第7話 人狼が犬になるとき

 帝都中心部からみて東、宮殿やクリステア家のある西側からは中心街を挟んでちょうど反対側にある東の下町は、ここ十数年で急速に人口を増やしていた。

 現在の帝都は東西を横断する大きな川の北側を中心に栄えているが、人口の増加をきっかけにこれまでは手つかずで農地が残っていたような南側にも開発の手が及び、結果農地を手放した人々が職を求めて下町へと集まったのだ。

 下町には川を利用して貨物を運ぶ船のための港や造船所が建っている。だがその労働環境も、生活環境も、決して良いものとは言えなかった。

 経営者は誰もが皆自分の利益優先で、働く人間の環境など考えもしなければ、仕事を与えてやっているのだから感謝しろとばかりにこき使う。

 そうして利益主義な富豪が牛耳る下町は、あっという間に汚れ、荒んだ街へと姿を変えた。工業的なものも、生活的なものも、汚水はすべて垂れ流し。わずかな稼ぎで暮らすのに精いっぱいで医者にもかかれぬまま、大半の者は死ぬ。

 昼間だと言うのに淀んだ空気に、飲んだくれて倒れるアルコール中毒者たち。


 帝国発展のための労働力をこのまま損なってはいけない、庶民・貧民であれ帝国に住まうものは皆王家の子である。

 女王がそう声を上げて下町の再開発に着手したのはつい最近のことだ。

 下水道を整備し、貧民でもかかれる療養所を開設し、国営の工場を作り、下町すべての工場の基準を国営のそれと同じくさせ、手が回らない警察の代わりに警ら隊を用意した。

 だがそれでもまだ、手は足りない。療養所はすぐ手いっぱいになり、条件の良い仕事は農民あがりや病気持ちは採用されず、彼らは結局低賃金で違法操業をさせるような仕事に就くか――或いは己の体を売るしかない。

 

「ひどいな」


 フェルディは充満した血肉の臭いに顔をしかめて、ライトが照らす闇の片隅を観察する。見張り役の人狼の足元にあるのは、ロルフの報告通り首を食いちぎられた女の死体だ。

 以前と同じく娼婦。それも若く、今は青ざめた肌も、生前は艶やかであったろうと思われる程度には健康だったろう。

 下町では未亡人となって仕方なく働かざるを得ない四十代以上の娼婦や、酒代を稼ぐために身を落としたアルコール中毒者の娼婦も少なくない。

 だから若く健康な娼婦というのはそれだけで貴重で稼ぎもいいのだが、その分事件にも合いやすいのかもしれない。ままならないことだ、とフェルディは眉間の皺を深くする。


「……間違いなく噛み跡だな」


 せめて次はもっと平和なところに生まれるよう祈りつつ、哀れな被害者の傍にしゃがみ込むと、フェルディは傷口の見分をはじめた。

 人の姿ではそんなことしないが、狼の姿の時ならいくらでも獲物を噛みちぎった経験がある。口の大きさや歯形こそ違えど、噛み跡かそうでないかは見ればわかるのだ。

 被害者の首の傷は間違いなく噛みちぎった跡で――人間の力、小さな口でよくやったなと感心してしまいそうになる。


「家族は?」

「いないみたいだ。同居人の話だと何年か前に流行った疫病でみんな死んだとか」

「……それはまた、大変な人生だったな」


 人狼はイレアナとアダムによって救われた。

 だが誰にでも救いの手が伸ばされるわけではない。人狼は、フェンリル群は運が良かったにすぎないのだ。

 もしかしたら自分も、この娼婦のようになっていたかもしれない。

 ロルフも同じことを考えていたのか、もともと気難しい顔立ちがいっそう険しくなっている。フェルディはふと肩の力を抜いて彼の眉間を指でつついた。

 とん、と押されたそこをおさえて一歩下がったロルフは「なんだよ」とますます顔をしかめたが。


「家族がいないなら引き渡すのは教会だな。悪いがひとっ走り行ってきてくれるか?」

「……あそこは嫌いだ。空気が淀んでる」

「まあ俺たちを毛嫌いしてるしなあ。でもこのまま放置ってわけにもいかないだろ。お前、この前の被害者を見つけた時はどうしたんだ?」

「……教会に連絡をして、連れて行ってもらった」

「だろう? きちんと祈りを捧げて弔いをして、墓にも入れてくれる。俺たちには冷たくても、庶民の味方なのは間違いない。ほら、さっさと呼んで来い。嫌なことを片付けたら、ご褒美があるぞ」

