第5話 下町にて
帝都へやってきた人狼たちが住む館は、帝都のはずれ、クリステア家が所有する森の中にある。
先々代の時代に当時の帝王から下賜された森を管理するために作られた館は、クリステア家の人間が避暑や観光に訪れることもあるため、そこそこに大きく、シンプルながら使い勝手よく設計されていた。
おかげでフェルディと共にやってきた十人ほどの人狼たちが住むには何ら不自由なく、それどころか森の中――故郷と似た雰囲気であることを、彼らはことのほか喜んだ。
「……」
ロルフもまた、館が森の中にあることを喜んだ人狼の一人だ。
街中に住み、ヒトの社会に早く慣れてとけ込んだ方がいいと言う意見もわかるが、本能が森を求めるのだから仕方ない。
伸びた木々の枝葉が陽光を遮り、鬱蒼とした中。地面に咲く一面のブルーベルに交じって座り、彼は本を広げている。
兄――フェルディと同じ、薄い金髪を涼やかな風に揺らしながら目線で追うのは、帝都で流行りの恋愛小説だった。
生まれた時から生き方を決められ、鬱屈しつつも日々を過ごしていた貴族の男が、東の果ての異国からやってきた自由奔放な歌姫と出会い恋に落ちる、というストーリーはある意味王道だが、それがまたいいのだ。
中流の女性たちに向けて書かれたそれは文体も比較的優しくわかりやすいので、さくさく読んでいける。
「……」
肉付きが良く、その大半が筋肉でどこもかしこも分厚く逞しいフェルディに比べれば、ロルフはやや貧弱に見えた。
肌は兄よりもやや青白く、体の線も幾分か細い。そのうえこんな鬱蒼とした森の中で読書なんかしているから、一見か弱く物静かな青年に見えるのだが。
「ロルフ! 町で何かあったらしい! 急いで応援に来てくれだと!」
本から顔を上げ、館から駆け寄ってきた仲間に向ける視線は鋭く冷たい。
だが仲間は慣れた様子で「好きで邪魔したわけじゃねえよ、拗ねるな」と続け、早く向かうぞとロルフを促した。
彼がパッと狼に姿を転じて駆けだしていったのを眺めつつ、ロルフは静かに立ち上がる。
細く長い不気味な影が、ブルーベルの青い絨毯の上に落ちた。
「……」
自分は、色白で細くて貧弱で。
同じ兄弟なのにどうしてこうも違うのだろうと、ロルフは未だに思っている。
兄は幼いころからその体格も性格も、何もかもが完璧で、フェンリル群の次の長になることは明白だった。
そんな兄に劣等感を抱きながらも、強く尊敬していたロルフはせめて彼の役に立ちたいと思い、自分にできることを懸命にやってきたのだ。
そんな風に、兄の背中ばかりを追いかけていたから、彼は気づいていない。
体格はともかく、彼の上背はすっかり兄を通り越しており――狼に変じた姿は、群れの誰よりも美しく威厳があって、この島最初の群れを作った伝説の人狼、フェンリルの再来を思わせるほど立派なことを。
帝都にやってきた人狼に与えられた仕事は、街の「警ら」だった。
警察の手が回らない下町など庶民の住処を、お仕着せの軍服に似た制服を着て巡回し、何かあれば速やかに警察に報告して、指示を仰ぐ。或いは警察が到着するまで対処に当たる。
あくまで人狼たちは警察の補助組織であり、警察ほどの権利は持たないのだが――そんなのは建前だ。
庶民の労働環境の改善を行った女王は、次に彼らが住む下町の治安をよくすることを目標に掲げたが、警察は帝都で起こる様々な事件を解決するのに手いっぱいで、そのうえどうしても上流階級の人間のことが優先されてしまう。
下町のことなど、構っている暇はないのだ。
故に「警ら」と言いつつ、実際は下町の警察として、人狼は巡回から犯罪の対処、解決までを行っている。
たった十人程度では手が足りないと感じることも多いが、そこは人狼持ち前の体力と機動力でカバーし、最近では人々からの信頼を得つつあった。
「兄貴はまだ捕まらないのか?」
「ああ、お坊ちゃんと行動してるはずなんだが……」
「下町にいないとなると、貴族連中のところかもしれん。ひとまず、ここは二人で何とかする。お前たちは巡回に向かってくれ。犯人がまだ近くにいるかもしれない」
「わかった」
ロルフともう一人の人狼を残して、それ以外はもう何度も歩き回った下町の隅々へと向かっていく。
まだ昼間、陽光を遮る木々もないのに薄暗い路地の奥。すでに臭い始めている死体を眺めて、ロルフは顔をしかめた。
おそらく娼婦だろう。襟ぐりの深いワンピースに、真っ赤に染め上げられた爪。だがその爪は綺麗なまま、色の剥がれもなければ、爪と肉の間に何かが挟まっていることもない。
