな、随分精気がなく感じられた。何か一本の支えがあるからようやく立っていられるような、そんな印象だったな。声だけは貴族らしく張りのあるいい声だったんだが、それがまたなんとなく不釣り合いで」
言いながらイオンは聖女の姿を思い出す。
クリステア家はその血に吸血種――血や生花からその精気を吸って生きる――の要素を持つせいか、イオンのように吸血種でないヒトの状態でも、精気そのものには敏感な気質を持つ。
アダムのそれは、老いたというよりは萎えたと言う方が近いだろう。何かが彼の気力を奪い、精気を失わせたのだろうとわかる。
けれど聖女は……。人形めいたあの体からはほとんど精気が感じられず、ほとんど死んでいるようだった。
そんなヒトには、一度も会ったことがない。
「聖母とやらに、精気を捧げる儀式か何かがあるのかもしれないな」
「そのような話は聞いたことがありませんが……」
「聖女からは精気をほとんど感じ取れなかった。ハティアリ卿も、年齢から考えればかなり衰えているように思う。だから教会には精気を奪われる様な何かがあるんじゃないかと思ったんだ」
「或いは我々魔族に狙われぬよう、精気を捨てているのかもしれませんね。精気は生きる力、それを捨てるなど恐ろしいことですが」
「その捨てた精気をどうにかして保存し、逆に萎えた庶民たちに与えているのかもしれないぞ。だとしたら、聖女とやらが起こしている奇蹟の説明がつく」
「或いは自らの精気を惜しみなく他人に与えるからこそ、聖女と呼ばれているのかもしれませんね」
「ああ、そのうえ精気を任意に他人に譲れる能力なんて聞いたことがないからな」
「教会の広告塔である聖女が、実のところは魔族かもしれない可能性さえあり得る、と?」
「私たちが魔族だから排除したいのではなく、教会が権力を手にするのに邪魔だからいなくなってほしいんだろうよ。そんなことは前々からわかっていただろう」
クリステア家を立て直し、吸血種に再び秩序をもたらす。
影やタリーの力を借りたとはいえ、まだ若いイオンがそれを成すにはどうしても時間がかかった。それでも予定よりはずっと早く終わったのだが、余裕が出てきたころにはもう教会の名声は高く、庶民たちは貴族――特に魔族でありながら貴族であるクリステア家――を半ば敵対視するようになっていた。
他の貴族と同様、クリステア家も庶民を助ける教会に寄付を行ってはいるが、一度根付いた感情を変えるには時間がかかる。
庶民が王家を打倒して革命を成した北国の話が下町にも広がったせいで、ここのところはこの帝国も王ではなく民が主権を握るべきだと言う意見が上がっていると言うが、実際北国のようになれば――イオンは思わず顔をしかめた。
「そんなことより本題だが、影殿にハティアリ卿を見張るよう伝えてほしい。早ければ今晩、動きがあるはずだ」
「お館様を起こしたのが彼だと?」
「彼か教会のどちらかではないか、と考えた。だからそれとなく匂わせてきたんだ。どちらがイレアナ様を起こしたにせよ、手に入れることはできず、見失ったままなのだろう? イレアナ様を起こした自覚があり、手に入れたいと思っているのならば、動くだろう」
「まさか、居場所を?」
「匂わせただけだ」
単刀直入にお前がイレアナを起こしたのか、なんて聞くのは貴族の作法ではない。
お茶を飲み、世間話をしつつ、クリステア家の話をして――最近人狼の森が賑やかなようだ、と伝えただけだ。
フェンリル群が住む森はハティアリ卿の領地内にある。だが帝都に戻って以降彼が領地に戻ったことはなく、税を取ることもなくただ住民に任せてあると言う。噂では、人狼にほとんど主権を譲ったのだとか。
戻る必要のない名ばかりの領地に戻るとすれば――戻らなければならない理由が何かあると言うことになるだろう。
最もアダムは「賑やかなのは良い事です。あの森の人狼たちは、一時は壊滅の危機にありましたから」と微笑み「私などいなくとも、優秀な住民たちがうまく収めているでしょう」と戻るそぶりはない風でいた。
茶を出してくれた司祭風の男は、無表情で部屋の傍らに立っていたが。
「元気そうでよかった、と言っていた」
「ハティアリ卿が?」
イオンは目を細め、微笑みかけたアダムの姿を思い出す。
誰がとは言わなかったが「気にかけていた」と彼は言った。
残してきた幼い後継者のこと。放り出してしまった家のこと。
思うことさえ許されない、と言いながら。
「タリー、イレアナ様を起こした者が誰なのか、目的は何なのか、それはおそらくフェルディが調べ上げるだろう。だから私たちは、別の行動をとろうと思う」
「はい」
「イレアナ様が人狼の森で穏やかに過ごしているなら、そこにあの方を送って護衛してもらう。もし人狼の森の居心地が良くないとおっしゃるのなら、ここで匿い、お守りする。此度は人狼にすべてを託すにはことが大きいように思う。まずはフェルディに使いをやって、ここに来るよう伝えてくれ」
「御意」
「彼への手紙は私が書こう。いつもお前にばかり任せていたからな」
自身が日々使用している重厚な机は、かつてイレアナも使っていたものだ。
幼いイオンが執務中に尋ねてくると、彼女は必ず手を止めて微笑みを向けてくれた。
――「イオン、寂しかったのね。ごめんなさい。一緒にお仕事をしましょう」
膝にイオンを乗せ、どんな書類に何を記入しているか教えてくれたイレアナ。
彼女は決して無能ではなかった。
「……」
女性らしい流麗な字。読みやすい文。領地の税の事や、使用人たちのこと。
吸血種に血を与えるために雇われた人々を、大切に扱わねばならないこと。
逆に吸血種であるのならば、偉大なツェペシュの末裔として恥じぬ振る舞いを心がけること。
「タリー、出しておいてくれ」
イオンの字は、イレアナによく似ているとタリーは言う。
彼女の筆跡を眺めて過ごしたのだから当然だ。イオンはそれを誇りに思っている。
タリーは差し出された手紙とその宛先を見つめ、思わずと言った風に声を上げた。
「一通は、東の教会あてになっておりますが」
「小教会で聖女に会った。だが名乗りもせずに別れてしまったんだ。無礼を詫び、困ったことがあればいつでも力になると書いた。魔族であろうとも、救いを求める人々に手を差し伸べたい気持ちは同じだ、と」
「……それはそれは」
「こちらに他意も敵意もないからな。魔族と言って毛嫌いするのは勝手だけれど」
皮肉気な笑みが、思わず漏れる。
クリステア家と教会はまるで逆だ。
たった十数年で落ちぶれた貴族の家と、庶民の声と後ろ盾を得て興る名もなき者たちの家。
「影殿が目覚めたら、小教会を見張るよう言づけてほしい」
「かしこまりました」
二通の手紙を持って部屋を出たタリーの背を見送って、イオンは小さくため息をついた。
「疲れたの? なら少し、お昼寝をしましょうね」
優しく撫でてくれた白い手が、恋しい。
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