机上のヒーロー

外清内ダク

01-抜擢



「塾の先生になりたい?」

 と、声を裏返したおれ、榊サトルは塾講師だった。二十三歳、独身、彼女なし。子供のころから優等生を貫いてきたおれだったが、大阪の某有名大学に進学したところで、道を誤った。簡単に言えば、遊びほうけてまともに勉強をしなかった。人間、監視してくれる人がいないとなかなか規則正しい生活はできないわけで、また人から監視されることに慣れすぎていた万年優等生であるからして……つまり、おれは自分にそういう言い訳をしながら、それがただの言い訳に過ぎないことにも自覚的である、情けない男なのだった。

「……なんでまた唐突に」

 だから、おれの隣に座って照れ臭そうにはにかむ女子高生の、まっすぐな憧れの視線は、おれにはくすぐったい。

 授業の後、最後まで教室に残っていた工藤ハルカと、おれは楽しいひとときを過ごしていた。ハルカは十六歳、もうじき十七になる。年のわりには子供っぽいところがある、かわいい子だ。こうしてただ話してるだけで、おれは心が躍るようだ。

 ハルカは小さく小首をかしげ、そんなおれの心をさらにくすぐりながら、

「えー、なんとなくっ」

 両手の指を組んで、思いっきり背伸びをした。ハルカの柔らかそうなほっぺたとみみたぶが、すうっと桜色に染まる。

「なんかかっこいいじゃないっすか、塾の先生って」

「そうかな……」

「そうですよー、だからやっぱり、大学行っといたほうがいいですか?」

「そりゃ、まあな」

 おれは腕組みをして、難しい顔をする。正直、状況は難しい。

 ハルカの通っている春日高校は、大阪の公立のなかでは上位に属する学校だ。おれがかつて通っていた倉敷の進学校よりも、さらにワン・ランク上といったところだろう。順調に三年間過ごせばさして苦もなく大学まで持ち上げてくれる。

 しかし本人がサボっていれば話は別だ。そもそも、今からちょうど一年ほど前、ハルカはこのままでは留年だというので塾に駆け込んできたのだ。おれの力もあって(半分は自慢、半分は事実である)赤点の数は確実に減っている。今年は留年を心配する必要はないだろう。だがそこまでである。大学進学となると、やはりこの点数では難しい。

 春日高校の合唱部は非常に精力的に活動しており、そこに所属する自分は勉強する暇も無い、というのがハルカの主張。納得できない理由ではないが、百人からいるという合唱部のメンバーが全員留年の危機というわけでもあるまい。要は、部活を言い訳のネタにしているだけだ。

 優等生のはずなのに、サボる理由を探している。本質的には怠け者。おれと同じだ。そのへんが、おれがこの子に過剰に感情移入してしまっている理由のひとつでもある。

「行かなくてもなんとかなるけどね」

「えっそうなんですか?」

「そうだよ? 要は生徒が勉強すりゃいいんだからさ。メインの仕事は監視員だよ。居眠りしてる生徒をつっついて起こせばいいの」

「へえーへえーへえー」

「トリビアかよ!」

「えへへ」

 じっと、ハルカはおれを見つめている。おれはどぎまぎしてしまって……無理もないだろう? 相手は子供だが、おれだって大人というほどには長生きしていない。

「ま、学があるにこしたこたぁない。やる気があるなら手伝うよ。がんばってね」

「えええー、がんばるのやだなあ」

「がんばれよ! 自分で言ったんだろ!」

「はぁい、がんばりまーす」

 おれが肩をすくめて苦笑していると、ハルカは甘えた視線を向けてくる。それから目をそらして、意味ありげに沈黙する。その横顔が、何か思い詰めたように見えるのは、おれの気のせいか。

