第41話 経験
「ただいまー」
家に誰かがいようがいなかろうが変わらない調子で声をかけて、蛍は自宅の玄関で靴を脱ぐ。
すぐに居間から母の「おかえり」という声が返ってきた。
「ごはん、おばあちゃんちで食べたんだよね?」
「うん。三十日と三十一日も、ばあちゃんち行ってくる。大掃除だって」
「あら大変。うちの大掃除もしないと」
「適当でいいじゃん。去年だってそんなに真面目にやってないんだし」
「まぁ……そうねえ。それもそうか」
とりとめのない会話を中断させて、蛍は自分の部屋へ引き上げる。
大学に行くときに浸かっているものとは違う、もっと小さな鞄をベッドの足元に放り投げて、コートを勉強机の椅子にひっかける。
それから長く息を吐き出しながら、急に呆然とした気持ちになって、部屋の中央にへたり込むように座り込んだ。
今日という日が終わるのが、異様に長く感じられた。
林龍二にブレスレットを返したあとは、本来の仕事である雑用を任命された。二階に上がれないハリの代わりに、必要な物を探して一階に下げてきて、しばらく使わないものを二階に上げる仕事だ。
まだ全部片付いていないから、残りは次のバイト日である三十日に大掃除ついでに行うことになっている。
その後に夕食として鶏ひき肉と
夕食を食べながら、ハリに聞かれた。
調石師をやってみて、どうだった。……と。
蛍はしばらく考える時間をもらってから答えた。
「信じられないような体験だったな、と思ってる。人の想いが入っているっていう想輝石のこともそうだし、その声を聞かせる調石師っていうのも……今でもすごく不思議だたって。全部夢だって言われたら、そのほうが信じるかも」
言いながら蛍は思わず笑ってしまった。
これが夢でないことはよくわかってる。この
蛍が笑った意味が、藍はわからなかったようで小首を傾げていたが、ハリには伝わったらしい。
「そう。楽しめた?」
柔らかく穏やかに、それでいてどこか
蛍は今度はすぐに答えた。
「うん。楽しかったよ。自分でもなにかできるって実感できたし。誰かになにかを任されるのも……なんていうか……ほら。その」
嬉しかった。そう言えばよかったのだろうけど、その言葉だけではまだ少し物足りない気がして言葉に迷ってしまった。
それでもハリには伝わっている。わかっているよとハリは頷く。
だけど藍はまたも違っていて、今度は囁くようなあの細い声で問うてきた。
「『その』……?」
「あ、えっと」
なんて言おう。一度迷った言葉がいつものように、喉を通って体に中に引っ込もうとしていた。
けれどそれをすんでのところで、留めることができた。
「嬉しい、と……誇らしい、かな。ちょっと大げさですけど」
「素敵ですね。誇らしい。私も、誰かの大事な気持ちを……音にできたときは。嬉しくて、よかったぁって思って……少し、誇らしい。蛍さんの気持ち……わかります」
ふふ、と笑い声を漏らして、藍は肩をすくめる仕草で照れくささを
蛍もまたつられて、はにかむような笑みを浮かべた。耳が少し熱かった。
気持ちがわかる、なんて言われると今は妙にくすぐったかった。社交辞令でしかないと思っていた言葉なのに、こんな気持ちになるなんて。
わかめと豆腐の味噌汁をすすっていたハリが、お椀を置きながら蛍を見る。
「今年のうちは、あとは片づけを手伝ってもらわなくちゃいけないけど。来年になったら、またやってみるかい?」
「え……? 調石師を?」
「もちろんそうだよ」
他になにがあると言わんばかりの物言いだった。
蛍は一拍固まったが。次の呼吸のときには、体の緊張が抜けるように、こくんとあっさり頷いてしまっていた。
頷いてから、自分の反応に気が付いたくらい反射的な動作だった。
けれどそれを
「機会が、あれば」
やってみたい。やれるだろうか。今回みたいなうまい話があるんだろうか。
わからないけど。
もう一度あの体験ができたら、今度はもう少し……今回よりもう少し、いくつか新しい感覚や気持ちに出会えるのではないだろうか。
ハリがにっ、と口角を引いて笑う。
「よし。いい子だね」
「なにそれ、やめてよ。もう大学生だってば」
おつかいのできた小学生でもほめるような言い方じゃないか、と思って蛍は茶化す。
でも本当は嬉しかった。くすぐったくて、照れ臭かった。
なんとなく盗み見るように目をやると、藍が楽しそうに笑っていた。
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