三月の雪 巡る季節に告ぐ言葉

月平遥灯

三月の雪 巡る季節に告ぐ言葉

 儚くも散る桜は雪のように。


 春色の陽だまりの中に振り返る君はとても、とても切ない表情をしていた。酷く傷ついた君の背中を望めば、いつか降り出す曇天の雨のように。ぽつりぽつりと泣き出す君に僕は憂慮を抱く。


 訪れた刹那の出会いに、霹靂のごとく脳裏に焼き付く君を忘れることができなかった。銀杏舞い散る深い蒼天の色に、染まる心は覆い尽くされ、割れてしまいそうな薄い初氷の恋心に僕は嘆息する。



 辛い。もう気持ちを伝えよう。



 風が華やぐかぐわしき季節は、彩る草木に感ず芽吹めぶく春。君と出会った季節に、僕は決心を固めた。桜と梅が薫りてゆ朝に、華やぐ春色の花弁が地面まで彩る。

 



 僕が君に捧げる初めての言葉——君が好きだ。ずっと一緒にいて欲しい。


 君が僕に告げる初めての言葉——一目惚れでした。ありがとう。これで一緒にいられるね。




 そして、抱きしめる。強く。優しく。その熱に愛おしさを感じて。




 季節巡れば、君の癒えた傷に安堵をし、囲炉裏のようなじんわりとした優しさが僕と君の気持ちを結んでいく。



 僕のとなりに座る君の髪は長く、とても美しい——なんて言うのは簡単だ。しかし、そんな言葉で表すには、幾分納得がいかない。

 淡いパステルで描けば、一つ一つの線が途切れることなく毛先に伸びて、しっとりとした質感と幻想的な色合いにため息しか出ないだろう。


 君の肌は、初雪の積もった湿原から顔を出す溝蕎麦みぞそばのように薄い濃淡で描かれていて、触れたらきっと手に吸い付くのかな。長い睫毛まつげと、桃花色をさらに薄くしたような唇が、僕の肺の奥底を締め付ける。僅かに開く唇の奥から漏れる吐息が、僕のモノクロームの視界に色を付けていく。華奢きゃしゃな指先は、握ったら壊れてしまう氷細工のように儚い。それでも握りたくなってしまう。


 僕の肩に額を置いた君の香りは甘い、すごく甘いストロベリーのようで、鼻先をかすめた蜜の雫の残り香は、僕の身体中の神経を麻痺させる。伝達される信号がすべて、彼女に集中していて、僕に呼吸すら忘れさせる。逆流していく血液が、心臓を過ぎるころには沸点に達したのだろうか。熱を帯びた全身が、君を見るたびに消耗していく。それなのに、冷たく流れ落ちる背中の汗は、流星のように消えていった。



 僕の首の後ろに手を回した君は、耳元で優しくささやく。




 ずっと——にいて、——して。




 包み込む君の体温が優しく僕を撫でていき、僕は柔らかい君の感触を締め付けたくなる。いじわるをしたいわけじゃなくて、魂が僕の殻を抜け出したいのだ。抜け出した魂は君の中に入って、一つに交わる。そうして、果てぬ欲望に身を焦がして、僕は君と一つになる。だから、きつく締め付けたいんだ。君の華奢な身体が折れてしまわないか心配ではあるのだけれども。



 俯いた君が顔を上げると、潤む瞳が僕の視界を奪っていく。太陽の下で育まれた大輪の向日葵のような瞳は、一見すると月と太陽が交互に浮かぶ水面を映す硝子玉のような印象も併せ持っている。君を食べたい。その肌も、瞳も、美しい唇も。つまり愛おしい。



 君の首の後ろに腕を回して、僕は見つめた瞳を逸らすと、ふと思い出した。なぜ僕はこんなに君を好きなのか、と。それは、あの日、僕がこうして君と抱き合っていたからだ。




 言っていたね、結婚しようって。でも君は唇を噛んで、少し間を置いてから呟いた。




 ————好きなだけじゃ結婚なんてできないの。




 朝日に透ける桜の花びらが、春色を告げて、風が吹けば辺りが桃色に染まる少し暖かい日。僕たちはいつものように散歩をしていた。君をどうしたら幸せにできるか、なんて考えていた。桜なんて目に入らなかったよ。どこかでさえずる美しい声色は、どんなに数えても巡る季節からして、永遠に聴くことは叶わない。それはすごく寂しいことだ。



 夜のとばりが降りた蒸し暑い初夏。星を観に行った帰りに車の中で呟いたことを、今でも鮮明に覚えている。わたしたち幻想的な夜に祝福されているね。星降る夜なんて、よく言ったものだ。流星群は、君の瞳の中で線香花火のように跳ねていて、僕は君の瞳越しに見ていたのだよ。気付いていたかな。蛍の飛び交う森の中で、君とキスをした。すごく甘くて、暖かくて、少しだけ————切なくて。