「ごほうび?」

「ああ、とっておきのな。だから早く行ってこい」

「……ん」


 帝都では家々の軒先に灯りをともす決まりがあるが、貧しい下町にそんなことをできる家はなく、街灯の灯りさえまばらだ。

 そんな中を駆けていくロルフを見送って、フェルディは遺体に布をかけてもう一度あたりを見回した。

 多少血が飛び散った形跡はあるものの、やはり怪我の具合に反して出血量は大幅に少ない。

 口を開き、歯を立てて食いちぎれば傷口はズタズタになって、当然出血もひどいはずなのだが、まだ乾いていない被害者の傷口は布で拭わずともその様子がはっきり見えるほどで、血が滴ってはいなかった。

 むしろ傷口周辺はその部分の血をきれいに啜り、舐めとったように思える。

 やはり吸血種の仕業か――それとも吸血種の仕業に見せかけようとする誰かの罠か。

 でもそうだったとして、こんな手間をかけるだろうか。

 いや血が少ないのは別の場所で殺してからここに運んできただけ、というのも考えられる。

 被害者が発見されたのはどこも薄暗い路地の奥で、人目に付きにくい場所ばかりだ。

 闇に乗じてそっと遺体を置き去るぐらいなら、簡単にできるだろう。

 被害者は娼婦ばかりだから、仕事を持ち掛けてどこかの家に連れ込み、そこで殺人を犯せばだれにも見られる心配はないのだし……。


「憲兵さん、早く犯人を見つけてちょうだいな」


 路地の入口から声をかけられて、フェルディははっと顔を上げて振り返る。

 そこにいたのは年嵩の女性だ。おそらく娼婦の一人だろう。

 殺人事件が続いていても、彼女たちは生きるために仕事をしなければならない。

 だから早く解決してほしい気持ちはわかるが。


「犯人は吸血鬼に決まってるよ。あの忌々しい魔族どもが、また暴れ出したに決まってる。あいつら私たちのことなんかエサ袋ぐらいにしか考えてないのさ。金さえ払えば、何をしてもいいと思ってるんだ」

「……」


 自分たちは憲兵ではなく警ら隊だし、人狼も「魔族」のくくりに入るんだけどな、なんて言葉を飲み込んで、フェルディは早口な娼婦の言葉を黙って聞き続けた。

 なんでも娼婦は昔吸血種を相手にしたことがあるらしい。相場の何倍もの金を払い浮かれてついて行ったら強引に血を吸われて、今でもその跡が消えないそうだ。

 娼婦は首元に使い込んだ風のショールをきつく巻き付けている。


「抵抗したら殴られてね。もらった金は治療でほとんど飛んで行った。最悪の客だったよ。横暴で、高慢で。教会がしばらく文無しの私を匿ってくれなかったら、今頃どうなっていたことか。吸血種なんてみんな焼かれちまえばいいのさ」


