第6話 落日
つい昨日までメイドたちがいたこともあって『秘密基地』と言う割に、屋敷は清潔に、かつ心地よく整えられている。汚れていたのも、ハーヴェイかフェルディがそのままにした台所だけで、後はほこりひとつさえ見当たらない。
なんだ、と少し拍子抜けしつつも、イレアナは目的を探索へと変更して静かな館を巡って歩いた。
寝室と同じく、廊下やホールにも装飾品や絵画、骨董品の類は一切なく、だが寒々しい気がしないのは、フェルディの明るい笑みがあちこちに残っているような気がするからか、あるいは暖かな色を中心にリネン類が選ばれているからか。
しばらく歩き回って図書室を見つけると、イレアナはそこで今日一日を過ごすことを決めた。適当な小説を手に取り、日当たりのよい窓辺のソファに腰を下ろす。小説は、比較的最近書かれた恋愛小説のようだった。
ひょんなことから侯爵家の女当主となった少女が、恋をし、やがてその恋によって破滅していく――そんな物語だ。
はじめはただ、一人の男性に恋をしただけだった。幼いころから結婚を約束していた幼馴染。けれど彼は主人公に興味がなく、主人公は彼の気を引くために他の男に手を出したりして……。
作り話だったとしても、なんだか気分が悪い。早々にその小説を閉じて、イレアナは図鑑を開くことにした。美しい水彩画で数多の植物が描かれた図鑑だ。目にも優しいし、かつての自分は花を食事にしていたと言うから、眺めて居れば何か思い出すかもしれない、とかすかな期待を抱きながら。
しかし結局記憶は思い出さないまま、気づけば日が暮れていて――
「ただいま」
一階の玄関ホールから聞こえた静かな声に、胸が躍る。
たった四文字の単語なのに、もうずいぶんその言葉を聞いていないような気がして、その言葉がひどく嬉しくて、切なくて。
「おかえりなさい」
速足で図書室を出、玄関ホールを見下ろせる場所から顔を出しつつそう言うと、いよいよ泣きたい気持ちになった。自分でもなぜそう思うのかはわからない。
寂しかったのかもしれない、子供でもあるまいし、なんて自分に言い聞かせつつ階段を降りていくと、ハーヴェイはイレアナを見つめて、ふと笑みを浮かべた。
「急に用意させたものだったが、似合っているな。よかった」
慈しむようなその表情、言葉に、今度は頬が熱くなる。同時に、何か落ち着かないような不安に似た気持ちも浮かび上がって――
「今日は何をしていたんだ?」
「図書室で本を読んでいました。それから少し、この屋敷の探索を。特にやることもなかったので」
「ああ、そうか。それは気が付かなかった。明日、刺繍か本か、何か時間を潰せるものを持ってこよう。新聞はどうだった?」
「あっ! 図書室に夢中で……明日まとめて読みます」
「そうか。夕食は?」
「まだです」
「では一緒に食べよう」
ハーヴェイは色とりどりの花束を抱えている。
大きな花弁の百合に、イレアナは思わず喉をごくりとならした。だが、瑞々しい花よりもハーヴェイの、シャツの襟から見える首元に目が行ってしまう。
不躾に彼の首元を見つめないよう自制してみるが、どうしても気になって仕方がない。だから彼が先に歩き出してくれて、イレアナはほっとした。
「女王陛下と貴方は年が近く、家としても友人としても交流があったようだが、覚えているか?」
「いいえ……」
「だろうな。だがおそらく、あの方が貴方を起こしたわけではないらしい。自分の代替わりが近くなるまでは、放っておくつもりだったようだな」
花束を食堂のテーブル、イレアナの席の前に置いて、自分は少し離れた場所の椅子を引く。そうして脱いだコートをその背にかけると、ハーヴェイはそのまま腰を下ろした。
「あの、何か食べますか?」
