テータリンク

水谷一志

第1話 テータリンク

プロローグ

 「テータリンク」という概念がある。

これは、最近になって証明された数学の理論の一部。数学上の2つの「宇宙」同士をつなぐ方法として、とある論文で「テータリンク」が用いられている。

 もちろんこれは数学上の業績であるが、これが現実の世界で起こったらどうなるのだろう?

 現実に「2つの異なる宇宙」が結びつくようなことがあったら?

 そして、それはそんな世界に挑もうとした、2人の大学生の物語。


 「すげえな、ABC予想が証明されたんだって?」

俺、上島数基(うえしまかずき)は大学の友達と話をしていた。

その内容はもちろん数学に関することだ。

「確かにすげえなこのIUT理論!この『テータリンク』の概念、マジで誰も思いつかねえよな!」

 高尚な話をしているのに、口調は完全に若者のそれ。あと俺も友達も大声かつフランクに話すので、まるで合コンのセッティングについて相談しているかのようなテンションだ。

「まあ2つの『宇宙』を設定してつなぐとか、SFだよな~!それをガチの数学に落とし込んで正しいこととして証明する…、考えただけでゾクゾクするよ!」

 俺はトレードマークと勝手に思っている黒のセルフレームの眼鏡をずり落ちないように手で上げる。そう、俺は黙っていればそれなりに「賢い」子に見えるのだ。

「だよな~俺もそんな業績、いつか上げてみたいよ」

「俺も!」

対して友達の方は明るい茶髪。どこからどう見てもチャラい兄ちゃんだ。しかし、この友達、そして俺が所属しているのは東京大学理学部数学科。まあ自慢ではないが、ここ日本の最高学府である。


 そんな俺はただ今田舎から出てきて下宿中だが、その下宿先に持ってきている物がある。

それは、俺がまだ小さい頃に親に買ってもらった「図解数学」の本だ。

 その本との出会いは…、これは大げさではなく、俺の人生を変えた。

 俺はそこに書いてある数学の不思議さ、魅力に完全に取りつかれた。

「父さん、母さん、俺、将来は数学者になりたい!」

 そこから俺は、猛勉強した。その勉強は本当に楽しくて、楽しくて…。俺は学校の授業や自習などで新しい公式や証明、また解法を見る度にワクワクした。それは俺にとっては年頃の男の子が興味を持つゲームなんかよりよっぽど魅力的なもの。そう、数学は俺にとっては問題を解き明かすゲーム…またそれだけではなく、人類の歴史が始まってから存在している、先人の知恵の結集。俺は数学を勉強する度に、問題を攻略する面白さに痺れ、またそんな歴史の奥深さを考え壮大な気分になった。


 そしてそんな勉強は高校生になってからも続いた。思春期真っ只中の周りの高校生は、やれ恋愛だ、やれ遊びたいなど言っていたが、俺にはそんなことはどうでも良かった。

『俺は彼女より、自分で編み出した新しい公式が欲しいんだよ!』

俺はそう公言し、何度友達にバカにされたことか。


 しかしまあそんなこんなで東大に俺が受かった時、俺は心底喜んだ。もちろん両親も俺の夢を応援してくれ、涙を流してくれた。

『ここからが俺の研究人生のスタートだな!』

俺はそう胸を熱くした。


 「おせーな数基!今日もディスカッションするぞ!」

今日は講義がない休日だが、俺たちは東大駒場地区キャンパスの、理学部数学科の研究棟に集合する。この東大のキャンパスはとてもレトロな雰囲気で、まるで明治時代かどこかにタイムスリップしたかのようだ。…つまりは、一般的な「東京」の若々しい雰囲気とは異なる。まあ俺は口は悪いが数学の研究にしか興味を持っていないのでそういったことはどうでもいい。ただ「勉強に集中できる雰囲気か?」と訊かれれば、「そうだ」と答えるだろう。


