03-接着



 自分がひどい喪失感に襲われているのだと、唐突に悟ったのは、ガンダム・マークⅡの右腕を組み立てている時だった。

 おれは、自宅の1Kで、ちゃぶ台に向かい、ちっぽけなヒーロー・ロボットを組み立てている、小さな自分に気付いた。暖房代をケチって、肩から毛布にくるまっていたから、おれの姿は余計にちっぽけに見えただろう。

 おれが塾に勤めだしてから、もう三年半になる。最初は右も左もわからない、いわゆる「指示待ち症候群」にかかった、典型的なオタク大学生だった。それに根気よく仕事を教え、責任のなんたるかを教え、いっぱしの講師に仕立て上げ、自信を失って落ち込んでいる時や、大学を中退すると決めた時や、彼女と別れた時に、おれに的確なアドバイスをくれたのは、それは、

 それは、あの塾長だったのだ。

 当たり前に頼っていたもの。当たり前に信じていたもの。それが音もなく、いつのまにか、自分の手の届く所から消えてしまった。猛烈な不安。体の真ん中に空洞ができたような感覚。

 おれは身震いして、ちゃぶ台の縁を握りしめた。何故自分がそんなことをしているのか、自分でもわからなかった。たぶん、とにかく何かにすがりつきたくなったんだとおもう。

「っは」

 目をひん剥いて、おれは咳き込むように息を吐く。

「っはあ、っ」

 それからおれは、落ち着こうと努力した。まず呼吸を落ち着ける為に深呼吸した。目を閉じてしばらく何も考えず、暗闇だけを見つめていた。それからゆっくり目を開き、ちゃぶ台の上の、ガンダム・マークⅡに視線を落とした。そうだ、これを組み立てよう。手先の仕事に没頭すれば、きっと気も紛れる。

 おれは角瓶の接着剤をハケにとり、ぺたり、ぺたり、とパーツに塗り込んだ。これで、肩から延びる関節部を挟み込むようにして、上腕を接着すれば、右腕が――

「あっ!」

 パーツとパーツをしっかりつなぎ合わせ、ある程度乾燥させてから、おれは思わず声を上げた。それに気付いたのは、作りかけの腕でちょっと遊んでみようと、肩のところの関節を触っていた時だった。

 プラモの腕は、たいてい、肩と上腕の間に、横に回転する関節を持っている。人間の腕の捻りを再現するためだ。

 ところがおれは、その回転する関節部を、しっかりと接着してしまっていたのだ。

 これでは腕を捻ることができない。このままでは、腰に手を当ててふんぞりかえるポーズと、気を付けのポーズしかとれない、間抜けなロボットになってしまう。前に向けて銃を構えることさえできやしない。

「くそっ」

 おれは悪態を吐き、どうしようかと思案した。接着剤は、まだ完全乾燥こそしていないものの、パーツを固定するには充分なくらい乾燥している。いまから分解してもパーツが壊れるだけだ。しかし失敗したまま妥協するのか?

 ……もういい。どうしてこんなことで、家でまで悩まなきゃいけないんだ。

 おれは諦めて、半ば放り投げるように腕のパーツをしまうと、自分は布団の中に潜り込んだ。

 もう寝よう。何もかも忘れて、寝よう。

 明日からまたおれは働かなければならない。

 おれ以外に、彼女の仕事の段取りを知っている人間がいないんだから。

 そう思って気が楽だったはずなのに、今ではじわじわと、おれの腹部に刺すような痛みが広がり始めていた。



 ハルカの母親は、おれに笑顔を見せ、

「おかげさまで二学期は赤点だいぶ減って……先生、ありがとうございました」

「いやいや、ハルカさん最近がんばってましたからね。自分から補講に来たいなんて言ったりして」

 おれはそれに応える。お世辞ではない。ハルカがここのところ、やけに張り切っていたのは純然たる事実だ。

 今日は、教室にて三者面談である。新しく入塾を希望している子供にするのは相談会だが、塾に在籍している生徒にするのは、単に三者面談と呼んでいる。毎学期末、つまり年に三回、保護者と本人を教室に呼んで、二十分ばかり授業の報告やら雑談やらをする。これは相談会とは違って、担当生徒を持つ講師なら全員やっていることだ。