「ああ、いい。貴方が気にすることは何もないし、働く必要もないんだ。元々できることは自分たちでしていたしな。食事なら今フェルディが持ってくる。だが……ああ、食器を片してくれたんだな? ありがとう」
「いえ、どうやら家事はできるみたいですから。置いて頂くお礼に、お役に立たせてください」
「それは助かる。だが、貴方はなんでもできるんだな」
にっと笑って見せたハーヴェイに、イレアナは少し苦しくなった。
なんでもなんて、できない。むしろ、なんにもできない自分が、歯がゆくて仕方がない。
何かしたいといつだって思うのに、自分は結局何もできなくて、誰かの迷惑になってばかりで。
「なにも、なにもできません」
「え?」
「けれど、一生懸命やりますから、ぜひ申し付けてください」
何故かひどく、泣きたい気持ちだった。どうしてそう思うのか――わからないけれど、胸の底から自分ではどうしようもない感情が溢れ出るときがあるのを、イレアナは自覚していた。
とてつもない無力感、寂しさ、苦しさ、歯がゆさ、悔しさ。
過去の自分が抱いていたものなのかもしれないと思いつつ、その記憶さえ持たない自分にできるのは、とにかくやってみることだけ。だから、望まれるなら、いや、望んでくれるならなんでもやろう。掃除でも洗濯でも、なんでも。
けれどハーヴェイは、苦笑を浮かべつつ窘めるように言うのだ。「貴方はそんな身分ではないのだから、気にせず好きに過ごしていい」と。「掃除よりも新聞や本を読んで知識をつけた方が身のためだ」と続けられると、それ以上なにも言えなくて。
「……そうね。ごめんなさい。ただ、お世話になっているのだから、何かお役に立てたらと思ったんです」
胸が痛くて苦しい。子供みたいに泣きたくて、でもそんなことはしてはいけないと、涙ごと息を呑みこんだ。
そんな彼女を呼びながら、ハーヴェイが立ち上がった、瞬間。
「たっだいま~」
ノックもなしに開いた扉。
現れたのは紙袋を掲げたフェルディだ。
二人の視線をいっせいに受けつつ、場の微妙な空気をとらえたらしい彼は「悪い、なんか真面目な話の途中だったか?」と眉を下げて。
「……ああ、えっと」
「な、なんでもないの。ちょっとお腹が空いて、喉が渇いて、それだけだから」
どう説明すべきか淀むハーヴェイの声にかぶせるように言葉を紡ぐ。
思っていたよりもスムーズに言えて、イレアナはほっとした。
自分でも理解できない感情が浮かぶ不安感を拭えたわけではないが、ひとまずフェルディは「そうか。じゃあ早く飯にしようぜ。報告もあるし」と紙袋を差し出した。
どうやら中身は夕食らしい。
「確証はないからはっきりとは言えないが、クリステア家は白だと思うぜ」
「……おそらく、陛下の方も白だ」
紙袋の中身はサンドイッチと瓶入りの飲み物だった。
二人が話をしつつ食事を始めたので、イレアナも花に手を伸ばす。
瑞々しく厚い百合の花弁は、触れるとほのかに温かく、それにじんわりと温められるように腹部が熱くなっていく。
「クリステア家は代替わりのルールを破るつもりはない。当主代理や家令の意向も相変わらず、イレアナ様の平穏と安息のためにって感じだ。けど、イレアナが目を覚ましたと言った時、誰が目覚めさせたのかとは聞かなかった」
「……」
「イレアナがどこにいるか、は聞かれたけどな。ぼかしたから、森にいると思ってるはずだが」
ハーヴェイは食事の手を止めて何かを考えている。
イレアナはただ二人の話を聞いていた。せめて何かのきっかけに、少しでもいいから昔のことを思い出せないか、と願いつつ。
「後をつけられてはいないな?」
「あったりまえだろ。で、そっちは?」
「陛下も代替わりについてはクリステア家と同じお考えのようだ。もっとも、あと二十年は女王を続けるつもりでいらっしゃる。あの方にイレアナを目覚めさせる理由も、メリットもない」
