04(終)-机上のヒーロー
おれは事務所のパソコンに向かい、書類作成に勤しみながら、ふと、あることに気が付いた。
いつのまにか、広がり始めていたあの腹痛が、すっかり消え失せていた。
昨日の夜から変わったことと言えば、ハルカの三者面談をしたことと、塾長の――いや、既に塾長と呼ぶのは相応しくないのかもしれないが――彼女の言葉を思い出したことだけ。そのどちらかが、あるいは両方が、おれに良い影響を及ぼしたのだろうか。
「ふうっ」
おれは書類を一つタイプし終えると、プリンターにコマンドを送った。右手の方で、キヤノンのプリンターが唸りを上げ始めるのを確認すると、背もたれにどっかりと背中を預ける。
天井を見上げたおれの顔を、上から、田辺が覗き込んだ。
「うわっ。なんすか?」
「疲れてないかなーって思ってっ」
「いえ、大丈夫ですよ」
「ほんとに……すごい働いてますよね」
おれは腹の底から楽しい気分になって、にやにや笑いながら起きあがった。プリンターが、刷り上がった原稿を吐き出している。細長い手を伸ばしてそれをつまみ取り、レイアウトを確認する。まあ、悪くない。書類の見た目に無闇に拘る社長は、文句を言うかもしれないが。書類なんてのは情報が伝わればいいんだ。内部文書の見栄えを良くする意味がどこにある。
「ま、こんな時ですからね」
「へえー。すごい、大人だ」
田辺は白々しくそんなことを言う。彼女は白々しい口調がふつうなのだ。彼女がおれを評して、高圧的な口調が榊先生のふつうなんですよ、とよく言うが、それと同じ事だ。本心から感心しているのだろう。そう思っておきたい。
「塾長ひどいですよね。榊先生に全部押しつけて」
おれは肩をすくめた。正直に言って、こう仕事が山積みになるのは苦しい。そのことで塾長を恨む気持ちも少しはある。だが、田辺に先に言われると、不思議とおれの恨み辛みは薄れていくのだ。
「塾長のクラスの授業報告書、全部真っ白だったみたいですよ。仕事ばっかりでまいってたってのはわかりますけど、でもそれは別にして、報告書とかは先生やってる以上ぜったいちゃんとすべきですよね。そのせいで長谷中先生、引き継ぎもできなくてすごい苦労してるんだから」
「まあ……ね」
「なんかね……塾長、もう社長の顔見たくないからって、弁護士間に挟んで交渉してるらしいですよ。あー言っちゃったっ。あたし口が軽いからっ」
苦笑しておれは次の原稿をタイプしにかかる。これは生徒の保護者に送る、案内の手紙。こういうのは、きちんとレイアウトに気を付けねばならない。
「しょうがないですよ。ぼくらは、仕事をちゃんとやるだけです」
「すごいっ……えらい」
ありがとう。おれは彼女に微笑んで、本格的にタイピングにかかった。田辺は、おれが思ったほど疲れていなさそうなことに安心したのか、いそいそとコートを着込み始めた。そして、パソコンとにらめっこを続けるおれを残して、風のように去っていった。
おれは一人、事務所に取り残された。
考えることなんて何もなかった。やらなきゃならないこと、あるいはできることは、はっきりと今のおれには感じ取ることができた。
今のおれは、幸せだ。とても不思議なことに。
と、そのとき。
事務所の電話がけたたましく鳴った。おれは何気なく手を伸ばし、受話器を取った。
そして。
電話の液晶ディスプレイに表示されている、相手の電話番号を見て、おれは言葉を失った。
『もしもし』
「あ……」
聞こえてきた声。
『……榊くん?』
「……はい」
塾長だった。
すっかり暗記している彼女の電話番号を、液晶は冷酷に出力していた。
少し疲れた年輩女性の声が、彼女のものであることは疑う余地もなかった。
できることなら疑いたかった。
おれは液晶から目をそらし、沈黙したプリンターに視線を落とした。プリンターはもう、一枚の書類も吐き出しはしない。
『わたし最近、そっちに行けてないけど……大丈夫? なんか困ったことない?』
何を惚けているんだ?
何が困ったことなんだ?
困っているって言ったら、忙しくて死にそうだって言ったら、助けに来てくれるっていうのか? 辞表を社長に送りつけて、弁護士立ててなんだかよくわからない交渉をしている人間が?