 朝から何人もの生徒の面談をこなし、ようやく最後にやってきたのが、あのハルカだった。彼女の顔が見られるとなると、またしてもおれは心が躍る。おれは最近になって、この子に恋心を抱いているのだとはっきり自覚するようになっていた。といっても、別に変な気を起こそうというわけではない。路傍の花を愛でるようなもの。おれは、彼女のかわいらしい姿を見ているだけで満足なのだ。

「なっ、よく頑張ったもんなー?」

「うえっへっへ」

 照れて変な笑い声をあげるハルカは、さっきからじっとおれの顔を見ている。何を考えているのか知らないが。

「ただ、宿題忘れが多いのがちょっとね……」

「うっ」

「そうなんですよー!」

 ハルカは顔をひきつらせ、母親は身を乗り出して頷く。何かにつけて動きの多い家系である。

「もう家に帰ったらぜんっっぜん勉強しないんですっ! 先生なんとか言って下さい!」

「いやあいつも言ってるんですけどねえ? ハルカさん、なんでうちではやらないのん? 塾来たらちゃんとやってるのに」

「いやーええー?」

 決まりが悪そうにハルカは頭を掻く。

「なんか、勉強するきしないんすよー。なんか集中できないっていうか」

 ……要するに人に見張って貰わないと頑張らないってことだろ。おれは苦笑する。もし彼女が自宅でも自発的に勉強できるようになったなら、大学も決して夢ではない。そう分析して、おれはそこから攻めてみようかと思いつく。

「でもね、大学行きたいって言ってたでしょ?」

「あ、はい」

「塾の先生になりたいって」

 それを聞いて、母親がぷっと吹き出す。必死に笑いを堪えているふうだ。おれはその母親に向かって、

「ご存知でした? 前は学校の先生がいいって言うてたのに、なんだかいきなり」

「ええ、そう、聞きました。もうー、言うことコロコロ変わるんだから」

「まあでもねえ、目標持つのはいいことですからね。それで、ハルカさんっ」

 おれは、ぼうっと窓を眺めていたハルカの気を惹こうと、彼女に声をかける。いきなり話の中に引っ張り込まれて、ハルカはびくりと肩を震わせた。……いきなりもなにも、今は君の話をしてる最中なんだぞ。人の話を聞け、人の話を。

「目標があるんだから、ちゃんと努力しないとそれは叶わないよ」

「はいー」

 ハルカは不服そうだ。不服そうにされても困る。世の中、頑張らずになんとかなるほど親切設計にはなっていないのだ。

 奇跡というのは、起こったらめっけもんなのであって、起こることを期待するものではない。

「ま、幸いまだあと一年あるんだし。これから頑張りなさい。ね?」

「はーい」

「先生よろしくお願いします」

 ハルカの母親が、本人に代わって頭を下げた。おれは微笑み、できるだけ、頼りになる先生の姿を装う。

 結局、先生なんていう存在は無力なものなのだ。本当にハルカのためにしてやれることなんて何一つないといってもいい。ハルカの成績を上げることは、どんな優秀な先生にもできやしないだろう。初歩の力学と同じだ。おれに物理を教えてくれた高校の先生は、「ハンドパワーは存在しない」というのが口癖だった。どんなに強い力でも、対象に触れなければ全く効果を及ぼさないのだ。

 そして、本当の意味で他人と触れ合える人間は、どこにもいない。

 ハルカのために努力できるのは、ハルカ自身しかいないのである。

 先生の仕事はただ一つ、子供のために何かをするのではなく、子供のためにそこにいるということなのだ。

 頼りになる先生という存在になって、ただそこにじっと立っている。それこそが、おれにできる最大の仕事なのだ。

「任せてください」

 おれの言葉も、おれの仕草も、全てがそのためにこそある。

「他になにかございますか? ご質問とか」

 母親は安心しきった表情になって、無言で首を横に振る。おれにもできる。ハルカと、ハルカの母親に、この幸せそうな笑顔を浮かべさせてやることが。かつては塾長にしかできなかったことが、おれにもできる。

