第42話 最後の言葉


 雪でも降りそうな冷えた日が、この年の最後の一日となった。


 大晦日おおみそか

 大掃除をしたり、年内にしたかったことを慌てて片付けたり、昼のうちはまだ最後のあがきとばかりにアチコチデバタつく気配がうかがえていたけれど、日が沈んで辺りが暗くなってくるとなんとなく諦めにも似た静けさが漂う。

 もう時間はないから。あとは年を越すだけだから。

 納得いくまで物事を完了できた人もいれば、来年に持ち越す人もいる。やめるという選択をした人もいる。そのほとんどが、どこかしら自分の落ち着く場所に腰を下ろすような時間だ。

――大晦日の夜十時は。


 父の仕事が今日まであった三門みかど家では、大晦日は両親と蛍の三人で過ごすこととなった。とはいえいつも一緒にいる家族が集まって、延々とリビングで今年を振り返るような雰囲気でもない。

 ずっとテレビを眺めているのに飽きた蛍は、すぐに返るからと言って寒空の下に出てきていた。


 自転車を引っ張り出して、数分走らせる。向かったのは最寄りのコンビニだ。

 特に目的があったわけではないけれど、こんな日のこんな時間になにか買おうと思い立てば、使えるのはコンビニくらいしか思いつかない。特に家の近所では。


 風がとても冷たかった。空はよく晴れていて、遠くにまたたく星がよく見えた。月はどこだろう。とはいえわざわざ自転車を停めて探す気にはならなくて、いつもに比べるとかなり車通りの少ない車道を滑るように行く。


(今年やり残したこと……)


 出がけに、テレビからそんな言葉が聞こえてきていた。前後の文脈はわからない。

 けれどその言葉が蛍の胸中で、引っかかっている。


 今年はどんな年だったと聞かれれば、蛍にとっては自己嫌悪の年だった。

 大学に入ってからというもの、自分をほめたたえられるようなことはあまりに少なくて、逆に自分に幻滅することはいくらでも数えられた。

 中でも。


 心中で言いかけて。

 蛍はその思考をせき止める。

 あえて言われなくてもわかってる。そしてずっとそれが引っかかっている。


 かさぶたみたいだ。

 わずらわしい、引っかかり。


 もしそれが解消されたら、清々しく新年を迎えられるだろうか。


 そんなことを思ったせいかもしれない。


 コンビニに入ろうと自転車を停めたところで、蛍は彼女に遭遇した。


「あ」


 声に出したのは、自分だったか、相手だったか。

 こざっぱりとしたショートカットの、気の強そうなつり目の女性。

 相田光が、ホットコーヒーの缶を開けながらこちらを見ていた。


 そうこれこそ、蛍の心残り。

 今年最後にやり残したこと。

 後悔と自己嫌悪の辿り着く先。


 ファミリーレストランでバイトをしていたころ、同じ職場にいた……先輩女性だ。


「……三門だ。思い出した」


 数秒間を開けてから、相田はそう言うと缶コーヒーに口を付けた。


「久し振り」

「は……はい。お元気、でしたか?」


 まさかこんなところで会うとは、と思いながらも、その可能性はそりゃあるだろうとも思いながら、蛍は浅く頷きぎこちない問いを返す。

 今自分と相田がいるコンビニは大きな道路に面していて、この道路を大学へ向かうバスが通る。蛍が元バイト先であるファミリーレストランに雇ってもらったばかりのころ、住所が相田の住むアパートに近いという話をされたこともあった。


「近いんだっけ。家」

「は、はい」

「あ。急ぎ?」

「いえ、そんなことな」


 ないです。そこまで言葉にできない、それだけのことが無性に情けなく思えた。


「バイトやめたんだって?」


 相田がコンビニのガラス壁に寄りかかりながら、世間話の語調で言った。

 蛍は自転車を停めたそのままの姿勢で、頷く。自転車から離れて彼女の隣に並ぶのも、背を向けてコンビニに入るのも、どちらも気が進まなかった。


「はい……。相田さんは、今はバイトは……?」

「してないよ。何年だと思ってんの。春から就職」

「あ……」


 言われてみればそれもそうだ。彼女は大学四年生だ。


「もう研修も始まってるからさ。本格的に勤務ってなるまでは、足りない分は実家が仕送りしてくれるっていうんで、甘えてる」

「そう、だったんですね」

「そうだよ」


 言って、相田はまた手にした缶を傾けた。彼女の吐き出す息が雲のように白む。

 肩ひじを張らせないような、気さくな物腰だった。蛍が思う、年上の女性と話す感覚とはかなり遠い。

 こういう人だったのか、と蛍は新鮮な心地でいた。そういえば相田とは、一対一で話したことがなかった。

 彼女の猫のような目がついと滑って蛍を見やり、軽く笑う。


「だから、気にしなくてもいいのに」

「え?」


 言っている意味がすぐにわからず蛍は聞き返した。

 相田が肩をすくめる。


「私が辞めて、すぐ後に辞めたんでしょ。バイト。もしたしたらと思ってさ」


 もしかしたら、という言葉が示唆しさするものを蛍はすぐに理解できた。だが理解できたと口にすることができなかった。

 その遅れた気に代わって、相田本人が言葉にする。


「厨房で私の話してるの、聞かれたから。気まずくて辞めたんじゃないの」

「いや、それは……その。はい……」


 咄嗟に否定しようと思ったが、蛍は語気を濁しながらも頷くことを選んだ。漏れたのは小さな声だったけれど、相田に届くには十分だ。

 彼女が微かに笑うのが聞こえる。笑い飛ばすような調子だった。どうでもいいと言いたげにも聞こえたけれど、あざ笑うようにも聞こえたのは、きっと蛍の中の自分への感情のせいだろう。