 そんな顔をしてみせるもんじゃないよ。心の中でそう呟いて、おれは小さく短く息を吐く。

 と、その時だった。教室の隅で、黒い電話が電子音を鳴らし始めた。この教室の番号は主に塾内部での連絡に使っていて、かかってくる電話の七割は事務所からの業務連絡。二割は出先の社長からの連絡で、あと一割は間違い電話だ。業務連絡は生徒の遅刻欠席の情報がほとんどなので、授業後のこの時間にくるのは珍しい。

 多分、社長が何かの用事でかけてきたのだろう。こちらは生徒との大切なコミュニケーションの最中だというのに。

 おれはけだるげに、ハルカの隣の椅子から立ち上がる。

「ごめん、ちょっと」

「あ、はーい」

 おもむろに受話器を取り、おれは疲れた声を出した。

「はい、M教室」

『榊、今ちょっとええか?』

 やはり社長だ。早口でいまひとつ聞き取りにくい、独特の口調を聞き、おれは困ったような顔をする。ふと横をみると、ハルカは興味津々といった顔付きでおれの横顔を見上げている。おれは彼女にほほ笑みながら、

「ええ、なんですか?」

『実はちょっと、塾長がダウンしてな』

 おれの笑みが凍りついた。塾長は塾運営の実務を取り仕切っているうちの幹部で、バイト時代からの三年半で、おれをいっぱしの講師に育ててくれた人でもある。もう年齢は五十近いはずだが、実年齢より十歳以上は若く見える、快活な女性だ。

 それが体調不良となれば、塾全体の一大事。会社の運営そのものさえ危うくなる。そのことは、以前彼女が肺炎で入院した時に実証済みだ。

『そんで、明日相談会やってくれへんかっ』

 相談会というのは、新しい生徒を塾に向かえる時必ず執り行う、生徒・親との三者面談である。ここで相手をその気にさせることができれば、晴れて入塾契約、我々講師の飯の種を稼ぐ準備ができることになる。会社にとっては最も大切な仕事と言っていい。

 今まではすべて塾長自らがこれを仕切ってきた。おれも、いずれはこの仕事ができるように、何度となく会に同席して研修はしていたが……

「それは……」

『一人でやったことあるか?』

「いえ、ありません」

『まあ……しゃあねえなあ。わしも外で仕事があってどうにもならんのや。だめでもともとで、やってくれんか?』

 おれは言葉に詰まった。おれにできるのか? 塾長が誰にも任せていなかった仕事。一番難しい、一番大切な仕事。おれは乾いた口を魚みたいにぱくぱくさせ、

「ええと……」

 ふと、横からの視線に気づく。ハルカがおれを、不思議そうに見つめている。おれはそんなに青ざめていただろうか。おれはそんなに情けない顔をしていただろうか。

 おれは唇に力を込めて、きゅっと一文字に結んだ。他にどうしようもないんだ。おれ以外誰にもできないんだ。そう思うと、重圧がふっと軽くなる。だめもとでいいなら、気楽なものだ。

「わかりました」

 もう一度、ハルカに微笑む。ハルカもまた、おれに微笑み返す。

「ぼくがやります」



 あらためて思いだしてみれば、あれはもう二年も前のことになるか。おれは結局、一時間かそこらの間、ひきつった愛想笑いを浮かべていることしかできなかった。

 というのは、初めて相談会に同席した時のことである。その時は助手扱いで、塾長が置き忘れた筆記用具を取りに行ったり、担当講師として紹介されれば顔をますます引きつらせて笑ったり、電話がかかってくれば塾長の代わりに応対したり……正直に言って、電話が鳴った時は心底ほっとした。お客さんの前に座っている緊張から、一時的にとはいえ解放されるのだから。

 相談会は成功に終わり、娘を連れてきた母親は、安心しきった顔で笑いながら、契約書にサインして帰って行った。

 結果的に成功したとはいえ、無様な醜態を晒してしまったことに変わりはない。おれは助手の仕事をこなすどころか、邪魔をしないように縮こまっているのが精一杯だった。事実、客が帰った後も塾長は難しい顔をして、おれの存在など忘れているかのように、相談会で決定した授業の方針を、書類に記入している。

