02-オフレコ



「じゃあ先生、よろしくおねがいします」

 席を立った母親は、おれに向かってぺこりと頭を下げた。瞬時におれの脳の中で、状況判断回路が唸りを上げる。おれはこういうところが常識的ではない。挨拶されたら、挨拶しかえす。こういう挨拶には、こう返す。普通の人なら反射的に、自然に、感覚的にできることが、おれにはできない。おれは脳に収められた膨大な知識の倉庫から、正しい反応を瞬時に導き出して、自分が相手からどう見られているかを計算しながら、にっこりと微笑む。

「はい、お任せください。じゃあ、明後日、待ってるからね」

 後半は、母親のそばでにやついている少女に向けてだ。まだ九歳の少女は恥ずかしがって、

「んー?」

 母親にすがりつきながら、息を吐く。おれは苦笑した。相談会の最初の数分で、おれは既にこの子の性質を見抜いていた。ひたすら相手の顔色をうかがい、相手が望む自分を演出して見せようとするタイプの子供だ。

 この子はまだ小学校二年生だというのに、週に二回他の塾に通っており、毎日二時間以上も塾の宿題をやっているという。そして母親は、心底恥ずかしそうに、ほんとにこの子は勉強しないんです、と言ってのける。

 今時めずらしい、徹底した教育ママだ。バブル絶頂期はこういう親も多かったという。こういう親のもとで育った子に多いのが、無闇に小賢しく自分を飾るタイプ。ちょうどこの少女のように。

 可哀想に。この子は、一時間の相談会の中で、一体何回おれに向かって愛想笑いをしただろう。

「ほらあいちゃん、お願いしますは?」

「おねがいしまっす!」

 正解を理解した少女は、おれに向かって深々と頭を下げる。おれは軽く手を振り、

「ああ、ちゃんと言えてえらいなあ。それじゃあ、明後日ね」

「はーい、失礼しますー」

「はい、お気を付けて」

 母親に手を引かれて事務所から出ていく二人を見送り、おれはその背に一礼する。おれが顔を上げた時、まだ少女がドアの向こうからこちらを見ていたので、おれは笑いながら手を振ってやった。

 初めて嬉しそうな微笑みを見せて、少女は道路の向こうに消えていった。

 母子の姿が見えなくなると、おれは笑みを凍り付かせた。

 おれの胸を貫いていったのは、猛烈な安堵感だった。肩の上に背負っていた重い荷物を、いっぺんに降ろしたような感覚だった。おれはふらつきながら、事務所の椅子にどっかりと腰を下ろし、大きく溜息を吐く。

「おつかれさまです」

 事務所の奥の部屋から笑いながら出てきたのは、同僚の田辺講師である。おれより四つか五つ年上の――正確な年齢は不詳である――彼女は、セミロングの黒髪を揺らしながら、おれが書き込んだ相談会の記録書類に目を落とす。

「なんか、すごいお母さんでしたねー」

 この事務所は、ついたてで部屋をパーティションしているに過ぎない。よって、奥の部屋にひっこんでいた田辺にも、相談会の声はまる聞こえなのだ。

「すごいのは子供のほうですよ。小二でよくも毎日二時間も勉強できるんだ」

「普通そんなに我慢できないですよねえ。えらいわあ」

 そこで田辺は何かに気付いたように顔を上げ、おれに向かってにやついてみせる。

「榊先生、ずっとえらいばっか言ってたでしょ!」

 おれは苦笑する。自分でも、えらいえらいと子供を誉めてばっかりの相談会だったと思っていたところだ。

「実際、そう思いますから、つい……佐藤に爪の垢でも煎じて飲ませたいですよ」

 それを聞いて田辺は爆笑した。佐藤というのは、おれが担当している中学三年生の生徒で、彼のなまけっぷりときたらスマトラ産ミツユビナマケモノとタメを張る。

「あれで、母親はまだ勉強させようっていうんですからね。ウチに来た時は少し休ませてあげるくらいで丁度いいかもしれない」

「あー、そうかも」

「……あの子ね」

 突然声を低くしたおれに、田辺は目をぱちくりさせる。

「なにかっていうと、ぼくに愛想笑いするんですよ」

「うわっ、やだぁー。そんな子、いややー。榊先生、任せます!」

「はいはい」

 と、その時、事務所の電話がけたたましく鳴った。おそらく社長が、相談会の終わった時間を見計らってかけてきたのだろう。おれは田辺に目で合図して自分が出ると伝えると、短縮ボタンがやまほどついた業務用電話の受話器を取る。

「はい、本部です」

『相談会どうやったー?』

 予想どおりの早口がおれの耳をつく。社長である。名前も言わないでいきなり用件から入るのは、混乱するからやめてほしいものだ。今回に限っては、誰からの電話か予想がついていたからよいのだが。