「悪りぃ悪りぃ。それで今日のテーマは?」

「そんなの決まってるだろ!今日もABC予想、それからIUT理論だよ!」

日本の教授によって証明されたABC予想、またその理論であるIUT理論に、俺たち数学を志す者は完全にハマっている。

「俺もこんな証明ができるようになりてえよ」

俺は最近、この話をするといつもこう口癖のように漏らしている。

「数基最近そればっかじゃねえか?」

そしてそれを友達にイジられるのが日課となっていた。


 そんなこんなの研究生活を送っていた俺がその異変に気づいたのは、ABC予想が証明された直後。

 それは最初は小さな「異変」だった。

 …何か、空気が違う。俺は田舎から出て来て東京の空気に完全に馴染んでいたわけではないが、呼吸する酸素の味がどことなく今までと違う気がする…と言ったら大げさか。

 そして、見える景色が違う。これも俺は完全に東京の人間になったわけではないが、何かレンズ越しに街並みが見えている…ような気がする。その異変に気づいた後も俺は通学していたが、もちろんキャンパスのある場所、また建物の形は同じだ。…しかし、やはり空気が違う。物の見え方が違う。まるで俺の周りを無色透明の物体か何かが覆っているかのように、呼吸がしにくい。物が見づらい。これは…、俺が病気にでもなったのだろうか?


 そしてもう1つの異変。それは俺がその周りのおかしさに感づいた直後のこと。…俺のスマホに、突如「波形」が浮かんでいたのだ。


 その「波形」はスマホのトップ画面に現れ、ちょうど心拍数を表すかのように波打っていた。

『これ…、やっぱりおかしい!病院と携帯ショップに行った方がいいかもな』

 俺がそう決心すると、スマホに勝手に地図が表示される。

 それは波形と共にそこに出てきた物。

『何だこれ…?』

 その時、俺の頭はそれを「おかしい」と判断したが、俺の足はなぜか脳の命令を聞かない。足は地図に操られたかのように、電車の方へと、地図が指し示す方へと向かう。

 それは、ちょうど講義が午前中で終わった日の昼下がりのこと。

 そこは普段の俺が行かない場所…、原宿、竹下通りだ。


俺は原宿のごみごみした感じが苦手だ。俺はどちらかというとキチンとした格好が好きで、古着なんかは「本当にオシャレなのか?」とさえ思っている節がある。

案の定、そこはストリートファッションの聖地で、奇抜な格好の若者がたくさん出歩いている。

しかし、と言うかやはり、俺の違和感は拭えない。

俺の呼吸はやっぱりとりづらい…これは町の雰囲気によるものではない。明らかに何かがおかしい。

そんな思いを抱えながら、俺は原宿駅を降りて竹下通りを歩く。すると…、何かを探している風の女の子が一人。

その女の子を俺が見た瞬間…、俺のスマホが激しく振動する。

「あっ…、見つけた!」

 それが、俺と島田玲奈(しまだれな)との出逢いだった。


「…えっ!?」

俺が動揺している間、その子が同じように振動したスマホを俺に見せる。

「ねっ、見つけたでしょ?私は島田玲奈!アンタは?」

「見つけたじゃ…ねえよ」

尚も俺が動揺を隠せずにいると、

「もう~素直じゃないなあ!女の子が名前を言ってるんだから、あんたも名前言いなさいよ!」

 その女の子は茶髪のロングヘアで、いわゆる「女子大生」と言った雰囲気であったが…、顔をよく見ると気が強そうだ。その目は決して大きくはないものの、睨まれると少しビビッてしまいそう…相変わらず口悪いな、俺。

 ただその子は透き通るような白い肌。それは女の子らしい、と言えばそうである。

「俺は…、上島数基だけど、ってか何でスマホ振動してるか知ってんの?」

「何かなこれ…!?もしかしてマッチングアプリとか使った?」

「いや使ってねえよ!ってかそっちも振動してんならそっちが使ったか?」

少し笑いながら言うその子にそう言って俺がその場を立ち去ろうとすると…。

「じゃあ、テータリンクってヤツ?」

「えっ…!?」

俺はその言葉を見逃さない。

ちょうどヘビがカエルを獲物としてロックオンするように、俺の意識は完全に島田玲奈のその言葉に向けられる。いや睨みを利かせて恐いのは向こうの方だが、そこは気にしない。

「いやテータリンクみたいに、2つの知らない世界がくっついた…みたいな?」

「何でその言葉知ってんの?」

俺の目は数学関係のことになるとキラキラ輝く癖がある。ただいつも俺は眼鏡をかけているので…、その恥ずかしい輝きが今回は隠れてくれているように祈りながら、また平静を装いながら俺は訊く。