抵抗する間もなく、一瞬でやられたらしい。ロルフはこれまでの経験から、そう予測を立てた。
傷は一か所、右の首。とは言えそこは、巨大な口を持った何かがガブリと噛みつき食いちぎったように、半円状のいびつな傷口を残している。そこにあるはずの硬い筋さえ噛み切っているから、口で食いちぎったのなら、犯人は尋常でない力の持ち主だ。
「……何か、変じゃないか?」
おそらく殺されたのは昨日の夜か今日の明け方近くだろう。下町はまだ治安が悪く、その時間帯ならば人々はしっかりと戸締りをして眠っていたはずだ。
このあたりは酒場が多く、娼婦が仕事を求めて歩くことも多い。夜になれば街灯もないこの路地はいっそう暗く――それこそ漆黒の闇と変わらなかったろう。
ロルフは胸をざわつかせる違和感に顔をしかめた。
闇の中、女の首元を狙って食らいつき、噛みちぎるほどの能力を持つヒトなんているだろうか。
人狼ではない、はずだ。古い噂を鵜のみにして勘違いしている人間も多いが、人狼はヒトを食わない。襲って殺すのは簡単だが、まずいのだ。それなら苦労してでも森の動物を狩った方がいいし、なんなら人間から家畜を買った方がいい。
だが一応、人狼全員の昨晩の行動歴を調べた方がいいだろう。
ヒトでも人狼でもなければ、残る可能性は吸血種だ。
吸血種はヒトの喉元に食らいつくように牙を立て、血を啜る。
そこでロルフは「ああ」と声を上げた。違和感の正体に気づいたのだ。
派手に首を食いちぎられ、太い血管を傷つけられた死体にしては、血が少ない。
死体はおそらく失血死したのだろうが、その分だけの血があたりにないのだ。
女が横たわる、汚れた地面。そこには深い赤が広がってなければならないはずなのに、舐めたようにきれいなままで。
「俺たちが帝都にやってきてから、吸血種がヒトを襲ったという話を聞いたことはあるか?」
「いや、ないな。昔はそんなこともあったらしいが、今は当主代理とやらがきちんと管理をしてるんだろう?」
「……」
ここに兄がいないことを歯がゆく思いながら、ロルフは考える。
もう一人の人狼――スケッチが得意な彼は現場の様子を正確に描き残すのが仕事だ――が描いたこれを持ってクリステア家に赴き、お前たちの監督不行き届きではないのか問えば話は早いのだが、ロルフは彼らが嫌いだ。
当主を――イレアナが苦しんでいるときに救いの手を伸ばさず、それどころか彼女をいっそう苦しめるようなことばかりをした吸血種すべてが憎く、同時にクリステア家に関しては蔑んでさえいた。
イレアナが望むのならと彼女のなすがまま、彼女がそれで幸せならと彼らは言うが、それは体のいい放置でしかない。本当に幸せを願うのならその手を取り、苦しみと共に戦ってやるべきではないのか、そんなこともできないくせに、何が幸せを祈っているだ、と。
「……?」
不意に背後から馬車の音が聞こえて、振り返る。
狭い路地で事故を起こさぬようゆっくりと通り過ぎて行ったのは、教会の馬車だった。
教会が庶民の救い手となって久しいと聞く。
だが、わざわざ馬車を出してまでやってきてくれるとは知らなかった。
「ロルフ、犯人らしきやつらを見た人がいたぞ。来てくれ」
「わかった」
答えながらもロルフは遠ざかっていく馬車を目で追い続ける。何か気になる気がするのだ。人狼の直感と言うやつだろう。だが教会は人狼も吸血種も、とにかくヒトの範疇から外れるモノはすべて「魔族」扱いして毛嫌いし、いなくなれとさえ思っているらしいから、彼らの仕業ではないはずだ。
では何が気になるのだろう。考えていると――
「教会の馬車が気になるのか? 乗ってるのは聖女サマだそうだ。今日は奉仕活動の日だったらしい」
イレアナが人狼に手を差し伸べたのも、奉仕活動のつもりだったのかもしれない。
枯れで食料が取れず、そのうえ病も流行った人狼を助けてくれた彼女。
聖女が同じように人々に救いの手を差し伸べているなら、彼女を崇めたくなる庶民の気持ちもわかる。
だが、敬愛するイレアナと同じだと思っても、なぜか聖女に良い感情を抱くことができないのだ。
うさん臭い、とさえ思う。会ったことなどないのに。
「聖女、か」
ぽつりとつぶやいただけで、少しぞっとした。人狼の直感が、何かを伝えているのだろう。
だがそれが「何か」はわからないまま、ロルフは殺人事件の対処に戻る。
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