第40話 言葉


 石琴が鳴る。それにこたえるように、茶色と金色の石たちが音を返す。

 それを何度か繰り返した後に。小さくも確かに空気を振動させていた音が、不意に質を変えた。

 風の向きが変わるのに似ている。呼吸の深さが変わるときに似ている。でもどちらとも違う変化の瞬間は、ゆるりと……感覚に溶け込むように、その声を聞かせる。


「……れ、じ……」


 この声だ。

 石琴を奏で続けながら、蛍がごくわずかに息を呑む。

 ハリの作業場で何度も聞いた声だ。若い男の声。覇気には欠けるけれど、とても穏やかで優しい声。でもどこか懇願こんがんするような、強くうったえかけるような声なのだ。

 蛍にとっては、知らない人の声だ。このブレスレット以外では聞いたことがない。だけどこれが誰の声なのかはもう知っている。声は名乗ったりしないけれど、確かめる術もなかったけれど、間違いなくあの人であるとわかっている。


 もし預かったのがこのブレスレットでなかったとしても、こんな言葉を残すのはきっとひとりしかいないだろうから。


「がんばれ、りゅうじ」


 何度も聞いたあの声が、何度も聞いたあの言葉を語る。


「がんばれ。がんばれ。お前なら大丈夫。きっとできる」


 祈るように、力づけるように。声は何度でも繰り返す。

 自分と同じときに生まれたけれど、同じようには生きられなかった弟へ。

 自分が手に入れられなかったものをたくさん抱えて、陽の下を走る姿を何度も見たのだろう。その姿に羨望もあっただろう。けれどその先で、林虎一という人が願ったのは、自分もそうなりたいということではなく、輝く弟の奮闘ふんとうだった。


 その影で、弟の龍二が兄の本心が読めずに覚えていたと知りもしないで、ただただ純粋に弟が走り続けることを願っていた。


 それがこの、幾つも連なった石に込められている『想い』の全てだった。


 蛍の指が静かに石琴から離れた。

 絶えず空気を震わせていた音は止まり、誘い出されるようにして奏でられていた『声』もまた溶けるように消える。


 しばらく部屋の中は静けさに包まれていた。

 蛍はもちろん、林もハリも口を開かない。誰かの呼吸が微かに聞こえる、そんな沈黙は、ここにいない誰かの着席を待つかのようでもあった。


 なにか言わないといけないだろうか。蛍は中途半端な高さに両手を浮かせたまま、林とハリを確認する。どちらもじっと、テーブル中央にあるブレスレットを見つめるばかりだ。

 蛍は渇いていた喉に唾液を飲み込む。ごくりと鳴った音がいやに大きく感じられた。


「……以上、です」


 声を発していいのかギリギリまで迷ったけれど、蛍は大きくこそないけれどはっきりとそう言葉にした。

 それを聞いてか、林が一度瞼を伏せ、それからゆっくりと持ち上げる。


「……ありがとうございました」


 頭を下げて、そう言った。

 彼の声は毅然きぜんとしていた。

 辛そうな顔はしていなかった。悲しそうな様子もなかった。苦しそうなしわもなかったし、泣きそうな目もしていなかった。吐き出す呼吸は深く、落ち着いていて、ゆっくりと己の気持ちをなだめるようだった。


 よかった。蛍は安堵する。

 林にそういう顔をしてほしくなかった。彼に辛い思いをさせたくない。自分に機会をくれた人だ。どれほど新米でどれほど頼りないかもわからないまま、あまりにも単純に信じて、大切なものを託してくれた人なのだから。


 林の声を待つようにして、ハリは紅茶のカップに口をつけた。

 それを横目で見て、真似するように林もまた紅茶を飲む。カップを置くとまた改めて礼を言った。


「聞かせてくれてありがとう。ええと……失礼、名前はなんだったか?」

三門みかどほたるです。みなとハリの……孫になります」

「そうか、お孫さんか」


 うん、とひとつ深く林は頷いた。


「初めて見たよ。その、調石というんだったか。実際に自分の耳で聞いても、まだちょっと信じられない」


 言葉を選んでいるのか、時折迷うように発言を切りながら林はそう言った。何度か額に手を当てる。

 頭が追い付いていないのだろう。その感覚は蛍も、初めてハリに調石を見せてもらったときに味わった。


「俺も、最初はとても。信じられませんでした。自分がなにを見てるのか……」

「そうだよな。でも……君が聞かせてくれたのは、確かに兄の声でした」


 じっと。林はブレスレットを見る。


「この石の中に、今の声が……入っているってことなんですよね?」

「あ、は、はい」


 だよね、と確認の意味を込めて、蛍はハリを見る。

 その視線に当たり前のように気が付いて、ハリは蛍と林のふたりに向けて頷いてみせた。


 林は手を伸ばして、箱の中からブレスレットをまみ上げ、自分の手の平に乗せる。


「……やっぱり、信じられないな。ただの石に見える。だけど……あの黒ずんだようなのは綺麗になくなってるな」

「はい。音を完全に整えたら……いつの間にか消えてました」


 いつどのタイミングで、連なる石を濁らせていた黒ずみが消えたのか蛍ははっきり覚えていない。それよりも、聞こえてきた音に気を取られていた。


「普通はね、徐々に消えていくんですよ。調石をしていると」


 ハリが横から補足してくれる。

 へえ、と林は感心したような声を出した。


「『頑張れ』か。まさかそんなことを、今になってもまだ言われるとはな」


 やれやれ。そんな調子で林は苦笑した。


「よく言われましたよ。お前はなんでもできる。頑張れよって。重荷に感じたこともあったけど……今は、嬉しいですね。兄が応援してくれるって、素直に思えます。本人から直接聞いているわけじゃないからなのかな。不思議なもんですね」

「そういうもんですよ」

「そうです……ね」


 ハリは微笑み、林が笑みを深くさせる。

 それから、どこか遠くを懐かしむような色を浮かべて、林は蛍へ視線を向けた。


「君に任せてよかったよ。このブレスレットは、俺が大事に受け継ぎます。中に入ってるっていう兄の気持ちと一緒に」

「あ……」


 答えようとして、蛍は発しようと思った言葉を喉に詰まらせた。

 これは言ってもいいことだろうか。相応しいことだろうか。自分が口にして失礼ではないだろうか。場にそぐわないのではないだろうか。

 でも。


「ありがとうございます。そう言っていただけると、すごく嬉しいです」


 詰まらせた言葉を飲み込まずに、蛍は言葉にした。

 同時にすっと肩から力が抜けた。緊張が今更全部抜け出したかのようだ。


 本当に嬉しいと思っていた。

 林がブレスレットと、そこにあった『想い』を前向きに受け止めてくれてよかった。彼の力になったのなら、なにより嬉しいことだ。


 だってそこれこそを、この声の主は望んでいただろうから。


 林は笑みをひとつ蛍にくれると、手にしていたブレスレットを自分の手首につけた。

 左手だ。たぶん兄も左手首につけていたんだろう。これからは龍二の腕が、あのブレスレットの居場所になる。


 金と茶の珠が連なるそれを、龍二はしばらく嬉しそうに楽しそうに、懐かしそうに誇らしそうに、眺めていた。

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