「単純に会いたかった、とか? 昔馴染みなんだろ?」
「ならなぜ私に声がかからない? そういう話は母上から私に下がってくるものだ。少なくとも、誰にも知らせず秘密裏にイレアナに会いたいとして、目覚めさせた彼女を迎えに行かせて城に連れてこなければ意味がない」
「俺たちが森にいったのはそのためじゃないのか?」
「イレアナが目覚めた、とは言わなかったが、そうだとしても関与はしない口ぶりだった。暗に連れてこいとも言わなかった」
「……」
手元の花が、枯れて乾く。
茶色く変色した百合を眺めながら、イレアナは自分が目覚めた時のことを思い返した。
とても長く、心地よい眠りについていた。
いつまでも眠り続けていたくて、多少の物音がしても起きないようにしていた。ような気がする。
外で何が起こっているのか、自分がどうして眠っているか、そんなことはどうでもよくて、ただただ眠っていたかった。
けれど、あの時――
「誰かが、私の頬に触れました」
「そういえば、あんたの話を聞いてなかったな」
フェルディに促されて、イレアナは一度深呼吸をした。
昔のことは覚えていないが、目を覚ました時のことは、不思議と鮮明に覚えている。
唇に触れられ、そこから熱いなにかが入ってきた。無理やりそれを嚥下させられて、けれどそのとたん、火が灯ったろうそくのように体が一気に温かくなったのだ。
「思わず目を開け、周りを見ていました。そしたら、行くぞと声がかかって、手が見えたんです。でも、手しか見えませんでした。その先にある顔も、体も、見えなかったんです」
「見えなかった?」
「はい。見えませんでした。でもあの声は、悪いものではないと思って……私、嬉しかったから」
声をかけてくれるだけで嬉しかった。手を引いてくれるのだと思ったら、胸がどきどきして。図書室で読んだ小説の中の、恋する少女のようだと思う。
「でも、しばらく歩いていたら彼は消えてしまいました」
「彼? 男だったのか」
ハーヴェイの表情が曇る。
イレアナは思わず口を噤んだ。
「あそこは俺たちフェンリル群の森だ。他所の匂いがすれば、仲間が気づく。だがあの夜、森は静かで、仲間たちは俺たちの迎えをしに来る以外はいつも通りだった」
「では人狼の誰かではないのか?」
「それはねえだろ。むしろ気になるのは、わざわざイレアナを起こしといて、そいつがいきなり消えちまったことだ」
「……私たちの気配に気づいて姿を消したか、或いは――」
「俺たちに会わせるのが目的だったか」
沈黙が落ちる。イレアナが精気を吸って枯れた花が、カサリと小さな音を立てた。
「私たちに会わせて、どうするつもりだったんだ?」
「そうだな、会わせるのが最終目的じゃないってことは確かだと思うが」
「それまで自分では匿っておけないから、私たちに預けたということか?」
「でもそれには、俺たちがあの日あの時あの場所に向かうってことを事前に知ってなきゃいけないぜ」
「……だとすれば、やはり陛下の差し金か?」
「或いは俺たちの行動が、どっかにばれてるか、だな」
ハーヴェイの言葉に、フェルディが顔をしかめる。
「実は、もう一人、当たってみたい奴がいるんだが……」切り出したフェルディの重い口ぶりに、自分は聞くべきではない話なのだろうと判断して、イレアナは立ち上がった。
枯れた花々を抱えて「ごちそうさまでした」と挨拶をして厨房に片付けると、そのまま「おやすみなさい」と一礼して食堂を出る。
自分の事なのに自分には協力さえできない歯がゆさに、また空しさがせり上がる。
自室のベッドの上、着替えもせずに座り込むと「役立たず」なんて言葉が漏れた。
自分はいつもそうだ。
……いつも?