「だって私、数学大好きなんだもん。ABC予想を解決したIUT理論のことならもちろん知ってるよ!」

「実は俺も…、数学すっげえ好きなんだ!」

俺は明らかに興奮した面持ちでそう言ってしまう。

「本当?良かった数基!」

何気に呼び捨てにされた俺だが、そんなことは気にならなかった。

「お、おう!…えっと」

「私のことは玲奈でいいよ!」

「…玲奈」

「…アンタもしかして女の子の名前呼び慣れてない?」

「いやまあ、その…」

「数基って見た目は全然悪くないのに…、でもその眼鏡は余計かな?」

「うっせえほっとけよ!」

「まあいいや。数基、ちょっとあそこで話さない?タピオカもあるし…ねっ!」

「いいよ」

「もちろん数基の奢りで!」

「分かったよ」

テータリンクにつられた俺はまんまと奢らされるハメになった。


 「へえ~数基って賢いんだね!」

「玲奈も話聞いてると賢いみたいだな」

俺は数学のこととなるとついつい饒舌になるので、俺が東大に通っていることを話してしまった。対する玲奈も話の中身を聞いてると相当賢い。大学は…、早慶かどこかだろうか?

「まあね!でも大学名はまだ秘密」

「俺は言っちまったんだけどな」

「いいじゃん!秘密が女の子を女の子にするんだからっ!」

どこかで聞いたことのある台詞を玲奈が口にする。こういった所はちょっとかわいい…でも玲奈はおそらく友達の間では姉御肌なのだろう。タピオカを飲む時の顎の上げ方とかを見てるとそんな気がする。

「で、数基は数学のどの分野の研究をしたいの?」

「…それ、ずっと迷ってたんだけど、俺最近素数に興味持ってんだよね」

「いいねえ!ABC予想とも関係あるじゃん!私も研究者目指してんだけど、私は複素数かな」

「おお複素数!いい感じだな!」

「そうそう素数って虚数で砕けるヤツと砕けないヤツがあるよね!」

「ああガウスの整数で因数分解みたいなことができちゃうヤツの話?」

 そう、素数には複素数的観点から言うと2種類ある。積に分解可能な物、分解不可能な物。やっぱり玲奈は数学に詳しい。

 俺がそう感心していると、

「数基、アンタの心はどっちかな?」

「…は!?」

「私の心で、砕ける、砕けない?」

「…何言ってんだよ!」

 俺は急に恥ずかしくなってそう少し大きめの声で返す。

「アハハ!これ以上の追及は止めておこっか!」

顔が赤くなっているであろう俺を見て、玲奈は思いっきり笑った。


 こうやって玲奈と話していると何気に楽しくて忘れてしまいそうであったが、やはりさっきから感じている違和感は消えない。ここは、日本の東京。…の原宿、のはずだ。しかし呼吸はしにくい。それに街の光加減がどこか今までと違う気がする。ここは本当に今までと同じ太陽に照らされた東京なのか?「東京」風の異世界に、俺は迷い込んでしまったのではないだろうか?


 「ちょっと数基、聞いてる?」

「あ、悪りぃ」

どうやら俺は少しの間ボーっとしてたらしい。…あと、俺と玲奈のスマホ。玲奈も俺もとりあえずそれをテーブルに置いているが、どちらも激しく振動している。もちろんバイブレーションだがその音がテーブルに伝わって振動して周りが迷惑しないか心配なくらいだ。そして画面には謎の波形。これは…、何を意味しているのだろうか?


 「数基、せっかくこうして出会えたんだしさ、今度一緒にどこか行かない?」

「おっ、いいね!」

そんな俺の思考はその誘いのせいでいとも簡単に吹き飛んでしまう。考えてみれば、島田玲奈は見た目はかわいらしい。…ちょっと睨まれると怖いが。それに俺とは話がとても合う。

「…じゃあ、連絡先交換する?」

「でも…、その必要なさそうだね」

 玲奈が2つの震えるスマホを見ながらそう言う。…玲奈は、この波形の秘密を知っているのだろうか?だとしたら俺の違和感も?