「じゃあ今日はこれで。また三学期、頑張ろうね」

「はーい」

 ハルカは膝に手を乗せて立ちあがった。母親もそれをみて席を立つ。これで三者面談は全て終了。おれは先生として、たぶん、不足のない仕事ができたのだろう。

 ハルカの母親は、帰り際にもう一度、深く頭を下げた。そして、

「それじゃあ失礼しますー。塾長先生にもよろしくお伝えください」

 おれは、微かに息を飲んだ。

 笑みを浮かべ、小さく、はい、と呟く。

 その笑みが苦笑いに見えなかったかどうかだけが、気懸かりだった。



 唐突にフラッシュバックしたのは、一年前のおれの姿だった。

「うっ」

 その時おれは便器の中に胃液をぶちまけ、

「げェッ」

 その胃液が、わずかに赤く染まっているのを、呆然と見つめていた。

 胃炎だ。何も食べていないのに、吐き気だけがおれを苦しめる。その日は散々だった。まともに授業さえできなかった。塾長にフォローしてもらわなかったら、一体どうなっていただろうか。

 だが感謝する気持ちもそのときのおれにはなかった。生徒に申し訳ないと思う気持ちも。それどころではなかった。教室のトイレの便器にしがみつき、ただ分泌される胃液を口から吐き出し、混乱し混濁した意識の中で、怨みとも、悔しさとも、愛しさともつかない感情に溺れているだけだった。

 好きだったのに。

 好きだって言ってくれたのに。

 愛し合っているはずなのに。

 どうしておれから離れていくんだ? 応えてくれ――

 その時のおれは、年上の彼女にふられて――原因は、おれが彼女よりはるかに年下であるということ、ただそれだけだった――体調を著しく崩していた。

 おれはかねてより作家を目指しており、細々と作品を書きためていた。だがその出来映えに自信が持てなくなり、面白いと思える作品が全くかけなくなり、そのせいでストレスをため込み続けていたのだった。その反動からか、大人の女性に恋をして、思いっきり甘えた。彼女は思いっきりおれを甘やかしてくれた。お互いに、深く相手に依存していた。

 だがそんなもたれ合いの関係が長続きするはずはない。彼女はおれより少しだけ早く現実に気付き、同年代の、おれよりずっと経済力のある男と結婚するために、おれから離れていった。今考えればそれは至極妥当な選択肢だったのだが、当時のおれにそのことは理解できなかった。おれはただただ悲しくて、苦しくて、辛くて、ため込んだストレスが爆発するのに任せて、胃液を吐き出し続けていた。

 ふと、おれはトイレのドアが開いたのに気付いた。

 塾長がそこに立っていた。蛆虫のようなおれを上から見下ろし、五十前の女性は、冷たくおれを見下ろしていた。念のため言っておくが、おれが恋をしていた相手というのは塾長のことではない。塾長はおれの子供じみた恋愛とは一切無関係だ。

「榊くん、大丈夫?」

 おれは青ざめた顔をあげ、辛うじてトイレットペーパーで口元を拭った。赤く色づいた胃液と一緒にそれをトイレに流し、

「……ちょっと落ち着きました」

「そう」

 塾長は表情をわずかに曇らせた。おれはふらふらと立ち上がり、教室に戻り、さっきまで生徒たちが座っていた椅子に倒れるように腰掛けた。塾長は向かい側に回ると、同じく椅子に座っておれの顔を覗き込んだ。

 おれには彼女の行動が不可解だった。その時のおれは、人の好意というものが一切信じられなくなっていたからだ。

「榊くん、辛いことは色々あるだろうけど」

 塾長には、以前、年上の彼女と付き合っていると、自慢げに喋ってしまったことがある。おおよそ事情は察しているに違いない。

「それは生徒には関係ないことやろ?」

 おれははいと言う気力さえなく、わずかに首を縦に振った。

「げえげえやってても、生徒には迷惑かけるだけやんか。そういうときは、生徒のためにどうしたらいいかだけ考えなさい。そうやって仕事のことだけ考えとけば、そのうちなんとかなるもんよ」

 塾長の言葉はおれには一切信じられなかった。

 だがおれは、その言葉にすがった。溺れる者は藁にもすがる、という気持ちで。おれは考えた。生徒のことだけ。この子たちにおれは何ができるだろう。どうすればこの子たちのためになるだろう。そのことだけを考えるようにした。翌日の授業では、腹痛は我慢できる程度に収まっていた。一週間たてば、ほとんど腹痛を感じなくなっていた。

 おれが立ち直った理由は、一つではない。全てがおれをはげまし、おれを立ち直らせてくれた。

 だが、その中で最も大きなものが、彼女の言葉であることは間違いない。



(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る