「冬期講座のみで入塾です」

『おっ!』

 社長は驚いたように声を上げた。

『お前、初めてやったなあ?』

「ええ」

『それで成功か』

「そうです」

『ほ。さすがやな』

 何がさすがなんだ。おれは田辺に見られないように、ついたての影で肩をすくめた。とってつけたように誉められても大して嬉しくはない。

「……相手がもともと入塾する気で来てましたから」

『またまた、ご謙遜を。ほんで、入金の予定は?』

「明後日の授業初日に、おばあさんが持ってこられる予定です」

『ふんふんふんふんふん。オーケーわかった、とりあえず、おつかれさん。今日はこれからどうするんや?』

「授業まで時間がありますから、今の子のファイルつくったら一旦家に帰って休みます」

『よっしゃ。ほな、よろしく』

「はい」

 というおれの返事を聞きもせず、一方的に社長は電話を切った。おれは溜息をつきながら受話器を置く。

 ふと背後に気配を感じて振り返ると、田辺がひょっこり顔を覗かせている。

「溜息ばっかりついてると、幸せが逃げてきますよ」

「大丈夫ですよ。逃げる幸せもないから」

「えええーっ、そんなっ、悲観的なっ」

 おれは微笑み、生徒のファイルを作り始める。明後日からの授業をシミュレートして、あれこれ考えを巡らせる。

 毎日二時間も勉強しているなら、基本はきちんと固められていると見ていい。だが、そういう子に限って、ぽろっとある一分野だけさっぱり理解していない、ということもよくある。まずは教科書全体を少しずつ演習してみて、弱点を探ることから始めなければならない。母親がいう自己申告の弱点――文章題が苦手――というのは眉唾物だ。文章題が苦手なのではなく、文章題の方が難度が高いのだということを理解していないだけだろう。

 あとは、本を読ませるというのも手だ。うちにある本を持ってくるよう言っておいた。子供のうちから児童文学に親しんでおくのは、勉強にも大いに役立つ。なんたって、教科書は全て日本語で書いてあるのである。

 ……先述の佐藤なんかは、中三なのに、漢字が読めないせいで数学の問題が理解できない、なんてことすらままある。まあそれは極端な例としても、たとえば……

 ふと、おれは考えを中断させられた。おれの考えは、いつも演説調でまとめられる。自分を二つに分けて、一つに演説をさせ、もう一つにそれを聞かせる。もう一つの自分が理解できるような演説ができれば合格。そうでなければその都度演説を修正する。今もその例に違わずもう一つの自分に演説を聴かせていたのだが、その演説を聞いているらしいもう一人の人物に気付いたのである。

「ねー榊先生」

 田辺だった。もちろん、おれの脳内の演説を聴いていたわけがない。ただ、おれの顔を覗き込んでいただけだ。

 彼女が神妙な顔をしていることにおれは気付いた。おれは反射的に顔を曇らせる。なにか、良くない空気を感じ取って。

「なんですか?」

「……塾長のこと、聞いてます?」

 おれは眉をひそめた。彼女がこんなことを言うということは、ひょっとして塾長の容態は思ったより悪いのか? そう簡単には復帰できないような病気なのだろうか。社長は何も詳しいことを教えてくれないから、問題ないんだろうと早合点していたのだが。

「……ダウンしたって」

「あのね、これオフレコで聞いたんですけど……社長の家に辞表送りつけたみたいです」

 おれは、

 時間が止まった気がした。

 何がなんだかわからなかった。おれは笑っているような泣いているような怒っているような困っているような変な顔をして、ただ田辺の顔をじっと見つめていた。おれの脳内にある状況判断回路は堂々巡りを繰り返していた。プログラムミスだ。バグだ。回路がサブ回路を呼び出して、サブ回路がサブサブ回路を呼び出して、サブサブ回路がサブサブサブ回路を呼び出して、それが無限回続く構造になっている。階層が無限に増大していく。脳のスタック領域が圧迫されていく。

「はっ」

 おれは、辛うじて息を吐くことに成功した。

 田辺は早口でまくし立てるように、

「これ内緒にしといてくださいね。オフレコなんで……でもなんか、そういうことみたいです。だから多分、塾長の仕事、これから全部榊先生がやることになるとおもいますよ」

「……なんですか、それ」

 おれの抽象的な問いに、田辺はコピー機の方を向いた。たぶん視線をそらしたんだろう。

 おれは溜息を吐いて、火照った額に手のひらをあてがった。手のひらのわずかな冷たさが、今のおれの頭には心地よい。だがすぐに手もぬくもってしまって、おれは行き場のない熱を頭の中に抱えて、途方に暮れる。

「そうなんですか」

 その挙げ句にでてきた言葉がこれだ。

「がんばってくださいね。あたしにできることだったら、ちょっとくらいなら手伝いますから」

「……ええ」

「ごめんなさい、でも言っといたほうがいいと思って……」

「そうですね」

「じゃああたし、お先に……」

「あ、はい。お疲れさまでした」

 まるでロボットのように事務的な返事をしながら、おれは事務所の椅子の背もたれを、ぎしぎしと鳴らしていた。田辺がドアのところでぺこりとおじぎをして、出ていった。

 おれは新しい生徒のファイルを作りながら、ずっと、ぽかんと口を開けていた。



(つづく)

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