「じゃあさ、今度の休み、国立新美術館行かない?」

「…いいよ」

「やったあ!」

 俺は美術にはそんなに興味はなかったが、不思議と玲奈がアートを見る姿を見たくなった。玲奈には数学だけでなく、アートも似合う。…何か玲奈が食い入るように絵画なんかを見つめる姿が想像できて、それを見ている俺も想像できて…。そんな姿が可笑しくて、何となく愛おしい…。

 俺は瞬時にその恥ずかし過ぎる思考を頭の中の押し入れの奥の方にしまい込む。

「じゃあ今度、乃木坂駅集合ね!」

「分かった」

 こうして俺たちは2度目のデートをすることになった。


 俺は玲奈にもう一度逢うために、東京メトロ千代田線に乗り、乃木坂駅を目指す。

 そこは今まではそれほど有名な駅でもなかったが、現在は某有名アイドルグループの名前の由来になっており、俺が駅に到着し電車を降りると、そのグループのファンと思われる人々が何人もいて、「乃木坂」と書かれた駅の表示を記念撮影したりしていた。

 また、俺はそんなに詳しくはないが俺たちが行く予定の新国立美術館も、そのグループのアルバムのジャケット撮影に使われたらしい。…ということは館内にもファンは多そうだな…、俺はそう勝手に予想し6番出口を目指す。

 「あっ、遅いよ数基!」

「悪りぃ」

するとそこには既に玲奈がいた。


 「私、今日ホントに楽しみにしてたんだ!」

「あ、そう?」

駅から美術館までの少しの道、俺は玲奈にそう言われ努めてクールに返す。

「数基は楽しみじゃなかったの?」

「ま、まあまあかな」

「もう、素直じゃないなあ~!」

 俺は体の中の心臓の鼓動を悟られないようにするので精一杯だった。…思えば、俺は数学以外でこんな気持ちになったことはあっただろうか?

「俺は元から素直じゃねえんだよ」

「あれ?じゃあさっきの認めてる?」

「うっせえな」

そう言う玲奈は目を細めてニッコリしている。俺のこの気持ち、心臓の鼓動を玲奈も共有しているのだろうか?

 …そう言えば2人のスマホは相変わらず振動し波形も健在だが、その波形、振動は前回に比べて弱くなっているように感じる。これは気のせいだろうか?

「着いたね」

「おう」

俺たちは美術館の中に入る。


 その日、国立新美術館は「ウィーン・モダン」の企画展が開催されていた。そして、クリムト、シーレなどの画家の作品が、煌びやかな印象を残して置かれてある。

「こう見えて、私絵画めっちゃ好きなんだよ!」

そう言う玲奈の目はそんな作品群を見てキラキラ輝いている。

 しかし、その横顔には楽しさだけではなく、どこか悲しさが含まれているような気がしたのは…、俺の気のせいだろうか?

「俺はそんなに絵画は詳しくねえけど…、こうして色々見てると勉強になるよ」

これは、名画を見た時の俺の偽らざる本心である。特に俺はクリムトの描く女性像に惹かれた。それらはもちろん数学的均整はとれているが、それだけではない情熱、数字を超えた情熱が作品からは感じられた。もちろん俺は日頃は数学を扱っていて、その数学的な美しさを日々求めているようなものだ。しかしクリムトを始めとした絵画にはそんな数字で割り切れるものではない、人間の美しさ、人間特有の美に対する意識なんかが感じられ、俺はそれに感動すると共に、普段の感覚とは違う感覚に新鮮さも味わっていた。

 

 するとその感動は玲奈にも伝わったようで、

「数基、アンタ本当にいい顔してるね!」

俺はそう言われた。


 「今日は本当に楽しかったね!」

「そうだな!」

俺たちは絵画を見た後館内のカフェでゆっくりしていた。

 そして話す内容は絵画の感想…からまだよく知らなかったお互いのことまで、多岐に渡った。

 その間、スマホは振動し、波形も未だに存在していたが、その振動は弱くなり、また波形も小さくなっている。

 また俺が当初感じた呼吸のしづらさはまだ残っているが、それも徐々に薄くなっているように感じた。

 そして、玲奈の表情には切なさが宿る。…もちろん、俺がそんな気がしただけだが、何度も何度もそんな気がすると言うことは、それは本当なのではないだろうか?

 …そんなことを考えていると、玲奈が少し重そうに口を開く。

「数基、今日はホントに楽しかった?」

「もちろんだよ」

「これからも、私と逢ってくれる?」

「玲奈が良ければだけど、俺はまた玲奈と一緒に過ごしたいな」

「ありがとね、数基。…でも、私たち、あと少ししか一緒にいられないんだ」

「…えっ!?」


 そこから、玲奈の説明が始まる。

「数基、今まで私と過ごしていて、いやそのちょっと前から、何となく息苦しさとか感じてなかった?」

突然の的をついた発言に俺は戸惑いながら、

「…感じてたよ。でも何でそれを?」

と返すのが精一杯だった。

「それ…、実は私が原因なんだ。数基が今いる『東京』は、数基が住んでいる『普通の東京』とは違うんだよ」

「…どういうことだ!?」

「ここは、私たちが住んでいるパラレルワールドの東京。だから街の外観とかは一緒だけど、空気の感じとか、微妙に数基の東京とは違うでしょ?…って言っても私は数基の東京にはちょっとだけ足を踏み入れただけだけど」

「…でも何で玲奈がそれを…?」

「知っているか、だよね?それは…、その『パラレルワールド』につながるゲートの数式を解いたの、私なんだ」

 あまりの展開の意外さに俺は口をあんぐり開けそうになる。

「数基はABC予想の話が好きだから、『テータリンク』については知ってるよね?こっちの世界では、あんな風に『外の世界』があることは早くから知られてたんだ。そこは数基たちの世界とは違う所だね。でも、その2つの世界をつなぐ『数式』が発見されていなかった。…それでこれは数学だけでなくて物理にもつながることだけど、その宇宙と宇宙をつなぐ数式、私は昔から興味があって、それを本業の研究以外にもやってたんだ。そうしたら…、ついにその数式、見つけちゃった!それでそれをスマホに入力すると…、スマホが急に震えだして、私は数基たちの住む世界に行った、ってわけ」

「なるほど…。そんなことがあったんだな」

未知の公式を見つけるということは、本当に楽しいものだ。俺は玲奈の語る信じられないような事実も、その一点を頼りに飲み込むことができた。

「でも私はその後すぐに私のいる元の世界に戻ったんだけどね。それで、たまたま原宿に行ったら…、数基、アンタを見つけた。アンタのスマホは私とおんなじように振動していて、それで数基の世界に行った時の私とおんなじように呼吸がしにくそうにしていて、だから私はアンタが『向こうの世界の人』だってこと、すぐに分かったよ!」

「そっか」

「でもこの数式、まだ完全には解明されてないんだ。だから効力があと一日ぐらいしかもたない。だから…、私たち、あと少ししかいられないんだ」

「そんな…」

その説明の部分で、俺には込み上げてくるものがあった。

「もう一度訊くね。数基、私といて楽しい?」

「…好きなんだよ」

「えっ!?」

「俺は…、玲奈、お前のことが好きだ。前に玲奈、俺の心が玲奈の心で砕けるかどうかって訊いたよな?」

「うん…」

「今俺の心、完全に砕かれてるんだよ。…素数とおんなじように、今までだったら『砕けない』って俺は思ってた。数学以外じゃこんなに夢中になれることないって思ってた。でも違った。ちょうど虚数みたいに、俺は玲奈を見つけて自分の新しい面を知ったんだ。

俺はこういうこと得意じゃないし、柄じゃねえけど…、こういう気持ちになったのは初めてなんだ。だから、玲奈、俺とずっと一緒にいて欲しい」

「えっ、でも…」

「俺だって数学を志してるんだ。ゲートがふさがっちまうなら俺がもう一度開ける。それで、今度はずっと行き来できるようにするから!」

「数基…」

「それで、玲奈は俺のこと…、どう思ってるの?」

「私も…、数基が好き!」

「良かった!」

「でも明日が最後の一日になっちゃうかな…。数基、行きたい所、ある?」

「そうだな…、玲奈がこの世界、案内してくれよ!」

「分かった!じゃあ私のおまかせコースだね!」

そして、俺たちは最後の一日を過ごすことになった。


「でも…、最後のデートが代々木公園ってベタじゃね?」

 俺はついついそう感想を漏らす。

 俺たちの最後の一日、今日は玲奈が俺たちとは異なる「この世界」を案内してくれる日。

「まあ、そうだけど…。でもここ、呼吸はしやすいでしょ?」

「確かにな」

 呼吸もそうだが、俺のスマホ、また玲奈のスマホの波形は確実に小さくなり、振動は弱くなっている。これはやはり俺たちの日が終わりに近づいているということだろう。

 俺が少しそれを気にしてブルーになっていると、

「そんなマズいもの食べた顔しないの!今日は楽しも!」

「別にマズいもん食べた顔じゃねえよ!」

「いいから、ね!」

「そうだな!」

 俺のマインドは玲奈の方程式で修正された。


 この季節、少し暑いのだが、代々木公園の景色は俺の知っているそれに近かった。こんな緑に囲まれた並木道を歩いていると、新しい定理の発見や思索が進みそうだ。部屋に引きこもってるばっかりじゃなく、たまには日の光を浴びての散歩もいいもんだと心から思う。