心がざわついていた。無性に拳を叩き付けたい気分だった。そんな気分に任せて、おれは……
おれは、
「冗談じゃ……」
『え?』
「冗談じゃないですよ!!」
おれは、あらん限りの声を振り絞って叫んでいた。
なんでそうしているのかわからなかった。
塾長に向かってこんな口をきいたのも初めてだった。
だが言葉だけは、澱むことを知らなかった。
「何がいまさら困ったことですか、何も言わないで勝手に辞めといていまさら何だってんですか!?」
『……別にあなたに言う必要は』
「必要があるかどうかと、そうしなきゃならないかどうかは、違うんですよ!!」
塾長は沈黙した。
その沈黙が痛々しかった。ざわざわと、ざわめいているおれの心もまた。苦しくはない。辛くもない。ただ沸き立って、どうしようもなくざわついて、胸の中にあるものを吐き出したくて仕方がない。そんなおれの心もまた。
「……今日、工藤ハルカの三者面談やったんですよ。帰り際に塾長先生によろしくって言われたんですよ。おれなんて答えればいいんですか? 苦笑いするしかなかったんですよ!」
目の奥が熱くなる。何かがおれの中で爆発する。それはおれのなかで、くすぶり、燃える場所を求めていた、小さくて、しかし確かな――
「みんな遊びで人生やってんじゃないんですよ? おれたちの仕事には子供の人生かかってるんですよ! 命がけで信頼してくれてるんですよ!!
それを全部ほっぽりだして、ほったらかしにして、逃げるみたいに出ていってそんなことっ!」
『榊くん……』
「そんなこと、赦されやしないんですよ!!」
言い切った。
おれは、自分の中でたぎっていた炎が、すっと静まっていくのを感じた。いつの間にか、おれは椅子を蹴って立ちあがっていた。おれはゆっくり膝を曲げ、腰を下ろした。そのままうずくまるように背中を丸めた。炎が静まっても、目の奥にある熱いものは消えてくれなかった。
それを吐き出してしまおうと思った瞬間、まだ受話器の向こうで塾長が沈黙していることに気付き――
おれは必死に堪え――
歯を食いしばって堪え――
『立派になったなあ、榊くん』
震える声でおれは応えた。
「全部あなたに教わったんです」
そしておれは受話器を置いた。
事務所の中におれ一人しかいないことを確かめると、おれは、泣いた。
家に飛んで帰るなり、おれはマークⅡの修理に取りかかった。
まず、接着してしまった肩と上腕の間の関節を、オルファのアートナイフで切り離す。普通のカッターより遥かに切れ味の鋭いナイフの刃が、誤って人差し指の腹に食い込む。おれは舌打ち一つしたあと、カットバンを巻いて済ませた。時間を食ってはいられない。急ぐ理由もないはずなのに。
切り離された関節のオス側は、メス側の穴に接着剤で固められて埋まっている。おれはナイフを巧みに使って、それを抉り取った。
そうして開いたメス側の穴に、PE製のパイプを埋め込むのが、次の目的だ。ポリエチレンはゴムのような軟性があるので、パイプの中に棒を突っ込めば、適度な摩擦力を働かせてくれる。関節にはぴったりの素材だ。
しかしこのメス側の穴は、手持ちのパイプを埋め込むには小さすぎる。おれはナイフををぐりぐり穴にねじ込んで、少しずつ穴の直径を広げていく。飽くまでも、慎重に、優しく。時折パイプを合わせて、大きさや形を確認しながら。もしここで穴を大きく広げすぎれば全てはおしゃかだ。
やっと丁度いい大きさまで穴が広がると、おれはアロンアルファを道具箱から取り出した。ポリエチレンはPS有機溶剤によって溶解しない……つまり、プラモ用接着剤では接着することができない。したがって、素材に関係なく接着できる瞬間接着剤に頼ることになる。
関節パーツと、広げた穴の断面に、丁寧にゼリー状のアロンアルファを塗り込む。あとは、ピンセットで慎重に穴にねじ込む。少し小さめの穴に、丸い関節パーツは綺麗にはまりこんだ。
これで、接着剤が乾けば第一段階は終了。次は肩の方だ。
肩の方には、パイプの穴に対応した太さの、棒をつけてやらねばならない。その棒をパイプに差しこめば、左右に回転する関節が再現できるというわけだ。
そのための棒には、丁度いい太さのランナーを使う。ランナーというのは、プラモのパーツをまとめている枠のことである。基本的にはゴミになるものだが、真っ直ぐな棒状をしており、太さもいろいろあるので、プラモを改造するときには棒状のパーツ代わりに使われることが多いのだ。
ランナーを二センチばかり、少し長めに切り取る。しかしニッパーで切り取った断面はでこぼこだ。断面に金ヤスリをかけ、それを真っ平らにならす。こうしておかなければ、うまく接着できない。