 おれは居心地が悪くて、椅子に座ったまま何かの事務処理をしているふりをする。仕事なんてありはしないことは、塾長だって百も承知なのだが。

「榊君」

「はい」

 突然名前を呼ばれたおれは、肩を震わせながら顔を上げた。彼女は鋭い視線をおれに向け、

「もっとなんか喋って」

「え、あ、はあ……」

「だまーって座ってるのは、ひとえに不気味。人からどう見られてるかもっと考えなさい」

「……はい」

 彼女からのアドバイスというか、おしかりは、それでおしまいだった。

 おれは、唇を噛んで目をそらすことしかできなかった。

 その様子が人からどう見えるかなんて、考えもせずに。



 悪い癖だ。女の子の前に立つと、ついつい見栄を張ってしまう。

 おれは自宅の1Kで、毛布をひざの上に乗せ、調子の悪いエアコンに微かな暖気を吐き出させながら、ちゃぶ台のプラモデルをいじくりまわすのに没頭していた。

 豚小屋のように汚れた男の城は、揮発したトルエン――俗称シンナー――の臭いに満たされて、その中にいるおれを軽い酩酊状態に陥らせる。臭いの原因たるプラモデル用接着剤に、専用のハケをぺたぺたと浸ける。透明な角瓶に貼られたラベルの、「有機溶剤が含まれており吸うと有害で……」という注意書きを読みながら、おれは寒そうな窓の外にちらりと目をやる。やだなあ。窓開けたくない。しかしこのまま中毒死したとしたら、どうだろう。このガンダム・マークⅡと心中か?

 おれは、わずかに窓を開け、毛布を頭からかぶることで妥協した。

 縮尺百四十四分の一のRX―178ガンダム・マークⅡは、もう二十年近くも昔に発売されたキットだ。当時のガンダム・プラモデルは、今のようにニッパーひとつで一から十まで組み上げられる仕組みにはなっていない。芳香を――ベンゼン環は芳香族と呼ばれているんだからトルエンの臭いは誰がなんと言おうと芳香だ――撒き散らすPS有機溶剤を使って、ひとつひとつ細かなパーツを組み立てて行かねばならない。

 下腕のパーツを上腕のとつなぎあわせたところで、おれは大きくため息をつき、接着剤の瓶に蓋をした。夜風が寒くてしかたがない。ついでに窓もぴしゃりと閉じる。

 おれはのそのそとベッドに這って行き、毛布とからまり合いながら、布団の中に入り込んだ。首から上だけを亀のように突き出し、洗濯ばさみでしっかりと挟まれたままちゃぶ台の上に放置された、ガンダム・マークⅡのパーツを眺める。

 ああしておけば、二日ほどで接着剤が乾く。それから丁寧にヤスリをかけてはみ出した接着剤を削れば、パーツの継ぎ目がきれいに消える。そうしたら、組み上げてからでは塗装しにくい奥まったところを塗装した後、別のパーツに組み込みながら、また接着。それを何度か繰り返し、半月から一カ月ほどでやっと身長十センチ少々の巨大ロボットが完成する。気の長い趣味だが、その分安価で長持ちするのが強みだ。

 現実逃避の時間は終わりだ。おれは布団の中で身震いする。

 ハルカの手前、元気よく返事をしたのはよいものの、自信はさっぱり沸いてこない。相談会本番は明日だというのに。

 明日の、午後二時。

 それが決戦の時。

「……そんな大それたもんじゃないか」

 おれはリモコンで明かりを消し、頭まで布団を引っ張り上げる。

 自分がやるしかないなら気が楽だ。いつもはそんな負け惜しみばかり言うおれだが、今回ばかりは負け惜しみではない。心底から気が楽なのだ。

 その証拠に、いつもおれを悩ませる胃痛が起こらない。それは、今のおれにとって唯一の救いだった。



(つづく)

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