「いつも? 昔から? 私はずっと役立たずなの? 当主なのに?」
考えるのはよそう。役立たずだからクリステア家を切り盛りしている当主代理や家令とやらに嫌われているのかもしれない、とか、だから帝都から逃げ出して田舎にいたのでは、なんて考えても意味がない。
今の自分にできることは、自分のことを最低限自分で行うこと。新聞や本で失った知識を補うこと。それだけだ。
「……昔の私は、どんな風だったのかしら」
呟いて、イレアナは目を閉じる。
「それで? 心当たりのあるもう一人とは、いったい誰なんだ? 眠り姫の城を知っていた、新たな男か?」
ハーヴェイのなんともくすぐったい例えに眉根を寄せて、それからフェルディは瓶入りのオレンジジュースを呷った。
すっぱい味と共に脳裏に過るのは、人狼の森のそば――かつてイレアナが暮らしていた館の主であり、あの一帯の領主だった男の姿だ。
イレアナが眠りにつくことになった事件があって以降、男は帝都に戻り、それ以来姿を見せていない。
「アダム。アダム・ハティアリっていう男だ。爵位は知らない。だが帝都にいるはずだし、お前が知らなくても上の世代は知ってるはずだ。何せクリステア家の当主と駆け落ちした男だからな」
「……!」
いつもイレアナの後ろに、影のように静かにたたずんでいる青年、というのがアダム・ハティアリに対するフェルディのイメージだ。
きちんと手入れされた長く艶やかな黒髪を後頭部でひとつに結んでいて、その結び金具に使われていた宝石がいつもピカピカに輝いていたのを覚えている。
イレアナと同様華美な服装をしているところを見たことはなかったが、着崩しているところを見たことはなく、森の中、草をかき分けて人狼の住処を訪れる時だって、衣服が汚れるのも構わず、ただイレアナについてくるのだ。
自身の体格と人狼としての身体能力に自信があるフェルディが――当時はまだ十代の若造だったにしても――警戒してしまうぐらいには精悍で、背も高く、寡黙な男。ハーヴェイとは全く違うタイプの貴族だな、とフェルディは思う。
直接話したことはごくわずかで、だから人となりを詳しく知っているわけではない。
でも、人狼たちにあれこれと世話を焼いたり、子狼たちと笑い合う姿を、何を言うでもなくただ静かに、時折穏やかな微笑みを浮かべ、温かい目をして見守っていた人だから、イレアナに対する愛情は間違いなかったのだろう。
その様子に、人見知りで群れ以外の人間にはなかなか警戒心を解かないロルフでさえ、懐きかけていたのだ。あんな事件がなければ――少なくとも彼の行動がああでなければ――今でも交流があっただろうに。
「フェルディ、人狼を何人か、いや一人でもいい。ハティアリ卿を探るよう指示できるか?」
「あいつがイレアナを起こした犯人だと思うか?」
「まだわからない。だが彼は昔から敬虔な教会信者で有名なんだ。だから駆け落ちしたときは余計周りを驚かせた。何せ相手は――」
「吸血種。教会風に言うなら吸血鬼、か。人狼と同じく、教会が毛嫌いしてる『魔族』だな」
「そうだ。もし彼が今はすっかり改心して教会の言いなりになっているとしたら……」
眉根を寄せて難しい顔をしているハーヴェイを見つめながら、フェルディはもう一度アダムの表情を思い出した。
イレアナを慈しみ愛でるその表情は、本物だったはずだ。けれど彼は弱かった。信仰を捨てて愛を選んだが、自身の保身とその愛を天秤にかけた時、彼は自身を取ってしまった。
結果、イレアナは――
「あいつも一応、うちの恩人なんだ。俺たちに食料や薬をよこすよう働きかけてくれたのはイレアナだけど、その資金を出したのはあいつだからな」
「だが現時点では一番可能性が高い」
「とりあえず、うちのを一人つけさせておく。ついでに人狼の森でイレアナを匿っていることを、それとなく流しておいてもらえるか? そうすれば教会が尻尾を出すかもしれねえ」
「そうだな。そちらは任せておけ。明後日の茶会あたりで広まるようにしておこう」
サンドイッチの包みのすみ、固まって乾きかけたピクルスを摘まんで、フェルディは思案する。
教会は本当に吸血種を殺すつもりなのだろうか。帝国での吸血種の地位は、ここ十年で大幅に下がりつつあるとはいえ、当主さえ健在であればいまだに王族に次ぐ発言力を持つはずだ。
数は少ないが、吸血種にも人間に勝る力がある。人狼ほど戦いに優れているわけではないが、彼らには特殊な血に宿る再生能力があり、故に不老長寿なのだ。
何より女王が黙ってはいないだろう。王家はクリステア家を帝国の一貴族と認めた時から、その差別を許したことは一度とてないし、女王はここのところ、吸血種だけでなく魔族すべてとヒトとの共存を掲げている。
庶民に支持されているとはいえ、教会の資金のほとんどは貴族の出資で、女王の指示のもと貴族たちが手を引けば、教会の力など瞬時に萎む。
そんな脆弱な状態で吸血種に手をかけようなどと考えているのなら、教会は馬鹿だとしか言いようがないが。
いやだがもし「イレアナさえ殺せばいい」と考えていたとしたら?