 ただ目に映る景色は俺の世界と全く同じと言うわけではなく、例えばそよ風の当たり方なんかは玲奈の世界の方が柔らかな気がする。

「私、数基の世界に入って、そよ風にびっくりしたんだ」

玲奈も同じことを感じていたのだろう、そのことに俺が少し嬉しくなると、

「数基の世界のそよ風強過ぎて、台風かと思っちゃった!」

「おいおいそれはないだろ!」

「冗談だって!」

そう俺たちは言い合い笑う。

「でも数基の世界の方が空気は濃い気がするよ!」

「だろうな。呼吸しにくいのはそれもあるかもな」

「私は空気が濃すぎて酸素マスクつけてるかと思った」

「それも冗談?」

「半分はホントだよ~」

そう言って玲奈は俺を睨む。その顔は恐いが目つきは前に比べてそれほど鋭くなかった。

 そこに、悲しみの色を見出したのは…、決して気のせいではないであろう。

「それでね、私の大学だけど…、実はこの近くにあるんだ」

それは、俺の世界との大きな違いであった。


 そのキャンパスは俺が通う東大に似た雰囲気で、レトロな質感が漂っている。ただ理数系に特に力を入れているらしく、研究棟などは東大に比べて新しい雰囲気の建物で、近未来的要素も兼ね備えている。

 そこで俺たちは…、大好きな数学について語り合った。彼女の目指す研究者像。俺の目指す研究者像。もちろんこの2つの世界をつなぐ「テータリンク」のような数式をどうやって見つけたか。そして、異なる2つの世界の間に共通する「数学」という学問の未来…。

「ああ楽しかった!もうこんな時間か」

玲奈が時計を見る。時間は夕方5時に迫っている。

「そろそろ、この『テータリンク』が終わる時間なんだ。だから、私たちは一旦、お別れしないといけない」

「一旦…、だよな?」

そのワードに、二人が口にしたワードに俺は力を込める。

「もちろん!今度はアンタが完全な数式を見つけるんだよ!それで、2つの世界を完全につないで…」

 睨みを利かせると恐い目から、光る物が見えた。それは俺たちの感情の高まり。…もしかしたら、数字では表せないものかもしれない。

 そして俺はそんな彼女を優しく抱き寄せる。

「当たり前だろ!俺は一応俺の世界の最高学府にいるんだ。できないことなんてねえよ」

「ホントに?」

「ああ」

そこで彼女は笑みを見せる。

「だって…、『数基』だもんね!『数』を操るの得意だもんね!」

「もちろん!」

 俺もうるうる来るものはあったが、とりあえずの最後は笑って終わりたい。

 すると俺のスマホの波形はどんどん弱まり、今にも直線になってしまいそうだ。また振動もか細くなっている。

 それは、玲奈のスマホも同じ。

そして夕方5時を迎えようとする所…。

「またね数基!できれば一週間ぐらいで、数式見つけるんだよ!」

 そう言う彼女の姿も薄くなっていき、周りの空気も元に戻っていく。

「ああ、なるだけ努力するよ!」

相手から見たら、俺の存在も消えかかっているのだろう。そして、…ちょうど5時。

「バイバイ!」

「またな!」

そこにあったはずのキャンパスは消えてなくなり…。

気づけば、いつもと変わりない代々木公園だけが残っていた。


エピローグ

 俺は心に決めたことがある。

それは、俺たちの短い時間が終わってから決めたこと。そして、俺たちの未来のために決めたこと。

将来絶対に立派な数学者になる。新しい定理をバンバン発見できる、立派な数学者に。

そして、俺たちの世界を繋いだ、『テータリンク』に近い数式を完全な形で発見する。

そして最後に…、彼女、島田玲奈を絶対に迎えに行く。  (終)

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テータリンク 水谷一志 @baker_km

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