 ひぐらしが泣いていて、少し寂しい気持ちになった夕暮れ時、はじめて訪れた街で戸惑いを隠せなかったね。田舎に移り住んだ僕を訪れた君は、買い物に行ったきり、戻ってこなかった。慌てて迎えに行くと、道に迷っていた。不安そうな君の顔は、今では佳い思い出だよ。僕の姿を見つけた君は、力強く僕を抱きしめた。僕は優しく抱擁した。無事に帰ってきてくれてありがとう。



 雪にまみれた一日は、少しだけ外に出たね。丸めた雪を僕に見せて、冷たいって言って笑った君は本当に可愛かった。毛糸の帽子もマフラーもすごく似合っていて、唇を重ねた時には、やはり冷たかった。家の中に入って、またキスをして。外は寒かったけれど、家の中は暖かくて、身体を寄せ合うと汗ばんでいたね。窓に両手を張り付けて景色を見ていた君は、窓に書いた絵がとても下手だった。それを口に出すと頬を膨らませて怒っていた。でも、じゃれ合ううちに、また抱きしめたくなってキスをする。この繰り返し。なんて暖かい冬なのだろう。




 君はいつでも美しくて、可愛くて、僕の自慢の彼女だった。誰にも渡したくない。いつまでも僕の傍にいて欲しかった。




 ————余命一年です。




 僕に下された判決は思ったよりも長かった。めぐる季節がどれも蜃気楼のようにぼやけていって、やがて消えてしまう前に、もう一度君と巡りたい。そんな想いを抱いた淡く切ない夢のようなとろける黄昏時に、君は僕に言った。




 ————結婚しよう。




 好きなだけじゃ結婚できない。そう言ったはずの君が告げる言葉。なんで今更そんなこと言うの。僕と結婚なんかしたって、僕はいなくなってしまうのに。でも、君を失いたくない。



 助けて。怖いよ。助けて。死にたくない。助けて。僕の傍にいて——このままずっと。




 初夏の頃、ざあざあ降りの雨の中、君は紫陽花を見に行きたいと言っていた。雨が止んだ水無月のはじめ、青い紫陽花に雨の雫がしたたっていて、僕は君に訊いたよね。紫陽花を見られるのも最後かな、と。でも君はかぶりを振って否定した。きっと優しい嘘なのだと僕は思ったけど、君を悲しませたくないから笑ったんだ。


 秋の中頃、月を見ながらすすきを飾った日、はじめて君は泣いた。僕の肩を抱きしめる、涙で濡れた頬が愛しくて、僕も思わず泣いてしまった。冷たくなってきた風がなんだか気持ち良かったのは、きっと秋を感じ取れたからなのかな。田舎では田んぼの稲刈りが終わり始めて、わらだけが残る土地が少しだけ寂しかった。


 冬になると、僕は痛みをこらえるのに必死で、なにもできなくなった。君はそんな僕のとなりにずっといれくれて、手を握ってくれたね。嬉しかったよ。窓の外に降る雪を見ながらクリスマスができるなんて、夢のようだった。ケーキの蝋燭ろうそくに火をつけようとしたら、縁起が悪いからって、火をつけない蝋燭を差したよね。それってやはり変だよ。




 冬の終わりに僕は入院した。きっともう長くはないのかな。それでも、君は僕に寄り添ってくれて、暖かく見守ってくれたよね。




 ————結婚しよう。




 君はそう言って、僕の薬指に指輪をはめた。お揃いだよって。泣きたくなんかないのに涙が出てきて、その日は一日中泣いた。でも君は泣かなかった。綿菓子のような雪が舞っていたのに、すごく暖かかった。




 三月みつきの雪は少しだけ湿っぽいことに気付いた。




 僕は君に何がしてあげられただろう。もっと、楽しいことや嬉しいこと、いっぱいしたかった。隣にいて当たり前だとずっと思っていたけれど。当たり前のことなんか全くないんだ。毎日が奇跡の連続で、その奇跡の上に僕たちは成り立っている。ちゃんと言葉で伝えないと、絶対に後悔する。だから、今から気持ちを伝えるよ。




 好きだよ。出会った頃よりも、ずっとずっと。

 愛している。今までも、これからも。ずっとずっと。



 僕がいなくなっても泣かないで欲しいな。泣き虫の君のことだから、きっと泣いてしまうのだろうけど。



 僕の首の後ろに手を回した君は、耳元で優しく囁く。



 ずっと一緒にいて、キスをして。

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