「ハーヴェイ、絶対に外に漏らさないと約束するから、イレアナの護衛に人狼を一人つけてもいいか?」
イレアナは帝国内で唯一新たな吸血種を生み出す牙の持ち主であり、その牙を次代に後継しない限り、彼女以外から吸血種が生まれることはない。
だからイレアナさえ殺してしまえば、後は残った吸血種をじっくり狩ればいいのだ。
フェルディはぞっとした。
女王と貴族たちで成り立つこの国の政治のバランスが、教会によって大きく崩されたら――脳裏に過るのは最近庶民が革命を起こしたという北方の国だ。
圧政を強いた王族は庶民によって根絶やしにされ、人々は自由を得た。だが長年支配され続けていた庶民たちは、支配する方法を知らない。庶民たちの権力争いで内戦が起きそうだとか、国自体が分裂しそうだとか、ともかく混乱しているのは確からしい。
この国がそうなってしまったら……。枯れを止めるどころか、下手したら森を失うかもしれない。
「信頼できる者がいるのか?」
「俺の弟だ。あいつはイレアナにだいぶ入れ込んでて、アダムにもクリステア家にも牙を剥くようなやつだからな。イレアナの安全を守ることにおいては、絶対に信頼できる」
「ああ、あの目つきの悪いやつか」
「そう言ってくれるなよ、真面目でいい子なんだぜ。俺なんかよりもうまく人狼たちをまとめてるしな。昔からリーダーの気質はあると思ってるんだが、本人がなかなか」
「群れの話なら内輪でやってくれ。私には狼のルールはわからん」
「強いやつがリーダーになる。ただそれだけだ、単純だろ?」
「野蛮……いや、獣らしく野性的、ちがうな、いや、まあいい。そうだな、単純だな」
強いものがリーダーで、そのリーダーが気に食わなければ戦いを挑めばいい。
勝てば新たなリーダーとなって、己の方針に群れを従わせる。負ければ敗者として従い続ける。ただそれだけ。
人狼のルールは獣寄りだ。そこに紳士的な言葉を当てはめようとして――結局断念したハーヴェイに、フェルディは思わず苦笑した。
「ともかく、ハティアリ卿の動向を探って彼が白だと判断できるまで、イレアナの護衛は君の弟に任せよう。白だったら振り出しに戻ることになるが……まあその時はその時だな」
「おう。一応、イレアナが眠っていた霊廟の方にも何か異変がないか調べさせはしてる。アダムだけじゃなく、教会の行動も探っておくか?」
「いや、警らの手が回らなくなるだろう。そのままでいいが、怪しい動きをかぎつけたら動いてくれ」
「りょーかい。で、放蕩息子さんは今晩はどちらへおでかけで?」
重い話は終わりと言わんばかりに軽い口調で問いかけると、ハーヴェイはにっと口角を上げて悪い顔をした。
生粋のお坊ちゃんだった彼に、そんな俗っぽい表情を教えたのはもちろんフェルディだ。
どこか自分に似たその表情を見るたびに、フェルディはおかしくて少し笑ってしまう。
ハーヴェイは「笑うなよ」と不機嫌になるが。
「酒場にでも行くかな。この前ステージで踊っていたジプシーの子が気になってね」
いかにも遊んでいる風に言って見せたハーヴェイに、フェルディはひゅうと口笛を鳴らす。食べかすやごみを詰め込んだ紙袋を丸めてそのまま、ならさっそく繰り出すかと立ち上がった、が――
「呼びに行く手間が省けたな」
食堂の扉がやや強めにノックされる。
裏口から近づいてくる足音と気配で、誰かはわかっていた。
そもそもこの隠れ家を知っているのは、務めていた下働きたちを含めてもごくわずかな人間だけだ。
「どうした、ロルフ」
「兄貴、急いできてくれ」
挨拶もそこそこに、扉を開けた途端そう言ったロルフの額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
服を着ているから、四つ足ではなく二本足でここまで走ってきたのだろう。
「事件か? お前がそんなに焦るなんてよっぽどだな」
「昼から立て続けだ。犯人はたぶん同一人物。皆は吸血種の仕業と言ってる」
「なに?」
「一件目は昨晩、もう一件はついさっき。どっちも首を食いちぎられてるし、襲われたのは若い女だった」
「わかった。一緒に行く。っつわけで悪いな、坊ちゃん。酒場はお預けだ」
立ち上がって制服を軽く払うと、フェルディはそのままひらりと手を振って食堂を出た。
裏口を通り過ぎて林に出る。あたりはすっかり暗い。
一度足を止めて振り返り二階を見上げると――灯りはついていなかった。
「ロルフ、ちょっと待っててくれ。忘れものだ」
「?」
さっと食堂に戻るとハーヴェイはごみを片付けてワインのボトルとグラスを用意していた。寝室で寝酒をするつもりだったのだろう。
フェルディの脳裏に彼の白い首が食いちぎられる様子が思い浮かぶ。
何せこの隠れ家は帝都の端にあって、中心部よりも下町の方が近い。
違うと思うが――絶対にそうじゃあないとは言い切れないのだ。なにせイレアナは記憶を失っていて、自分が本来どういう生き物なのかを把握していない。
「ハーヴェイ、イレアナの部屋の鍵を確認してくれ。それとお前の部屋のもな」
「犯人がイレアナだというのか? まさか――」
「一応、だ。ま、用心に越したことはないだろ?」
「……わかった」
わからないことだらけで、何もかも疑えてくる。
だがこういう時に役立つ素晴らしいものが、人狼には備わっていた。
勘だ。
今のところ、犯人は別にいるとその勘が告げている。
「フェルディ、ひとつだけ尋ねてもいいか」
「おう」
「ハティアリ卿のことだ。彼は何故、イレアナを手放した? 彼はイレアナに、何をしたんだ」
吸血種の長・クリステア家の当主と、魔族を目の敵にしているはずの教会に所属する敬虔な信徒。
そんな二人が駆け落ちをしたというスキャンダルは、たいそう社交界を賑わせただろう。だがその顛末を正しく知っている者がいるだろうか。
結果など誰も気にしていないのだ。退屈な日常に刺激を与えてくれるスキャンダルを消費したいだけ。結局馬が合わなくて別れたのだとか、信仰の道を取り戻したのだとか、時折思い出されてはそう噂されるぐらいだろう。
もっとも物好きが現地に行って確かめようとしたって、誰も真実など話さない、話したがらない。
そのぐらい、あの事件は凄惨だった。そうなることを望んだ領民たちでさえ、口を閉ざしてしまうほどに。
一瞬よぎった当時の光景、音、においに、思わず吐き気がこみ上げる。フェルディは軽く息を飲み込んでから、できるだけ思い出さぬよう、感情を乗せぬよう、短く答えた。
「火刑になったんだ。イレアナは。領主を誘惑し堕落させた罪で、燃やされた」
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