 脳裏に一瞬、イレアナのことがよぎる。

 焼けこげる肉の臭い。

 フェルディは軽く首を振った。刹那、女の後ろからロルフがにゅっと顔を出して。


「連れてきた」

「おお、痛ましい。また若い女性ですかな?」


 ロルフの後ろに続いたのは、目尻に深い皺の寄った老年の神父だった。

 彼は帽子を脱いで胸に当て、布のかかった遺体の前にひざまずくとすぐに祈りを唱え始める。


「ああどうか、哀れな魂が母なる海へと還り安らかに眠りますよう」

「……後は任せていいか?」

「ええ、教会が責任を持って母の子を弔いましょう」

「行くぞ、ロルフ」

「ん」


 路地を出ると馬車が停まっていた。

 ここ最近よく見かける、教会の馬車だ。

 貴族のそれとは違って華美なところは一切なく、いっそ無骨とも思えるような作りだが骨組みやパーツはしっかりとしていて、そういうところに金がかかっているのがわかる。

 今日のようなときに遺体を積んで運んだり、病の人々を送り迎えしたりするのだから頑丈に作っているのだろう。


「隠れ家に戻るぞ」

「えっ、あ、おい!」


 狼の姿になるのは一瞬だ。

 まるで魔法のように、人狼は姿を変えられる。

 一瞬白い霧のようにぼやけたフェルディの姿は、次の一瞬にはもう金色の毛をした狼に変わっていた。

 戸惑うロルフを尻目に散らばった衣服を集めて咥えると、そのまま走りだす。


「……」


 やや湿気の多い冷たい風が毛を撫でていくのを感じながら、フェルディはただ走った。

 服を咥えていてその隙間からしか息ができないから少し苦しいが、公園を抜け整備された街路樹や緑の多いエリアに到達するころには、曇りかけていた気分が晴れやかになる。

 何せロルフはイレアナにとても懐いているのだ。

 枯れのせいで食べ物を口にできず、盗みに入った屋敷で出会ってから――ロルフはずっと、それこそ教会の信者が海なる聖母とやらを崇めるように、イレアナを慕い続けている。

 焼けたイレアナの姿を前にひるんだフェルディとは違い、ロルフは躊躇わずその体を抱きしめた。

 廃聖堂に安置した後もしばらくそばを離れなかったほどの慕いっぷり。眠る姿を眺めては色々話しかけていたこともあったし、たとえ記憶がなくとも再会を喜ぶだろう。

 それこそ尻尾をちぎれんばかりに振り立てて。


「……久しぶりに走ったな」


 屋敷の裏口、すぐに追いついたロルフにそう言って、フェルディはそっとドアを開けた。

 なにせ狼の姿になると、衣服はすべて脱げてしまう。

 そこから人に戻ると当然全裸なので、まずは服を着直さなければならないのだ。

 ちらりと見上げた二階の窓にはかすかな灯りが見えた。

 イレアナは起きているらしい。


「一緒に来てくれ」

「兄貴、何をそんなに急いでるんだ?」

「いいからついてこい。お前へのご褒美があるんだから」

「?」


 訝しむロルフを連れて二階に上がる。

 部屋の扉をノックすると、すぐに返事があった。予想通り起きていたらしい。

 フェルディは一度、振り返ってロルフを見た。

 狼の姿ならきっと耳をぴくぴく動かしていただろう。

 だが今は人の姿なので、聞こえた――忘れるはずのないイレアナの声――に戸惑いつつ、事態を把握できずに目を瞬かせるだけだ。


「入ってもいいか?」

「ええ、どうぞ」


 今度は振り返らないままドアを開ける。

 ソファに座っていたらしいイレアナはすぐに立ち上がって歩み寄ってきた。


「ハーヴェイからお仕事に行ったと聞いて、帰ってきたらお腹が減っているかもしれないって思ったの。だから軽食を作っておいたんだけれど……フェルディ、後ろの、ええと……その方は、どなた?」


 きっと目を見開いて硬直でもしているのだろう。

 フェルディは笑いを堪えきれずに漏らしながら、体半分を捻ってロルフを紹介しようとし――言葉を失った。

 そこにいたのは自分より大きく気難しい顔をした弟ではなく、金色の毛並みをした大柄な狼だったのだ。

 驚きすぎて変身してしまったらしい。人狼にとって恥ずべき、かつ予想外の出来事にフェルディは大口を開けてげらげらと笑った。


「ロルフ! お前! まったく!」


 実のところ、狼の姿を習得したのはロルフの方が先だった。

 以降ロルフは一度も変身に失敗したことはなく、どんな時も完璧に人と狼の姿を使い分けてきた。だからこの事態に、恥ずかしさよりも困惑が勝っているらしい。

 くぅん、と情けない声をあげて、いつもはぴんと立った大きな耳を下げたロルフに、フェルディは可哀そうやら可笑しいやらで、とにかく笑えてくる。

 一方のイレアナはロルフの目線にあわせてしゃがみ込むと「人狼の仲間なのね」と理解したようで、いつも通り穏やかに微笑んで。


「はじめまして、イレアナです。色々あってフェルディのお世話になっています。貴方はロルフって言うのね?」


 わん、と吠えることはせずにこくりと頷くことでなけなしの知性を見せはしたが、イレアナが手を伸ばすともうだめだった。

 限界まで下がっていた耳は地面と平行になり、平らになった自分の頭に導くようにイレアナの手に近づける。

 始めはそうっと、ロルフが大人しい様子を見るとやや大胆に毛並みを撫で始めたイレアナに、ロルフは――これもまた本人も思いがけず――ごろりと転がり、腹を見せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る