 実際、相田は心底どうでもいいことのように軽く言う。


「別にいいよ。噂の内容も本当だし、言われ慣れてるし、ああいうこと」


 もし自分の心がもっと素直で、後ろめたさのないものだったなら、相田の漏らした笑みは別の音に聞こえていたのかもしれない。

 そう思いながら。蛍は掴んだままだった自転車のハンドルへ視線と落とした。

 手袋もない剥き出しの指は、冷えて感覚が遠くなっていた。


「でも……すみませんでした。相田さんのことを気味悪いとか、そんな風には思ってません。あの場のノリで、口が滑って……言い訳ですけど」


 冷たくなった指先を見つめながら、迷いながら、蛍はようやく吐き出した。

 胸の真ん中でつっかえ続けていたものだ。

 飲み込んで忘れることができないのに、声に出すこともできずにいた……あのときの後悔に対する想い。


「ごめんなさい」


 ひとりで悶々と、何度もなぞるばかりだった言葉は、声にしてみれば思いの外に軽く手短く、じわじわと苦かった。


「別にいいって」


 相田が言う。

 けれど蛍は彼女を見られなかった。喉の奥がまだ苦い。

 そんな蛍を相田のほうは見ていて、まごつくさまを一通り眺めてから、視線を遠く空へと向けた。


「ああ、じゃあさ。そうだ。桜」

「桜?」


 唐突になんの話かと、蛍は思わず顔を上げる。

 どこか遠くを眺める相田の横顔がコンビニの白っぽい明かりに照らされていた。口元にはコーヒーのスチール缶が添えられている。


「私が卒業するころ、たぶん桜が咲くじゃない。それまでそうやって、気に病んでてよ。それまでは許さないでいる」


 ただし、と相田は続けた。


「桜が咲いたら私は許すし、忘れる。三門が言ったこと」

「それは……」


 どういう意味なのか。どういう意図なのか。

 測りかねて蛍は問う。問いかけになっていない問いかけだったけれど。

 相田はそのことについて説明はしてくれなかった。


「それで気が済まないっていうんなら、そこから先は勝手にしてよ。そこまで責任持てないし」


 持ちたくもないし。そんな言葉が続きそうな言葉尻だった。

 コーヒー缶を大きく傾ける間が空いた。

 冷えたのだろう。缶から離れた彼女の口から漏れる吐息の白さは、さっきよりすっと淡かった。


「あとはそうだな。可愛くて、女でもいいって子が知り合いにいたら、紹介してよ」

「そん、なの。俺に当てなんか、ないですよ。……あるように見えますか?」

「はは、見える、見える。三門って付き合い、広く浅くって感じするし。知り合いの知り合いとかで、女の子結構知ってそうだし」


 大して面白くもなさそうに少しの間笑ってから、相田は寄りかかっていたコンビニの壁から背をはがした。

 体ごと蛍へ向き直る。

 初めて向き合った。

 思っていたより、相田の背は低く、体つきは華奢だった。


「冗談だよ。相手くらい自分で探します」


 相手というのは、男なのか、女なのか。脳裏をかすめるように蛍の中を疑問がよぎったが、すぐにどうでもよくなった。

 別にどっちもでいい。蛍には関係のないことだ。相田もきっとそう思っている。


「コーヒーなくなったから、もう行くね」

「あ……はい」


 曖昧に応答する蛍の前を横切って、相田はゆるゆると歩き出す。だが数歩も行かないうちに足を止めて、肩越しに振り返った。


「三門さぁ」


 にやり、と相田が笑みを見せた。彼女が楽しそうに笑うのを初めて見たのだと、今蛍は知った。


「初めて、目ぇ合わせてしゃべったよね」

「そう……でしたっけ?」

「そうだよ」


 自信満々に相田は断言する。蛍にはその真偽がわからなかった。

 ただ彼女のこの表情を見るのは、間違いなく初めてだと思った。

 短い間しか、場を共有しなかった人だ。知らない顔などいくらでもあるだろう。だけどこんなにも『知らない』でいたのだということに、少し驚きを覚えていた。


 たぶん驚きではない、もっと相応しい言葉があるのだろうけれど。今の蛍にはそれを見つけられなかった。


「じゃあ、よいお年を」


 今度こそ、相田は背を向けて歩き出す。

 行ってしまう。もう会えないかもしれない。

 会えなかったからといって、どうというわけでもない。親しくもない。引き留めて離すべきこともない。

 だけど、なんだか。

 引っ張られるような心地で、蛍は立ち去る背に向けて大きく息を吸い込んだ。

 空気が冷たい。


「よ……よいお年を!!」


 冷えて乾いた空気に自分の声がやけに響いた。


 ひらり、と相田が手を振る。


「声でかいよ」


 そう言ったのが聞こえた。




 コンビニでなにも買わずに、蛍は家に帰った。


 これが蛍の一年の終わりだった。

 明日から別の年が始まる。

 年の数字は変わるけど。時計の速度は変わらないし、明日は明日であってもっと遠いどこかの日にはなり得ない。


 今までがあるように。これからがあるように。


 蛍は淡々と、だがひとつ大きなものを呑み込んで。吐き出して。


 次の年を迎える。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

想輝石と奏で手の蛍 十目六子 @tomeroku_nezumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