次に、肩パーツの、関節のオス側が生えていた部分に、小さな穴を開ける。ランナーがぎりぎり通るくらいのごくごく小さな穴でいい。この穴にさっきのランナーを通し、接着剤で固める。平面に棒を接着しようとしても、接着面の面積が小さいせいかうまくいかない。こうして穴を開けてその中に差し込めば、接着面積を増やし、強度を増すことができるだろう。
おれは脳がギリギリと音を立てるのではないかと思った。スペックの低いパソコンが、無茶なタスクを押しつけられた時に、CPUファンやハードディスクをギリギリ鳴らすようなものだ。おれの脳は、冷静にマークⅡの問題箇所を分析し、あり合わせの道具のみで可能な解決策をひねり出していった。
ある程度接着剤が乾いた所で、上腕と肩を接続してみた。すこし、パイプに対して棒が太すぎたようで、力を込めないとはまらない。これで上手く回るだろうか。ちゃんと修理できているだろうか。
指先に、ほんのすこし、捻る力を込める。
マークⅡの右腕は、滑らかに、右へと回転した。
「よしっ!」
おれは思わず声を上げた。
おれのガンダム・マークⅡは蘇ったのだ。
そのまま右腕を完成パーツ用の箱にしまい込んだ。完全に接着剤が乾くまで丸一日は放置しておこう。あとはディテールを着色して、仕上げの表面コート塗料をスプレーすれば、ようやくガンダム・マークⅡが完成する。
おれは天井を見上げ、細く長く息を吐いた。おれの机の上で、小さな巨大ロボットは着々と完成へ向かっている。途中で失敗して挫けても、その傷はありあわせの道具で癒すことができる。
そうだ。どんなに傷ついても、ヒーローはめげない。
必ず蘇る。
なぜなら彼は、正義のヒーローだからだ。
「はい、じゃあ今日はここまで」
おれは例によって最後まで教室に残っていた工藤ハルカに、ようやく授業の終わりを告げた。別にハルカと二人っきりになりたくて残していたわけではない。ハルカは部活で忙しいので、一人だけ、授業時間を少し遅くずらしているのだ。いくらおれが女の子大好きとはいえ、そんな公私混同はしない。
でも、ちょっぴりラッキィーと思っているのは秘密だ。
「ねー先生」
ハルカはおれの人差し指を、しげしげと見つめている。
「その指、どうしたの?」
一瞬なんのことかわからず、おれは自分の指に視線を落とす。そこにはぐるぐる巻きにされたカットバンの姿があった。ああ、と息を吐き、おれは苦笑する。まさか、塾の先生がガンダム作ってて指切ったなんて、格好悪くて言えやしない。
「ちょっと切っちゃってね」
「へー。大丈夫すか?」
「かすり傷だよ。平気平気」
「ふーん。よかった」
ハルカはにっこり微笑んだ。ああ、可愛い。許されるものなら、このまま彼女を抱きしめたい気分だ。しかしそんなことは許されないので、おれは我慢している。おれの我慢強さときたら、足がなくなってしまうほど座禅を続けたダルマ大師もこれほどではない。
よく考えたら、彼女が高校卒業して、うちの塾を辞めたら、もう先生と生徒という関係ではなくなるわけだ。それまであと一年三ヶ月。ずいぶん先の話だが、その時にはダメもとで声かけてみようかな? そんな気の長い妄想を抱きながら、おれは可愛らしいハルカの笑顔を見つめている。
「先生」
ハルカは、急に神妙な顔をした。おれは彼女の口調から、彼女なりの決意らしきものを感じ取って、無意識に背筋を正した。
「わたし、頑張ります。大学行って勉強して、塾の先生になりたいです」
「そうか」
はじめてハルカが、茶化さずに自分の夢を語っている。
おれは嬉しくて仕方がなくなって、心の底から、ハルカを祝福する笑みを浮かべた。それは、自分を先生らしく見せる為の、生徒を安心させる為の、状況判断回路によって導き出された笑顔ではない。
「頑張れ。おれにできることなら、なんでも協力するよ」
「はいっ」
ハルカの顔に、光が差す。
「その時は、ここの塾で雇ってくださいよ」
なんだそりゃ。遠回しな愛の告白か? いや考え過ぎか。
とにかくおれは、ハルカの真摯な視線を受け取り、胸を張ってこう答えた。
「いいよ。待ってるぜ」
嬉しそうに笑うハルカと、おれは見つめ合い――
そして、家に帰ったらガンダム・マークⅡに表面コート塗料をスプレーしようときめた。
(終)
机上のヒーロー 外清内ダク @darkcrowshin
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます